2 三草山へ
一ノ谷の決戦を前に、平氏一門は軍議を開く。
源氏の搦め手が向かう先として名が挙がったのは――三草山。
そして師盛は、望んでいた「戦う機会」を得ることになる。
だが、それは少年にとって、あまりにも重い役目だった。
知盛の予想は当たった。
翌日、福原にもたらされた知らせは、平氏追討の院宣が源頼朝に出されたというものだった。
平氏の武将たちは騒然となった。やはり彼らは、院からの使者の言葉を信じていた。和平が成立するものと、信じて疑っていなかった。
怒鳴る者、泣きわめく者、当たり散らし暴れる者……しかし、師盛は冷静でいられた。知盛の言葉からある程度予測はついていたから。そして、知盛自身が冷静だったから。
平氏追討の院宣を受けて、二月二日の夜、軍議が行われた。
「院を通して、源氏よりの使者がまいった。矢合わせは、二月七日、卯の剋、一ノ谷の東西木戸にて……とのことだ」
知盛の言葉に、宗盛が付け加えた。
「しかし、二月四日は、亡き清盛殿の祥月命日……法要をしなければならない。故に、進軍はその後ということに……」
師盛は、知盛がわずかに眉をひそめたのに気づいた。
法要などとのんきなことを言っている宗盛に腹を立てているのかもしれない。しかし、こちらが法要を営んでいる間は、源氏も戦を仕掛けてくることはないのだろう。
知盛の不機嫌さには、誰も気づいてはいなかった。彼は、表情を顕わにする人間ではなかったので。
おそらく、気づいたのは師盛一人。日頃から、常に知盛の表情を見続けている彼にだけわかるくらいの変化だったのだ。
知盛は、わずかにひそめていた眉を開き、無表情のまま続けた。
「これより、布陣を申し渡す」
東、生田口の大将軍は、知盛。副将軍に本三位中将重衡。
西、一ノ谷城の大将軍は、薩摩守忠度。副将軍に左馬守行盛。
北方の夢野口の大将軍は越前守通盛、副将軍に能登守教経。
「……以上」
知盛の言葉が終わっても、しばらくは誰も口を開かなかった。
しばらくの間の後、口火を切ったのは、意外な人物だった。
「北辺は……この三草山あたりに布陣はしないのですか?」
地図をさして問うたのは、平月子――平時忠の娘だった。女の身でありながら、何故か軍議に参加している。
当初は、みな不審に思っている様子だったが、知盛が自分の隣に座らせているので、黙認していた。
だが、月子の発言は、驚くほど的確で、その内容は武勇を誇る能登守教経でさえ認めるものだった。
それ以来、彼女が軍議に参加することに、異を唱える者はいない。
月子は知盛の恋人なのではないか……などという噂も聞こえたが、これが真実でないことを師盛は知っている。何故なら、月子は兄、有盛の想い人だからだ。
最近、月子が大病を患い、回復はしたものの記憶が曖昧になってしまったとかで、少し疎遠になっているようだが、兄の気持ちは変わっていない。
一時、兄も知盛と月子の関係を疑っていたようだが、最近、
「あの二人の間にあるものは、『恋』ではない」
と、言っていたのを聞いている。
月子の口から「三草山」と発せられた直後、侮るような口調の言葉が続いた。
「戦は、一ノ谷だぞ。そんな裏手で、いったい何を?」
――宗盛だった。
明らかに「女のくせに」という蔑んだ表情――。
だが、月子は冷静だった。
「源氏の大手軍は、確かに生田口を突破しようとするでしょう。しかし、搦手は……おそらくこの三草山を越えてきます。ここで、搦手を食い止めることができれば、一ノ谷の戦は、我々にとって有利に進められます」
「そんなことをしなくても、一ノ谷城はこの行盛が守ります」
憤然とした口調で言ったのは、一ノ谷の西を守る行盛。
「搦手の大将は、宇治川の時と同じ、九郎義経とか言う、頼朝の弟だろう? 長い間奥州にいた田舎者……おそれるほどの者ではあるまい」
それに続いたのは、教経、軽蔑の情を隠しもしない。
九郎義経という名は、師盛も知っている。宇治川の戦で木曽義仲を討ち取った武将だが、戦上手の教経が「怖れるほどの者ではない」というのなら、その通りなのだろう……と、師盛は考えていたが――。
「いや、月子の言うとおりかもしれぬ」
知盛の意外な言葉に、師盛は思わず顔を上げた。穏やかな表情はいつもの通りだが、物言いはきっぱりとしていた。
「北辺の守備は必要だろう。そこで源氏の搦手軍を止められれば……」
「しかし、誰が行くのだ?」
渋い顔で言ったのは、宗盛だった。反対するつもりはないのだろうが、不満はあらわにしている。
「播磨まで行くには、少なくとも明日には発たねばならない。そうなれば、法要には参加できまい」
知盛はそれには答えず、みなを見渡した。
「誰か、行ってくれぬか?」
答える者はいない。当然だと、師盛も思う。
本隊を離れ、活躍できるかどうかもわからない北辺へなど、自分だって行きたくはない。
誰も名乗りを上げずに、時ばかりが過ぎる。やがて、諦めたように口を開いたのは、知盛だった。
