3日目
またあの声が聞こえた。
『お前、なんで何もしようとしない! 見てて楽しくないんだが』
(別にお前に関係ないだろ)
『キレんなよ。お前、本当はやりたいことないんだろ』
(……正解。だからお前を楽しませられないな)
皮肉を込めた。正直、少しだけ清々しかった。
『……よし、じゃあこうしよう。願い事、ひとつ叶えてやるよ。これなら楽しめそうだな』
(そんなもん、ひとつしかないだろ…………)
『即答かー。分かった、叶えてやるよ。じゃあ——最期の時間を楽しめよ』
◇
目が覚めた。時計の針は12時を指している。とりあえず、アリサの部屋へ行くことにした。
―――最終日。
朝から雨が降っていたようだ。五月晴れとは程遠い、陰鬱な灰色の空。アスファルトを叩く雨音が世界を覆い尽くしている。まるで二人の残り時間を数えているかのように、一定のリズムで。
アパート二階の踊り場。屋根があるから濡れはしないが、外の景色は丸見えだった。そこに二人が並んで座っている。コンクリートの冷たさが尻から直接伝わってくる。傘は、二人とも持っていなかった。
アリサは最後のタバコを吸っていた。マルボロのメンソール。箱の中にはもう一本も残っていないし、買い足す気もなかった。ニコチンが切れて指がわずかに震え始めている。それでも吸った。これが最後だから。
雨音だけが二人の間を埋めている。重い沈黙。残り五時間。いや、もっと短いかもしれない。心臓麻痺か交通事故。それがこの3日間の結末だと、あの声は言っていた。
タバコを根元まで吸い切り、携帯灰皿に押し込む。最後の一服が終わると、指の震えはさらにひどくなった。
「ねえ」
膝を抱えたまま、雨に煙る街を見下ろしてアリサが言った。
「残り、何時間かな」
声は平坦だった。泣いてはいない。怒ってもいない。ただ淡々と事実を確認している。だが抱えた膝に顔を埋めたとき、その奥で唇が白くなるほど噛み締められているのを俺は見逃さなかった。
「なあ、最期にやりたいこと……あるか?」
残酷な問いかけだった。死刑囚に最後の食事を選ばせるような、優しさと残酷さが同居した質問。
膝に埋めていた顔がゆっくりと上がった。雨に濡れた前髪が額に張り付いている。黒い瞳が俺を真っ直ぐに捉えた。震えていた指の動きが、ぴたりと止まる。
長い静寂。雨粒がトタン屋根を叩く音だけが刻まれていく。一秒、二秒、三秒。
口を開きかけては閉じ、もう一度開いてはまた閉じる。まるで金魚のようだった。言葉を探しているのではない。胸の中に溢れすぎていて、選べないのだ。
やがてアリサは立ち上がった。濡れたジーンズが足に貼りつくのも構わず踊り場の端まで歩き、手すりを強く掴む。眼下には雨に打たれた街が広がっていた。人通りはまばらで、車が水しぶきを上げながら走り去っていく。
振り返らずに、彼女は言った。
「海」
一言だけ。
手すりを握る指に力がこもり、錆びた金属がぎしりと鳴った。平坦を装っていた仮面にひびが入るように、声が震え始める。
「深夜の海でさ。叫びたい。愛してるって」
最後だけ、声が裏返った。照れ隠しではない。恐怖だ。自分の最期が刻一刻と迫っているという、逃れようのない事実に対する恐怖。
「……あとさ」
振り返ったアリサの頬を、涙なのか雨なのか分からない雫が伝っていた。
「愛してって言いたい。誰かに。本気で」
俺は立ち上がり、静かに言った。
「よし、行くか」
◇
夜10時。空は墨を流したように黒く、雨は止んでいたが、容赦ない海風が吹き付けていた。波が岸壁を洗う音が絶え間なく響いている。
二人は海に来ていた。どうやって来たのか——タクシーか、徒歩か、そんなことはどうでもよかった。重要なのは今この瞬間、二人でここにいるという事実だけだ。
風に煽られて髪が乱れる。紺のウルフカットと青のインナーカラーが夜闇に溶けていく。防寒なんて考えていないパーカー一枚。足元はサンダル。正気の沙汰ではない。
