残された人達は
(登場人物)
井上良枝 この帰りを待つ母
井上宗太 発見された遺体の一名
風が変わるときは、目には見えない季節が入れ替わる合図であったりする。シャワーから立つ湯気のような柔らかさで、風邪を疑う息のような痛みもある。それが心地よいかと言われれば、まったくである。
「これで暑さを凌げるわ。」
と思う少女の心にも、真実を迫る獣は住み着いているものだ。
二台の個人的な車は、折り目正しく前倣えをしながら走行しているわけで、少々荒っぽい運転で同乗者に不安を抱かせるのが、この世代の特徴である。加藤や林が青臭かった時代には、一人一台の自動車時代であった。それが一家に一台になり、そろそろ車を手放す必要も出てくる年齢にもなれば、寂しくて仕方が無いのである。田舎社会に車は不可欠であり、できる限り面倒なことは起こしてくれるなよと、若葉の後ろに並ぶ度に思うのだ。
「今日は一段と大きな入道雲ですね。」
「こんな時代でも、夏は来てしまうんだな。」
「犯人、どうしているでしょうね。このまま何もなければ。」
「それを願うことは、我々にはできない。」
どこにいるかもわからない敵が、こちらを伺って笑っているように感じる。こそこそと隠れているばかりではなく、堂々と面前に現れて嘲笑してくるような気もするのだ。状況をうまく掴めていないばかりに、不安と最悪が交互に現れては消える。全てを飲み込む大蛇のような山道を下り、いつもよりも意識的に窓の外に目を配る。その度に、あの入道雲が大きく大きく、威嚇するように勢力を増していく。その巨大な存在に見下ろされ、こちら側からは手出しができない構図が、我々の今とずいぶん重なるのだ。
「あれ、ゴジラみたいに見えませんか。」
林の一言に加藤だけが反応する。
「吉兆とは言えないだろう。」
「そうですか、僕は好きですけどねぇ。入道雲って雲のきめ細やかさがよく見れて、好きなんですよ。できたてのかき氷を見てるみたいで、こう・・・美しいなって。」
そんな彼もずいぶんと人を誑かして生きてきたものだ。出会ったばかりの頃は、調子の狂う毎日であった。どこに出向いても目立って仕方がない顔は、それを一所懸命に汚し続けて見慣れたものになった。太い黒縁の眼鏡をあえてかけ、情報を聞き出す時に利用できる場合は利用し、帰りの遅い時もあった。風紀を乱すと批判されることもあったし私も嫌でたまらなかったが、その耽美的な顔にファンは多かった。
「自分、親いないんです。だから分からなくて・・。」
いつだったか助手席の彼と会話してから、刑事としての腕に磨きがかかったと思う。
今頃、本庁の彼らはどういう会話をして、沈黙を紛らわせているだろうか。土地勘のない場所では、ケツを追いかけるので精一杯であろう。そこで怪しいものが無いか見定めろと言われても、期待できるような釣果はないはずだ。先導という名目で、どこか勝ち誇った気になっている私は、彼らの何とも言えない表情を背中で感じることで、安全運転ができているのだろう。
「この道をまっすぐ進んだんで良かったよな。」
「そのまま、あそこに銀杏が見えますよね。そこの近くに駐車場がありますからそこに。」
ミラー越しに見える坂田の眼光が指し示す先は、そこだけが時間の止まったあの日のままであり、もはや取り戻しても再生されはしないだろう。満足のいく終わりを迎えられない時、終わることに意味を見出す準備をしなければならない。叶わないことを願うのが否定されようと、ずっと帰りを待ち続けている。そして、その日を迎えて動き出そうかと固唾を呑んで待っている。
「じゃあ、伺うか。」
本庁さんの出番はないと目で伝え、それを了承した彼らは散歩をしに行った。井上の表札が我々を出迎え、そこに恥ずかしさやいたたまれなさは感じられない。最近になって新しくなったからか、文字の止め跳ねに勢いがあるように見受けられる。コンクリートの壁を越えぬように整理された庭のタケニグサやセイタカアワダチソウは、風に揺られて陽気に踊っている。この中に住まう女性の家族に、不幸があったとは思えないような開放感があって、それまで抱えていた重い荷物をやっと下ろしたようである。