「仕方がない、私が行こう」
「とんでもない!」
宗盛が叫んだ。
「知盛は、平氏の総大将。福原を離れてはならぬ」
「何をおっしゃいます、兄上。平氏の総大将は、兄上でしょう」
知盛は微笑んだ。しかし、その微笑みは知盛らしからぬ皮肉な色が見える。おそらく、誰も気づかない程度のかすかなものだが……。
しかし、宗盛は気づいたのか、赤面し、口ごもりながらも言った。
「私は、安徳天皇さまをお守りせねばならない。侍大将は、知盛に任せたはずだ」
「しかし、北辺へは、誰かが行かねばなりません」
「私が、参ります!」
その声は、師盛のすぐ隣から発せられた。
「北辺へは、この有盛が参りましょう」
「有盛さま!」
叫んだのは、月子だった。
驚きと哀しみが綯い交ぜになった表情で、兄を見つめている。その月子を、兄は優しい微笑みで見返している。
「安心して下さい。三草山、この有盛が守って見せます」
「ですが、有盛さまおひとりでは、あまりにも……」
今まで冷静だった月子が、ひどくうろたえている。
疎遠になったと思っていたけれど、このふたりの恋はちゃんと続いていたのだ……と、感じられ、師盛の胸に温かいものがあふれた。
だが、その温かさは、有盛のとんでもない言葉にかき消される。
「大丈夫です。弟の師盛も一緒に連れて参ります」
兄は、師盛を振り返りもせずにそう断言した。
その瞬間、師盛は見てしまった。月子の表情が、絶望にゆがむのを。
おそらく、わずか十四歳の自分では、頼りにならないと思ったのだろう。
知盛は月子を信頼している。だが自分は、その月子に見下されている。
それを感じた刹那、師盛はうなずいていた。
「兄とともにまいります」
そう言った時、自分の手が強く握られたのに気づいた。――有盛だった。
しかし――。
「三草山に進軍するとなると、四日の法要には参加できまい。小松どの兄弟は、亡き兄重盛の遺児。いわば、源氏の嫡流ゆえ……」
まだ納得できないのか、宗盛がくどくどと言う。
それを遮ったのは、聞き慣れた凜とした声――だった。
「法要は、三草山の陣中でもできまする。源氏を敗ること、それが亡き清盛さまの何よりもの供養となりましょう」
もうひとりの兄――資盛だった。
資盛は、有盛と違い、月子が軍議に参加することに懐疑的だったのだが、どうやら考えが変わったらしい。
「よもや、この兄をおいて出陣するつもりではないだろうな」
「兄上!」
有盛が資盛の手を握る。
その時、師盛はようやく、資盛が出陣を決めた気持ちを理解した。
有盛は、恋人である月子の提案を尊重しようという気持ちが強いのだろうが、資盛はそうではない。そこには、自分たち小松兄弟の立場が関係する。
師盛たちの父は、平重盛。清盛の嫡男である。生きてさえいれば、現在の総帥は父であったはずだ。いや、父がもう少し長生きでありさえすれば、総帥は、長兄維盛のものであったかもしれない。
しかし、父が亡くなったとき兄はまだ若く、清盛の跡継ぎの座は叔父・宗盛のものになってしまった。
しかも、その直後の富士川の戦で、維盛は不名誉な敗戦をしている。大将軍として進軍しながら、川に浮かぶ水鳥の羽音に驚き、戦わずして逃げ帰ってしまったのだ。
名誉を挽回しようと自ら志願した北国での戦は、初戦こそ勝ったものの、志雄山、倶利伽藍の両戦に大敗し、それ故に平氏は都を後にしなければならなくなった。
平氏一門に維盛が与えた失望は大きく、本来なら、嫡流であるはずの小松家は不遇な扱いを受けることになった。
そして、今、維盛はここにはいない。屋島から、いつの間にか姿を消してしまっていた。噂では、妻子恋しさに京に逃げ帰ったということになっている。
だから、今ここで武功を上げ、小松家を立て直したい……資盛はそう考えたのだろう。
「本当にそれでいいのか? 小松どのは平氏の嫡流。本来なら、法要を取り仕切る立場にいてもおかしくない」
知盛が自分たち兄弟をじっと見つめながら言った。
三人平等に見つめているのだろうが、師盛は自分ひとりが問われているように感じられた。
汚名返上の機会だ、と、師盛は思った。
なんと答えれば、知盛に認めてもらえるだろうか――と。
だが、師盛が言葉を探しているうちに、有盛が答えてしまう。
「月子どのがおっしゃる通り、北辺の守備は要となります。そこで、私達兄弟の力をお見せします。兄の言うとおり、法要ならば、陣中でも出来ます。源氏を敗ることを、亡き清盛さまへの供養といたします」
そして、資盛は、知盛をしっかりと見つめ返し、言い放った。
「明日、早朝に福原を発ちます」
そして、振り返り、師盛に言った。
「いいな?」
師盛に出来たことは、ただうなずくだけだった。
軍議から三草山への出陣決定まで。
師盛にとっては、知盛に認めてもらうための好機。
けれど、その一方で、兄・資盛にとっては小松家の名誉を背負った戦でもあります。
それぞれの思惑を抱えたまま、師盛たちは三草山へ向かいます。




