1 知盛の背中
『雪月花義経抄』外伝――「三草の風」
寿永三年、一月末。
福原に戻った平氏一門は、再び源氏との戦に備えていた。
平師盛、十四歳。
幼い頃から憧れてきた知盛の背中を追いながら、師盛は自分もまた戦う者になろうとしていた。
※本作は『雪月花義経抄』の外伝です。
※戦闘・死の描写を含むため、R15としています。
少年は、人を捜していた。……急ぎ足で。
本当は駆け出したいくらいの心境を、必死で押さえていた。
走らなければならないほど、急ぐ理由はなかった。ただ、その人の姿をこの目で見たい。その思いだけだから。
色白の頬をかすかに紅潮させ、四方にさまよっていた目が、求める人の後ろ姿をとらえる。その刹那、喜びに輝いた瞳が、少年の美しさを際立だたせる。
確かに少年は美しかった。
光源氏と喩えられた長兄、美しさから後白河法皇に寵愛された次兄……その血は、確かに彼にも引き継がれていた。
彼の名は、平師盛という。
「知盛さま」
探し求めていた後ろ姿に呼びかける。
夕闇に色を失いつつある海を眺めていたその人は、ゆっくりと振り返った。
「師盛か……何か?」
尋ねられて、師盛はあわてて用件を作り出した。
「院からの使者が訪れるという話を聞きましたので……」
「ああ……」
そのことか……と知盛は納得した顔をした。
「近く、静賢法印という者が和平の使者として福原を訪れるというのだ。我々に、三種の神器を持って平和に京都に入って欲しいということらしい」
「京に戻れるのですか!?」
師盛の声は、自然と弾んだ。
どうしても聞きたくて出した話題ではないが、興味がなかったわけではない。今後の平氏の行末は、師盛自身の生死にさえかかわるのだから。
しかし、『京に戻れるかも知れない』という情報は、師盛にとっては朗報である。
屋島行宮よりはましとはいえ、師盛にとって福原は、やはり不便な田舎だったから。華やかな京都が恋しかった。
しかし、その喜びも、瞬時に消え去った。知盛の表情に、隠しきれない失望の色が浮かんだから。
「……知盛さま……?」
おそるおそる尋ねた師盛に、知盛はため息ひとつつくと言った。
「院のお考えは、信用がおけない。目的は、三種の神器を取り戻すことのみかもしれない」
「そんな……教経さまが、あれほどの勝利をおさめられたのですから……院もおそれをなしたのではないのですか?」
「師盛」
知盛はそれには答えずに訊いてきた。
「京に戻りたいか? 華やかな暮らしが、恋しいか?」
師盛はうつむき、唇をかみしめながらかすかにうなずいた。
「はい」と言えば、知盛に軽蔑されるかもしれない。そして、知盛に軽蔑されることは、師盛にとって何よりもつらいことだった。にもかかわらず、師盛には嘘はつけなかった。
「ならば、戦を覚悟することだ。昔ながらの平氏を取り戻すためには、どうあっても頼朝を倒さねばならない。そのためには、全軍を挙げての戦いになる。教経が倒してくれるのを、安全な場所で待っていて済むと思うな。血を流す覚悟なしに、昔は取り戻せないのだ」
吐き捨てるように言うと、師盛の返事も弁解も待たずに、知盛は去っていった。
怒らせるつもりはなかったのに……絶対に不和になりたくない相手なのに……明らかに怒らせてしまった。その理由は、自分のふがいなさ……
師盛は、知盛の後ろ姿を見送った視線を、海に移した。
墨絵の世界にかわっている海は、それでも涙でゆがむ景色をごまかすことは出来なかった。
時は、寿永三年、一月末。
場所は、平氏が営む福原の行宮。
寿永二年、木曽義仲に京を追われた平氏は西海に逃れた。安徳天皇を奉じ、屋島に行宮を営んだのが十月。
その後、水島、室山の戦で義仲を大敗させ、勢いに乗じて京都を奪回しようとしている……というのが、平氏の現状だった。
平氏は一ノ谷に城郭を築き、行宮を福原に移していた。その間に、教経は淡路、安芸の国の沼田、伊予など瀬戸内海付近で六連戦し、全て勝利していた。
清盛全盛時に生まれ、平家の公達としてその幼少時代を何不自由なく過ごした師盛が、自分の手は汚さずに京都に戻れると考えたとしても不思議ではない状況であった。
しかし、凡庸な兄・宗盛に代わり実質的には平氏の総帥とも言える立場にいる知盛にとっては、楽観は出来ない。
権中納言平知盛――平清盛の四男。このときは三十三歳。
そして、備中守平師盛――今は亡き清盛の長男、内大臣小松重盛の五男――は、十四歳だった。
「師盛」
呼び止められて振り返る。
「兄上」
夕闇の向こうに見えたのは、兄の資盛だった。
「話がある」
周りに人のいないことを確かめて、資盛が話し始める。いやな予感が胸をよぎる。
「右京に怒られた。香子が泣いていたと……」