「さむ」
ぽつりと漏らしたが、足は止めなかった。砂浜へと降りていく。湿った砂がサンダルに入り込み、冷たく不快だったが構わず進む。
海岸には誰もいなかった。月も出ていない完全な闇。遠くの道路を横切る車のヘッドライトだけが時折光を投げかけている。
波打ち際で立ち止まる。冷たい水が足首を舐め、体温を根こそぎ奪っていく。
アリサは振り返らない。「愛してる」と叫ぶと言っていたが、背中を強張らせたまま立ち尽くしている。最後の勇気を振り絞ろうと、肩が小刻みに震えていた。
大きく息を吸い込み、潮の匂いを肺を満たす。吐いて、もう一度吸う。
そして——叫んだ。
「愛してる!!!」
喉が裂けるほどの声量。こんな声を出せることなど、アリサ自身も知らなかっただろう。声は夜の海に吸い込まれ、波の音にかき消されていった。
肩で息をしながら、なおも海を見つめている。まだ足りない。残り時間が削られていく焦燥感の中、胸にあるすべてを吐き出そうとしている。
「俺もアリサのこと、愛してる!」
気づけば、俺も叫んでいた。
その言葉が突き刺さった瞬間、アリサの肩がびくりと跳ねた。全身の神経が背後の俺に集中しているのが分かる。
「……ずるい」
掠れた声だった。喉を枯らすほど叫んだ後だから、まともに声が出ないのだ。ゆっくりと振り返るアリサの顔は、闇の中でもわかるほど濡れていた。二十三年間の人生で、家族が死んだときですら流さなかった涙が溢れ出していた。
「なんで、そういうこと簡単に言えんの……」
一歩、近づいてくる。
「私、言えないよ。愛してるなんて……そんな重い言葉」
面と向かって相手の目を見て言うのが、怖くてたまらないのだ。もう一歩。手を伸ばせば届く距離。アリサはパーカーの裾を爪が食い込むほど強く握りしめていた。残り時間は、もう数時間もないかもしれない。
唇を噛み締め、血の味がした。言わなければ死ぬ。後悔して死ぬ。
「……愛して」
波音に消えそうなほど小さな声。
「私を、愛して。全部」
俺は優しく微笑んだ。
「愛してるよ、アリサ」
その言葉が届いた瞬間、アリサの中で何かの糸がぷつりと切れた。
彼女は膝から砂浜へ崩れ落ちた。溢れ出す涙と嗚咽。二十三年分の孤独が一気に押し寄せてきて、胸が破裂しそうだった。
「やだ……」
子供のような声だった。死にたくない。あと数時間じゃ足りない。百年でも千年でも欲しい。砂を強く握りしめるが、指の間からさらさらと零れ落ちていく。何も掴めない。
その時、俺の胸の奥がずきりと痛んだ。時間のカウントダウンだ。痛みに顔を歪める俺を、アリサが涙の合間から見上げた。
「ねえ……聞いて」
座り込んだまま、切迫した声で彼女は言った。
「海の藻屑に、なりたい」
それは最も狂った、けれど切実な願いだった。幸福すぎて怖かったのだ。こんな時間を残して終わるくらいなら——。
涙で濡れた顔で、歪んだ笑みを浮かべる。
「一緒に溺れよ。そしたら五十年分、幸福でしょ」
俺は海の波打ち際へ向かおうとするアリサの腕を、そっと引き止めた。
「アリサ、話がしたい」
腕を掴まれたまま、アリサはきょとんとした顔をした。ダウナー系お姉さんの面影もない間抜けな顔で、砂浜にぺたんと座り直す。
「……なに。最期の説教?」
「なんで、あの日の朝、俺に声をかけてくれたの?」
その問いが夜風に乗って届いた瞬間、アリサの動きが固まった。あの朝四時。ベランダで煙草を吸いながら声をかけてきた本当の理由。触れられたくない核心。
「……羨ましかった」
ポツリと、小石を落とすように言った。
「朝帰りの君を見て。目が死んでてさ……似てるなって思ったの。私も同じだったから。家族が死んでから、何のために生きてんのか分かんなくて。だからずっと見てた……一ヶ月くらい」
自嘲気味にひきつった笑みを浮かべる。
「きもいでしょ。ストーカーじゃん」
俺は安らかに笑って答えた。
