最終章 弓菜撫子の場合
最終章 闇
深夜。
異界の門が開く時刻。
町全体に濃厚な瘴気が溢れ出し、妖の霧に灯篭の光が住人以外の影を浮かび上がらせる午前零時。
中央地区の外れにある織物屋には、ある異変が起きていた。
織物工房の片隅の壁に、それまで隠蔽されていた秘密の入口が姿を現していたのである。
その内部には地下へと続く階段があり、延々と深い闇を湛えていた。
そんな闇の中を、灯りも点けずに下っていく一人の人物がいた。
一切の視界はないが、それでも危なげなく足を進めるその人物は、やがて終着点である怪しげな研究室にたどり着いた。
壁一面に並べられた円柱の培養液の水槽。
床や天井には幾本ものパイプやケーブルが走り回り、まるで深い樹林に存在する蛇の巣窟に迷い込んだようだ。
室内灯は点いておらず薄暗い。ただ培養漕の機械が発する照明が、培養液を通して部屋全体を緑色に染め上げていた。
――人工的な樹林の水辺。
地下室に足を踏み入れたことでその深緑の光に照らされたのは、黒縁眼鏡をかけているお下げ髪の女性であった。
齢は二十半ばほど。整った体型を包んでいるのは唐桟の着物で、全体的な印象は地味であるが容姿は眉目秀麗。
ただ額から二本の角が伸びているという、人間とは異なる特徴があった。
どうやら彼女は鬼であるらしい。
このような深夜に、鬼の女性が何故このような場所にやって来たのか。
地下室の中央付近に到着したその女性は、不意に奥に向かって声をかけた。
「幾ら探しても無駄だよ。もう既に関係書類は当局が押収している」
「…………」
その女性の声に反応して、奥から一つの人影が現れた。
どうやらその人物も女性のようだった。
涼しげなノースリーブのシャツにデニムのパンツという、動きやすそうなカジュアルな服装をしていた。
「何の話? アタシはただ見物に来ただけじゃない。何やら事件があったみたいだからさ」
「こんな深夜にかね? ――猿井須江」 直後、室内灯が点灯する。
明るくなった部屋の奥にいたのは、華族・猿井家の当主、須江であった。
二人はお互いを注視したまま、相手の動向を窺いながら独特な緊張感を漂わせていた。
二人の確執を知らぬ者には見つめ合っているだけにしか見えないだろうが、彼女たちには昔から遺恨があり何かと競ってきた間柄なのだ。
「深夜に何の用かね?
確かに猿井家には捜査権限がある。しかしこんな時間に忍んでくる理由は問い質さなければならないな」
和装の女性が淡々と述べる。
その口調には特に敵愾心のようなものは見受けられない。ただ不審者に詰問している警官のように、事務的な口調であった。
「別に、ただ来る時間がなかっただけよ。アタシはアンタと違って暇じゃないの。商売で忙しいんだから」
対して猿井須江の口調には、あからさまな敵愾心が存在していた。どうやら、二人の関係には温度差があるようだ。
「相変わらずの拝金主義か。確かに金は力だが、過剰に集めても分限以上の力は発揮しないぞ」
と、猿井須江に冷めた目を向けた。彼女には才覚はないと、その幼馴染は理解しているのだろう。
だが、猿井須江はその忠告を一蹴するように鼻で笑った。
「ふん、権力すら覆せるのがお金じゃない。お金の力に際限なんてない。
アタシは力を手に入れて、猿井家を虐げてきた者たちに絶対思い知らせてやるんだから」
仄かな黒い感情を瞳に宿らせながら、猿井須江は何かを見つめていた。
劣等感。
和装の女性がまず思い浮かべたのは、そんな言葉だった。
猿井家は昔から周囲の有力者から小間使いのように扱われてきた。その鬱積した想いが、彼女たち猿井家の人間を権力主義に駆り立てているのだろう。
「今回ここに来たのも金のためかね?」
「当然。大金を生み出しそうな商品があると聞いたからね。それ以外の目的があると思う?」
「そうか」
和装の鬼は無表情で頷いた。
その話を信じたのかは判断できないが、とにかく彼女はそれ以上の言及をしなかった。
その代わりに入口から脇にどき、猿井須江に退室を促す。
