2日目
また、あの声が聞こえた。
『貴様、やりたいこととか無いのか?昨日はあの女にずっと付き合ってたぞ』
(あーいいんだよ別に。それよりお前何者?)
『我はこの世界の理から外れたものだ。簡単に言えば死神だ。寿命か幸福を貰うため2択を選ばせた』
(なんで俺たちなんだ?)
『社会に貢献していないからだ。穀潰しは消される運命って思っておいてくれ。…今日はお前のやりたいこと、見させてくれよ。じゃあな。』
◇
「おーい、俺の彼女だったアリサ。学校行くぞー。」
タクミの声が廊下に響いた。彼女だったアリサ。あった、という過去形。現在進行形にする勇気はまだない。だがその声は隣室に届くには十分すぎる音量だった。
数秒の静寂。そしてドタドタと何かが倒れる音。続いてドライヤーの唸り声。どうやらアリサは起きていた。身支度の最中だったらしい。
玄関のドアが勢いよく開いた。髪は半乾き、目は半開き。グレーのスウェットにヨレヨレのTシャツ。昨日のセーラー服が夢だったかのような姿がそこにあった。
「うるっさ。」
寝起きの不機嫌を隠そうともしない。だが次の瞬間、「学校行くぞ」の部分が脳に到達したらしい。半開きだった目がかっと見開かれた。
「学校。」
だがすぐに現実が追いついたようだ。自分の格好を見下ろす。スウェット。ヨレT。すっぴん。
「待って。着替える。あと十五分。」
言い終わる前にドアをバタンと閉めた。
ドアの内側からドライヤーが再び唸りを上げた。続いて何かが床に落ちる音。おそらくスウェットを脱ぎ捨てた音。さらに何かを蹴飛ばす音。散らかった部屋で着替えが始まった。
十五分と言った。果たして間に合うのか。俺は自室に戻り、学ランに袖を通した。八千九百円の新品。鏡の前に立つと、我ながら悪くない。似合っているかどうかは別として、形にはなっている。高校時代を知らない男が初めて着る制服。初々しさだけは本物だった。
十四分が経過した。約束の時間まであと一分。
その時、インターホンが鳴った。ピンポーン。今度はアリサだ。返事を待たずにドアが開く音がして、
「開けて。手塞がってる。」
声だけが飛んできた。言われるままドアを開けると、そこには昨日のセーラー服に身を包んだアリサが立っていた。ただし昨日と違う点が一つ。髪型。紺のウルフカットが丁寧に整えられ、青のインナーカラーが覗いている。薄くリップも塗っている。素材の良さを最低限だけ活かした、ギリギリの化粧。
両手にはコンビニの袋。中身はタバコ三箱と缶コーヒー二本。
「朝飯。」
タバコと缶コーヒーを朝食と呼ぶ女。だが確かにアリサにとってはそれが朝食だった。
二人がアパートの廊下を並んで歩く。学ランとセーラー服。どこからどう見ても高校生カップル。階下を通りかかった桐谷が二人を見上げて目を丸くしていたが、声をかける間もなく二人は通り過ぎた。
電車で三駅。駅から徒歩十分。目的の廃校が見えてきた。校門には手書きの看板。「学校まるごと博物館」。カラフルな風船と手作りのアーチが飾られている。平日の午前、客はまばら。老人と親子連れが数組。二十三歳と二十三歳のカップルは最年長だった。
校門の前で立ち止まり、校舎を見上げた。三階建ての古い校舎。窓ガラスが朝日を反射して光っている。
「……でかい。」
当たり前のことを呟いた。だがその声には微かな震えがあった。学校という場所に来ること自体が、アリサにとっては数年ぶりの体験だった。
受付で入場料を払い、パンフレットを渡された。一階が展示室、二階が教室見学、三階が図書室と屋上。屋上は天気が良ければ開放されているらしい。
パンフレットを開いて、最初のページに目を落とした。展示内容の説明が並んでいる。歴史年表、使用されていた教科書、昔の生徒の写真。だがアリサはそんなもの見ていなかった。視線はただ一点。二階の見取り図。2年3組。その教室の写真に、机と椅子が整然と並んでいるのが写っていた。
「ここ行きたい。」
即答だった。パンフレットをくしゃりと握りしめ、入口に向かって歩き出した。足取りが速い。ほとんど小走りだった。二十三歳のフリーターが廃校の教室に全力疾走している。
俺は後ろから、呑気に声をかけてみた。
「おーい、彼女ちゃんは不登校だったのか?」
足が止まった。不登校。その言葉が背中に刺さった。