「乗り越えられたんだな。」
演目の順番のように、玄関からカラカラカラと音を奏でて井上さんが庭に出る。その目は今日の昼頃に会った時よりも澄んで、肩を畳んで震えていた姿は去った。
「ありがとうございました。」
「井上さん、息子さんの帰宅にはもう少し時間がかかります。今、息子さんには事件に協力して頂いている状況ですので、それが終われば。」
「はい。色々聞きたいことがおありになるのでしたね、どうぞ中へ。」
林と坂田と目を合わせた時、その日一番に潤んだ瞳に空が映って、どこか羨ましいとさえ思えるような眼差しであった。立ち上がる加藤の膝と腰もどこか軽く、ここでは”よっこいしょ”と言うのも憚れるような。
家の中は整理が行き届いており、申し訳ないことをしたなとどこに視線を置くか迷った。息子の写真や身に着けていたものがあるわけではなく、それらが家族の秘密として隠されているようだった。元々写真を飾っておく家風ではないのかもしれないし、それが常に正しいわけではない。加藤も林も家で写真を飾る文化はないので、とても自然に受け入れられた。
「どうぞ。」
手際よくスペースを活用してお茶と菓子を並べる。それを頂きながら、本題に入るタイミングを探っている。
目の前にいる自分と同年代くらいの女性が、その空気感を察して微笑みながら言う。
「宗太、この家が嫌いでよく出ていったものです。田舎が嫌いと言って、大学は外に出るんだとも。」
「宗太さん、その日は石手川ダムに行かれましたか。」
「いえ、そう言えば止められることをよく知っておりましたので、何も言わず。心霊スポットに行ったというのは、後から聞いたんです。」
「それは、この刑事からですか。」
「はい。この方です。」
財布から取り出したボロボロの写真では恥ずかしかった。しかし、その気持ちをも汲み取って丁寧に私に渡す。
「あの日、何があったかを直接お聞きしに来ました。話していただいてもよろしいですか。」
21年前
良く晴れた青空で、どこにも隠れる場所がないほど。洗濯物が早く乾くこと以外にうれしいことはなかったが、息子を独り立ちさせるまでは、と意地でも立っていた。
「早く夏休みの宿題終わらせなさいよ。また去年みたいになるよ。」
「はいはい。」
毎日うるさく言われては息子も敵わないだろうが、おいしいものでも買ってきて機嫌を直してもらおう。
「かあさん。今日友達と遊びに行ってくるから。」
「今日?何時から?」
「あちょっと、今ノストラダムスやってるから静かにして。」
「あんたねぇ、話してるはそっちでしょうに。」
私は私の仕事がありましたから、用を済まして家に帰ってご飯の支度と、時間配分を考えてあれこれ考えていると
「・・・わかった。」
大きな声で言うものですから
「そんなに大きな声出さんでも、何?」
「だから、友達と遊ぶって。」
「いつに行くの。」
「だからさっき言ったじゃん。」
といつものように思春期の相手をしていた。いくら聞いても大丈夫大丈夫と宥めてくる息子は、目的を持って語り掛けてくる販売員のようで、本当の目的を隠して上辺で返事しているだけと分かっていた。
それから再三の注意と戸締りをするよう言って、私は出かけた。友達というのは私も顔を知っているし、お母さんたちとも関係があったから安心していた。いつもと変わらぬ素振りと表情に、どこか絶対的な安心を抱いていたことは、血の繋がりゆえだからだろうか。それでも必ずこの家に帰ってくる自信だけはあって、息子の家でが一日続いたことはなく、何もなかったかのように受け入れてご飯を出すのが、ある種ルールのようになっていた。息子もそれを受け入れて、何も言わずに食べて夜を越える。