やはり……師盛は胸の中でつぶやく。やはり、その話か……。
「文の返しぐらい、してやるものだ」
「なまじな望みを抱かれるよりは、すっぱりあきらめてもらったほうが、いいのです」
何度となく繰り返してきた返事を、またか……と思いながら言う。
「お前はそう言うが……いったい、香子のどこが不満なのだ? 美しい娘ではないか」
「それは、わかっています」
「右京ほど切れるわけではないが、心根も優しい」
「香子どのに不満があるわけではありません」
「他に意中の人でもいるのか?」
「いいえ」
「ならば、香子の願いを聞き入れてやっても……」
「兄上」
師盛は、資盛の言葉をさえぎった。このあとに繰り返される台詞は、正直聞き飽きていたから。
「まだ、そういう気持ちになれない……と、何度も申し上げています」
それだけ言うと、資盛の返事を待たずにすっと頭を下げ、そのままその場を離れた。
自室に戻り、ふうっとため息をつく。
屋島行宮に移った頃から、兄は顔を合わせるとこの話ばかり。うっとうしさも限界に来ている。
兄――小松中将資盛――の恋人は、建礼門院に仕える右京太夫という女性である。
その右京の妹の香子が、どうしたわけか師盛に恋をした。
夜も眠れず、食事も喉を通らず、日に日にやつれていく様子を哀れと思って……と右京は資盛に仲立ちを頼んだという。
それを聞いたとき、師盛が感じたのは、まず『大げさな』ということだった。そして『うっとうしい』とも……
嬉しいとか、かわいそうだというような気持ちは、少しもおきなかった。
右京が言葉は事実をかなり誇張している……と今では確信している。あれから四か月もたつのだから、本当に眠れず、食べられないのなら今頃死んでしまっていてもおかしくない。
しかし、香子は元気で、たびたび文をよこしている。
一度だけ、資盛に頼まれ、断りきれず顔を合わせたのがまずかったのかもしれない……と師盛は唇をかむ。
確かに美しい少女ではあった。しかし、それだけだった。まるで人形のような美しさ。
美しい花や景色を見たときと同じ程度の気持ちしかわかなかった。いや、むしろそれ以下だったかもしれない。
だから、それから後は兄に何を言われようと会っていない。文をよこされて、返すのが礼儀と知っていても、あえて無視をした。
そんな師盛を資盛は責めた。あまりにも薄情だと。他に好きな女がいないのなら、情けを掛けてやるくらいいいではないか。そういう関係になってしまえば、情など後からでもわくものだ。そんな言い方をして説得しようとさえした。
そうやって割り切れるほど師盛は冷めてはいなかった。しかし、自分に心を寄せてくれる女を、それだけで愛しいと思えるほど、優しくもない。
床に入っても、師盛はなかなか寝付かれなかった。
今日はいやな一日だったと思う。
知盛の怒りをかい、香子のことでわずらわされて……そして、憂鬱な気分の原因のより多くを占めているのは知盛の怒りのほう。
怒りを解いてもらえるには、どうしたらよいのだろうか……そんなことを考えながら寝付いた結果は、ひどい悪夢になって現れた。
甲冑に身を包んだ知盛が、すぐ前を歩いている。明らかに、戦に赴こうとしているのだ。
師盛も、後に続こうとしている。それなのに、身体が動かない。重すぎる具足に足を取られ、一歩も進めない。
待ってもらうために呼び止めようとしても、声が出ない。焦りに、ただもがいている師盛の目に映る知盛の背中は、だんだんと遠ざかっていく。
ふと、知盛が振り返る。その表情は昼間に見せた失望と軽蔑が浮かんでいて……
「知盛さまー!」
やっと声が発せたと思った瞬間に、目が覚めた。
心臓はまだ早鐘のように打っていて、肌寒い季節だというのに、びっしょりと汗をかいていた。
そして、あの夢は、ひとつ間違えば正夢になる。
師盛は悟った。知盛に認めてもらう手だては、ひとつしかない。
戦で手柄を立てること……
戦経験の全くない自分に、それが果たしてできるのかどうかわからない。
しかし、そうするしかない。
おそらく、まもなく始まるであろう……知盛の予測によれば……源氏との決戦の時に。
手柄が立てられないまでも、少なくとも敵に後ろを見せることだけは出来ない。勇敢に立ち向かったとさえわかってもらえれば、知盛の顔から、あの失望の色は消えてくれるはずだ。
師盛は、もう一度横になった。
頭の中に、勇壮に戦う自分を描きながら、彼は眠りについた。
ここから『雪月花義経抄』外伝「三草の風」を、全五話でお届けします。
主人公は、平重盛の子・平師盛。
一ノ谷の戦いを目前に、知盛を慕う十四歳の少年が、戦場で何を見て、何を思うのか。
本編とは少し違った視点から、一ノ谷の戦いを描いてみました。
よろしければ、最後までお付き合いください。