アリサは振り返らなかった。廊下の真ん中で立ち尽くしている。上履き代わりのスニーカーがリノリウムの床を踏んでいる。この感触。学校の廊下。記憶の底から何かがせり上がってくる。
ゆっくりと振り返った。表情は平坦。だが目の奥が揺れていた。
「中二。」
短く答えた。それだけで十分だった。中学二年から学校に行かなくなった人間が、今こうして廃校とはいえ教室の前に立っている。
壁にもたれかかり、タバコを取り出した。火をつけようとして、ここが屋内であることを思い出し、舌打ちして戻した。
「理由とか聞く?」
聞いてほしいのか、聞いてほしくないのか。どちらとも取れる声色だった。廃校特有の静けさが二人を包んでいる。遠くで子供のはしゃぐ声と、展示室でボランティアがマイクで何か説明している音だけが響いていた。
セーラー服の襟を無意識にいじっている。この服を着ていると、あの頃に引き戻される。制服という鎧。鎧の下は空っぽ。
「別に大した話じゃない。いじめとかそういうんじゃなくて。ただ……全部どうでもよくなった。」
視線が廊下の先、2年3組の教室へと向いた。ドアは開け放たれている。中には誰もいない。机と椅子だけが整然と並んでいる。
「行こ。」
歩き出した。今度は小走りではなく、静かな足取り。何かを確かめるような歩き方だった。
「まあ、俺は小学校すら行ったことないからよくわかんねーけどな。」
呑気につぶやいた俺の言葉が、廊下にぽつりと落ちた。軽い口調で放たれた爆弾。
開きかけた教室のドアに手をかけたまま、アリサの動きが止まった。
「……は?」
振り返る。目が真ん丸になっている。さっきまでのセンチメンタルな空気が一瞬で吹き飛んだ。
「行ったことないって、なに。義務教育。」
アリサの脳内で情報処理が始まった。不登校の自分ですら一応中学までは卒業している。それすら未経験とはどういうことだ。
教室に入らず、ドア枠に背中を預けた。腕を組む。聞く体勢に入っていた。
「待って。つまり君、学校って場所に来たの今日が初めて?」
廃校とはいえ、学校は学校。机も椅子も黒板もある。初めて教室を見る人間と、初めて登校した人間。どちらがマシかという哲学的命題が二人の間に浮上していた。
じーっと俺を見つめている。その顔には好奇心と困惑が半々で混ざっていた。
「じゃあ給食も知らないの。遠足も。校庭でドッジボールとかも。」
指折り数え始めた。自分が当たり前に持っている「学校の思い出」を一つずつ確認している。そしてそのどれもがタクミには存在しないという事実に辿り着き、眉間に皺が寄った。
「まあ、いろいろあってな……」
「……なんか、私の方がまだ恵まれてる気がしてきた。」
ぽつりと漏らした。不登校の自分より学校未経験の人間が隣にいる。この世は不公平にできている。
そんなアリサを見て、俺はかるく伸びをした。
「まあ俺は、あと1日は幸せらしいからな。」
多分だが、いま自分の口角が上がっているのが分かった。人に笑顔を見せるのはいつぶりだろうか。
「君、そんな顔できたんだ。」
アリサもうっすらと微笑んでいた。
ニコッと笑うタクミを見て、胸の奥がちくりとした。幸せになれるらしい。らしい、という曖昧な言い方。まるで他人事みたいに。
1日と少し。あの声が告げた期限。アリサも同じものを聞いている。だからこそ、その言葉の重さが分かる。ドア枠から背中を離し、教室の中に足を踏み入れた。きゅっ、と上履き代わりのスニーカーが黒板消しの粉を踏む音。
「ドッジボール教えてあげようか。」
黒板の前に立ち、チョークを手に取った。さらさらと大きな丸を二つ描く。コート。その中に小さな丸をいくつも。
「二チームに分かれて、このボールを投げ合う。当たったら外。最後まで残った人が勝ち。」
振り返ってタクミを見た。説明しながら黒板に図を描いていく姿は、不登校だった人間とは思えないほど板についていた。教えるという行為。誰かに何かを伝えるという行為。それをアリサ自身が楽しんでいることに、本人はまだ気づいていない。
チョークを置いて、机の間を歩く。
「で、顔面セーフとかルールがあって——」
ふと足を止めた。窓際の席。一つだけ花瓶が置かれている。造花。イベントの演出だろう。だがアリサの目にはそう映らなかった。
一瞬、アリサの中に誰かの残像がよぎった。花瓶のある席。そこに座っていた誰か。だがそれはすぐに霧散した。記憶の断片は形を結ぶ前に消えていく。
首を振って、何事もなかったように続けた。
