情報合戦
それから、香織がどのような一日を過ごしたかを思い出せない中で、翌朝になっていた。久しぶりに頭がぼーっとして、まだ夢から覚めていないような世界でいる。その手元で、スマートフォンの確かな振動だけが伝わって、差し迫ったカウントダウンのようであった。
「私のブログ・・・・。」
サムネイルに使われていた生成AIの件ではなく、記事の内容について世論が二分されていた。
つい先日アップロードしたにも関わらず、炎上する時というのはあっという間に火の手が回るのだ。
「(正確性に欠けている文章を公開するんだから、叩かれる覚悟はあるよな。)」
「(逆にマスゴミの正しさを裏付けているのを気づいてないのか。)」
「(オールドメディアの勝利なんて滅多に見れないぞこれ。)」
「(はいはい陰謀論陰謀論と。)」
それらはブログに寄せられたものではなく、ブログを転載したSNSのコメントだった。それらに同意する者もいれば、対立する者もいて魑魅魍魎たちの百鬼夜行と化していた。ひとつひとつのコメントをじっくりと見て、それについたイイネの数や閲覧数を何度も見返す。それでも私を擁護しようと試みるコメントも見受けられ、よだれを拭きながら数える。
「(でも、そんなに間違ったこと言ってなくない?)」
炎上している身としては言えないのだが、無能な味方がつくほど私の言葉は弱いということなのだろう。
でもから始まる文章は、発言力が弱いと思えてならない。でもというのが子供の言い訳のような印象を持たせてしまい、”だって”や”いや”と同じように、これから言い訳を並べますという宣言に近いのだ。それを見抜かれてか、そのコメントは適当にあしらわれている。
このように窮地に立たされている当事者を見ると、それが善か悪かは置いて感情移入してしまう。そちらの側に立って、擁護と悟られないように助け舟を出したくなるのだ。私と同じ考えを持っていて、私自身をSNSで擁護してくれている人もいたが、ことごとく反論を食らって返信不可の状態である。それをまた煽られて、意味不明な論理展開をしてしまっている状況には、当事者である私を置いて勝手に船が出てしまったような気分だ。
その中の一つのコメントが、光って見えた。
「(見えます、生きたいと願った女の霊がいます。)」
サムネイルをAI生成したというの記述していないから、このようなコメントも出てきてしまった。しかも、そのコメントに3人ほどが賛同していて、情報を持っている側の強者感というものをひしひしと感じている。しかしながら、AI生成とは言いつつも、写った白い衣装をきた何かについては、私も魅了されるようなものがある。私が好きなベクシンスキーの絵画のようであり、ベックリンの『死の島』に出てくるような後ろ姿でもあって、気づけば好きになっていた。




