第一章 河川編 四話
「あれ?」
ふと、何やら川上の方から妙な音が聞こえてきた。
川のせせらぎとは明らかに違う、水を派手にかき混ぜるような音だった。
「む、あそこにいるのは……」
見えてきたのは、川で洗濯のようなことをやっている一人の女性だった。
白髪に呉服姿と、印象としては小料理屋の女将に似ている。
「ちょっとそこの方。少々お話を伺いたいのだが」
「……はい?」
顔を上げたのは間違いなく老婆であった。
恐らく妖怪なのだろうが女将ほど恐ろしい外見ではなく、髪も衣服も整っていて小奇麗な印象だ。
「ここで何をしているんです? 貴女は――小豆婆ですよね?」
小豆婆というと、妖怪の一種だろうか。
「ねえ、弓菜さん。小豆婆って何?」
「小豆洗いという妖怪を知っているかね? 川で小豆を洗うことで音を立て、人を驚かせたり川に突き落としたりする妖怪なのだが」
「聞いたことがあるような、ないような」
「それの老婆版だ。実はこの土地の固有種だったりする」
人を驚かす意味は不明だが、とにかくそういう妖怪なのだそうだ。
「何だね、アンタらは。ワシは仕事で染物をしているだけじゃが」
「染物?」
「この布じゃ。染料で染めた布を乾かし、こうして川の水で洗い流す。そうすることで、布にむらなく染料が馴染むのじゃ」
どうやら労働に勤しむご老人であったらしい。問題があるとすれば、その染料だろうか。
「ねぇ、ヤナさん。もしかしてこれが水質悪化の原因なの?」
水中のヤナに聞いてみると、彼女は老婆に近づいて布の匂いを嗅いだ。
「……んだ。間違いねぇべ。この布地の匂いみたいだなぁ」
顔を顰めていることからも、良い匂いではないらしい。
「特別な染料なのかな?
ねぇ、お婆さん。この布に使っている染料って珍しいものなの?」
「知らん。ワシは雇われて仕事しているだけじゃ」
「あ、雇われているんだ」
つまり他に雇い主がいるので、詳しい事情はそちらに聞かなければならないということか。
「誰に雇われているの?」
「この近くにある織物屋じゃよ。何でも大量な発注があったらしくての。こうして大忙しで仕事をしているという訳じゃ」
「そのお店は人間が経営しているの?」
「そうじゃ。かなり若い人間でな。近年商売を始めたと言っておったぞ」
人間が妖怪を雇っているのか。この町の雇用体系はよく知らないが、あの小料理屋のように妖怪が妖怪を雇っている以外の状況もあるらしい。
「でも、何で妖怪のお婆さんが染物の仕事を?」
「そんなもの、金の為に決まっておるではないか」
「まあ、仕事っていうんだから、そうなのだろうけど……」
「近年、小豆を洗っているだけでは金にならんのじゃ。纏まった収入を得るには副業をせにゃならん」
「副業なんだ……」
むしろ本業って何だ。
それに賃金が発生していることが驚きである。
「でも、どうしてそんなにお金を?」
妖怪の社会に独自の通貨が存在しているのかは不明だが、こうして現金を稼ごうとしているのだから人間の通貨が流通しているのだろう。
そういえばまだ、夕海は妖怪の生活というものを殆ど知らなかった。
もし妖怪が人間と同じように衣食住を必要としているのなら、人の通貨を使用しているのも当然である。
夕海の質問に、老婆は照れたような顔を見せた。
「孫に小遣いをあげたいのじゃ。可愛い孫には喜んでもらいたいからのぅ」
「お孫さんいるんだ……」
優しげに微笑む老婆に対し、夕海は呆気にとられながら呟いた。
小豆婆の孫。その妖怪も小豆婆なのだろうか。それとも小豆小僧とかそういった名前なのか。……謎である。
などと考えていると、撫子が老婆を気遣うように話しかけた。
「しかしここで人の仕事をするのは大変じゃないか?
この中央地区では妖怪に社会保障は適応されないだろう。労働条件は悪いし、組合にも入れない。しかも保険も福祉もないからな」
「マジかよ!? 世知辛いな、おい!」
労働者として孝也が思わず突っ込んでいた。
基本的な条件が整っているからこその契約じゃないのか。
妖怪だけ条件が悪いなんて、まるで差別ではないか。
確かに人には人、妖怪には妖怪の社会があるのかもしれないが、それにしても生活圏が区別され過ぎている気がする。
などと労働をこよなく愛する孝也が若干立腹していると、川の中からヤナが声をかけてきた。
「藤岡さん、藤岡さん。だからオラのような仲介人がいるんだべ。
オラは魚たち専門だから詳しくは知らんけんど、陸の仲介人なんかもその個体に適した条件で斡旋しているはずだべぇ。だからこそ諸々の問題も生じにくいんだぁ」
「その結果がこの人か?」
孫に小遣いをやるためには現金が必要。しかし妖怪の本職では稼ぎが少なく、それなりに稼ぐにはこの中央地区で自ら商売をするか、雇用されなければならない。
撫子の話では人間の社会保障が適応されないらしいので、正当に働くにはそれなりの手間が必要となることだろう。
果たしてこの老人は、どういう経緯で今の仕事を見つけたのか。
同じ労働者として同情を禁じ得ない孝也なのであった。