「まだ帰ってない。」
机の端にある埃が気になる程度の違和感だったが、夕飯を作り終えた時には体を内側から浸食されて、壊されていくようになった。すぐに友達たちのお宅に電話をかけたが、誰も知らないと。あの時のひょうきんで人一倍笑う息子の友達が
「遊びの約束はしてないよ。」
と冷たい金属でできているように感じた。今では申し訳ないが、冷たい人だと、友達ならもっと真剣に答えてよと思ってしまった。今まで感じたことの無い重力感で、うまく受話器を戻すことができなかった。大声を出してがむしゃらに名前を叫ぶことはできず、じっとリビングで待ち続けることしかできなかった。
「あと少し、もう5分して帰ってこなかったら警察に連絡しよう。」
追い詰められた状況では、中々110番をすることができない。それは指が震えるからではなく、もう少しで無事に帰ってくると信じたいから。信じる母の自信も、次第に枯れた花のように地面に頭をつけて、見る影も無くなってダメになってしまった。
「すいません、息子が帰って・・かかえって・・かえって。」
震えた声でうまくしゃべることができず、何度も言い直しているうちに受け取った警官も状況を察したようであった。
「分かりました。息子さんがまだ帰宅していないのですね。息子さんの特徴は。」
「はい、あの高校生ぐらいで・・髪は・・・。」
その日以降、私は冷たい扉の前で宗太が帰るのを待っている。どんなに温かいご飯を作っても、どんなに暑い真夏の日でも、氷が解けることはなかった。不思議と涙が零れ落ちることがなく、それがどうしても苦しくてしかたない。私には、吐き出すことも、吐き出して楽になることも許されないのか。そうして月日だけが進み、警察の捜査もうまくいっていないようだった。どこか、最悪な想像して涙を流そうとしても、ただ虚しくて罪悪感で押し潰れる。あの日から20年がたった去年に、世界が私温かく接するように感じられた。それは、諦めの促進であって本当に寄り添ったものではない。私は、できるなら待ち続けて死にたかったのだ。時がもたらしたのは、解放されたくないと天邪鬼になった呪いだけだった。それをいつまでも心の底で、買い続けていたのだった。
「けれど、今日の電話は。久しぶりに宗太の名前を聞いて、やっと涙が出たんです。あの顔を見て、とても綺麗でしたからなんとお礼を言ったらよいか。」
そう語る井上さんの目元に、また輝いたものが一つ現れて落ちる。林は慣れた様子で顔を背けているが、坂田にとってはショッキングだったらしい。その姿に唖然とし、まさに釘付けとはこのことだろう。太ももを拳で突き、それとなく合図を送るとゆっくりと顔を下げた。しだいに強く固くなる両拳に、警察として一歩を確実に見た。
「やっと自由に泣けます。刑事さん、もうひと踏ん張りよ。」
空になった茶碗に、綺麗に平らげられた皿。趣深いひっそりとした文様が現れ、銀のフォークが印象深く鎮座する。そして、まだ喉が渇ききる前に井上さんのお宅をお邪魔する。聞き出したことは、捜査にとっては何の道しるべにもならないかもしれない。しかしながら、あの場で言葉を交わさずとも、固く誓った阿吽というものが今後発揮されていくだろう。そして
「必ず解決して見せます。」
散歩を終えた黒田と新田はこれまた絶妙なタイミングで合流し、私たちの姿を見て察したのか、気の利いたことを言おうとしていた。
「これから忙しくなります。これまでのどの事件よりもです。覚悟はいいですね。」
「ああ。」
車に戻ればミラーが左に傾きすぎて曲がっていた。それを右に戻してチェックしていると、加藤の頬によく熟れた桃のような一筋が、日焼けに負けないぐらいに染め上げられていた。それを親指でさすると自分も自由になれた気がして、指の平を擦っては、じっと見ていたのだった。