「そっかー。……アリサ、俺今日の朝またあの声を聞いたんだ。そこで願いをひとつ叶えてやるって言われた。俺はさ、アリサの50年の幸せを願ったよ。海の藻屑は、俺だけで十分だ」
アリサの思考が停止した。数秒の静寂の後——。
「は?」
地の底から響くような声とともに、アリサが立ち上がった。激しい怒りで体が震えている。
「ちょっと待って。50年の幸せ? 私の? そんで君だけ死ぬ!? ふざけんな! なに自己犠牲してんの! 今すぐ変更して! 私と君で100日にするか、二人で海の藻屑になるか、どっちかにしてよ!」
掴みかかってくる手を前に、俺は力なく微笑んだ。
「ごめん、もう変更……できないんだ。俺がアリサの分も藻屑になるから……アリサは、生きて」
「ずるい……! そうやって笑ったら、何も言えなくなるじゃん……!」
アリサの足元まで波が押し寄せていた。胸の痛みに耐えかねて膝をつく俺に、彼女は取り乱して駆け寄る。
「やだ……一人にしないで! 50年も一人で生きろっての!? 無理だよ!」
俺は心臓の痛みを押し殺し、最後に残った力を振り絞った。
「アリサ、俺にもやりたいことできた。今できた」
俺はアリサに身を寄せ、深くキスをした。
「3日間だったけど……楽しかった。幸せになれ。……彼岸で、待ってる!」
俺は近くを通りかかった漁師に向かってアリサを押し飛ばすと、そのまま黒い海へと走り出した。
「タクミッ!!」
後ろで喉が裂けるような叫びが聞こえる。だが、俺は振り返らない。
「おい! 危ねぇぞ!」
突如現れた漁師に腕を掴まれ、アリサは暴れた。爪を立て、噛みつかんばかりに叫び散らす。しかし、その間に俺の体は海へ飲み込まれていった。
「離せッ! 離せよ!」
暗闇の海を漁師のライトが照らすが、そこにはもう、ただ黒い波が広がっているだけだった。流されたのだ。心臓に限界を迎えた体で、助かるはずもない。アリサは膝から崩れ落ちた。胸を襲う猛烈な痛みに顔を歪めながら、彼女は力なく空を見上げた。
「……最悪の、誕生日プレゼント」
◇
——それから、五十年が経った。
あの夜のような暗闇ではなく、空は抜けるような青だった。
老人ホームの一室。風に揺れる白いカーテンの先で、白髪の老女がベッドに横たわっている。痩せ細り、皺の刻まれた顔。けれどその表情は、どこまでも穏やかだった。
五十年の幸福。それは確かに彼女に降り注いだ。事業は成功し、財を成し、多くの人に囲まれた。恋人もできた。だが、誰とも結婚はしなかった。
サイドテーブルには、あの日二人で撮った一枚の写真。
口に火のついていないメンソール煙草を咥え、彼女は静かに目を閉じた。豪華な人生だった。たくさんの幸せがあった。……けれど。
「……足りないなぁ」
胸の真ん中に開き続けた穴は、一度も塞がらなかった。そこは、あの日の彼の場所だったから。
心電図の電子音が、次第に遠のいていく。
「ねえ。そっち、どう? ちゃんと待っててくれた?」
(うん)
ふと、懐かしい声が聞こえた気がした。
◇
目を開けると、そこは川のほとりだった。水は干上がり、干しいった河床が広がっている。
対岸に、二十代のままのタクミが立っていた。
アリサは自分の手を見た。しわくちゃだった肌が、若々しい二十代のものに戻っている。服装も、あの日のパーカーとホットパンツだ。
「……うそ」
アリサは対岸へ向かって全力で走り出した。タクミもまた、迷いなく川の中へと歩み寄ってくる。
二人が巡り会ったのは、川の中白。手を伸ばせば届く距離。
「遅い」
アリサの声が震える。
「遅いよ、バカ」
タクミは両腕を広げ、アリサを強く強く抱きしめた。
「ちゃんと、約束守ったよ」
少しだけ泣きそうな声で呟くタクミの手を、アリサは今度こそ逃すまいと強く握り返した。
「もう、絶対に離さないから。私を一人にすんな」
「うん。行こう」
二人はしっかりと手を繋ぎ、同じ歩幅で歩き出した。どこまでも広がる穏やかな光の中へ、微笑み合いながら。