「さあ、もう出て行ってもらおうか。キミが求める物は何もないのだからな」
「…………ふん」
不機嫌そうに顔を背けたものの、特に抵抗することもなく鬼の言葉に従った。
彼女にもこれ以上の留まる理由がなかったのだろう。
一方、それを見送る鬼の女性の視線に油断はない。
恐らく彼女は、猿井須江がこの施設を訪れた理由を疑っている。
この地下施設のことはまだ一部の関係者にしか伝えられていない。皆無ではないにせよ、今現在において猿井須江がこの施設に存在する理由はないのだ。
鬼の女性が推測しているのは二つ。自警警察隊の上層部に内通者がいるか、猿井須江自体がこの施設に係わっているか、だ。
他にも盗聴やら尾行やらの可能性も考えられるが、取り敢えずそれは除外しているようだ。
「……猿井須江」
「何よ、弓菜撫子」
階段に足をかけるのと同時に声が掛けられた。
そうして足を止めて振り返った猿井須江は、自分に向けられている視線が普段のものとは違っていることに気が付いた。
鬼の女性、弓菜撫子の瞳に宿っているのは、全てを凍てつかせるような冷たい色彩。
まるで視線だけで生き物を殺せそうな目を、猿井須江は本物の鬼から向けられていたのだ。
「一つ言っておこう。金を稼ぐのは大いに結構。キミたちの営業が違法行為でも他人に迷惑をかけない範囲ならば、多少は目を瞑ってやっても構わない。
だがな――」
若干、周囲の気温が下がった気がした。
「この町の住人を傷つけてみろ。私は、我々は、キミたちの権利を悉く剥奪し、キミたちの居場所を悉く消滅させるだろう」
「……………………」
「帰って良く考えたまえ。我々はキミたちが思っているほど寛容ではない」
「…………ふん」
弓菜撫子の毅然とした言葉に、彼女は苦虫を噛み潰したような表情をした。
だが、それ以上は何も言わずに、彼女はその部屋を後にした。
おそらく彼女は、それがただの脅しではないことを理解したのだろう。
彼女たちは幼馴染だ。
猿井家は移民の一族であり、弓菜家はそれを管理する立場だという関係で、昔から交流があった。
それだけに、互いの本心がある程度理解できるのだ。
やがて階段を上っていく足音が完全に消え去ると、弓菜撫子は改めてこの地下施設の全体を眺めた。
「まったく、こんなものを設えるとはな……」
検挙した店の関係者から事情を聞いたところ、この地下で異形に対する研究が行われていた事実が判明した。
誰が主導していたのかは曖昧であるものの、その研究成果に対する信憑性は高いことが確認された。
急遽調査隊を送り込んでその内部を調べたところ、幾つかのサンプルと資料が発見できた。
その中の一つに、異形の性質に纏わる興味深い事実があった。 曰く、『異形は人間を感染させて仲間を増やそうとする性質』がある、というのである。
ただの破壊行動だけでなく、そのような思考能力までもが存在していたのは今まで確認されていなかった。
更にその詳細を調べる内に、次のようなことも判明する。
『生前の記憶を利用して活動するため、異形の勧誘行為は感染者の身内が標的になりやすい』というのである。
ただ、魔力が充満するこの町では、感染源の物質が活動をしないため、そもそも感染することがない。
そこで考えられるのが、『標的を何らかの手段で町の外に連れ出す』という行為である。
実際、今回のように異形の侵入を許していることからも、『異形による直々の勧誘行為も可能である』というのが大方の見解であった。
そんな中、弓菜撫子には一つ憂慮していることがあった。
その研究結果や証言を考慮するに、知人がその危機に晒される可能性があるということである。
確証はない。
ただ、彼女の中の感覚がしきりに警鐘を鳴らしていた。
彼女は祈るように天井を見上げながら、静かに呟いた。
「……日吉くんは大丈夫だろうか」
その一連の事態には関係がないはずの人物。
何故その名が口にされたのか、勿論理由はあるのだが――――
それは弓菜撫子本人にしかわからない。