「——で、避けられなかったらアウト。以上。簡単でしょ。」
机に腰掛けて足をぶらぶらさせている。スカートの裾が危うい。本人は全く気にしていない。
「パンツ見えてっぞーアリサちゃん。」
ぶらぶらしていた足が止まった。
一拍の沈黙。それからアリサはゆっくりとスカートの裾を直した。耳の先が赤い。怒りか羞恥か。おそらく両方。
「……見てんじゃねーよ変態。」
低い声で吐き捨てたが、机から降りる気配はない。むしろ足を組んでガードを固めた。今更すぎる防御。その時だった。教室の後方のドアから、小学生くらいの男の子がひょっこり顔を出した。続いてもう二人。計三人。探検ごっこでもしているのか、目を輝かせて教室内を見回している。
「うわ、兄ちゃんと姉ちゃんが制服着てる!コスプレ?」
無邪気な一撃。子供の言葉は時にナイフより鋭い。
俺とアリサを交互に見て、にやにやしている。
「カップルでしょ。キスしてよ。」
スマホを構えている。どこで覚えたのか、動画を撮る気満々だった。
顔が一気に真っ赤になった。スカートの件とは比較にならない赤さ。口をぱくぱくさせて言葉が出ない。二十歳超えた女が小学生三人に完全にフリーズしていた。
「まあ別に減るもんじゃねぇし、いいぞ。」
ちょっとからかいたくなった。
教室が凍った。比喩ではなく、空気そのものが固まった。
「は?」
声にならない声。口が「は」の形のまま停止している。思考回路がショートした音が聞こえそうだった。
「えー!マジで!?やってやって!」
目をキラキラさせて飛び跳ねている。完全にエンターテイメントとして消費する気だった。
スマホのカメラをしっかり二人に向けている。赤い録画ボタンが点灯した。
椅子から立ち上がった。がたん、と机が音を立てる。
「ちょ、待って。無理。無理無理無理。」
両手をぶんぶん振っている。顔面が紅潮を通り越して紫に近い。パニックの極致。
だが小学生たちは容赦ない。三人がかりで退路を塞ぐように教室前方に陣取っている。「キスコール」が始まりかけていた。手拍子。小さい手がぱんぱんと鳴る。
「キッス!キッス!」
壁際まで後退した。背中が黒板にぶつかる。逃げ場がない。前方にはカメラを構えた小学生。横にはニカッと笑っている共犯者。
「君さぁ……!」
恨みがましい目でタクミを睨んだ。しかしその目には怒りだけでなく、どうしようもない羞恥と、ほんの僅かな——期待が混じっていた。
「早くしないと動画配信しちゃうよー?」
アリサはその一言で血の気が引いた。
「配信はやめろ。」
俺は平気そうな顔をして、ちゅっと音を立てて投げキッスをした。
「どう、びっくりした?」
投げキッスが教室の空気を切り裂いた。ハートの形をした何かがアリサめがけて飛んでいく。物理的には何も飛んでいないのだが、確かに飛んだ。そしてタクミ自身の耳が赤い。余裕そうに見えて全然余裕じゃなかった。
「えー!そっち!?唇じゃないの!?」
「つまんねー!」
スマホを下ろして不満顔。
黒板に背をつけたまま、石像のように固まっていた。投げキッスが頬を掠めた。物理的ダメージはゼロ。だが精神的ダメージは甚大だった。心臓がうるさい。ドラムロールのように暴れている。
アリサは震える手でポケットからタバコを取り出そうとした。ニコチンで心拍数を落ち着かせようという、もはや条件反射に近い行動。しかし指が震えてライターがうまく点かない。カチ、カチ、と虚しい音だけが響く。
「……君さ。」
ようやく声を絞り出した。低く、掠れた声。
「耳、赤いよ。」
指摘した。自分だって顔全体が紅潮しているくせに、相手の弱点だけは見逃さない。それがアリサという女の生存戦略だった。
小学生たちは「つまんない」と口々に言いながら教室を出ていった。嵐は去った。残されたのは耳の赤い男と顔の赤い女。そして1日の命。教室には窓から差す五月の日差しと、黒板に残されたドッジボールの図だけが静かに佇んでいた。
◇
その後、俺たちは校内のいろんな場所を回った。
屋上から眺めた青空、誰もいない図書室の匂い、廊下に響く二人の足音。
この時間が、永遠に続けばいいと思った。死神なんて言葉は嘘で、本当は明日も明後日もこうして笑っていられるのだと、思い込みたかった。
アリサをアパートの玄関まで送り届け、姿が見えなくなるまで見送る。
残りわずかな時間の中で、俺は今、生きることの幸せを静かに噛み締めていた。




