第一章 三話
北地区行のバスに乗って僅か五分。入間川を越えた旧川島町の一角に、孝也たちが借りている移民専用のアパートメントは存在している。
この町は多種族共同都市と呼ばれる通り、実に多種多様な種族が暮らしている。
そのため、それぞれの衝突を防ぐために居住区が定められており、基本的に住民以外の立ち入りは禁止されている。
この北区の場合、移民地区であるため孝也は出入りが自由だが、人間以外の種族が入るには中央地区の警察署か市役所で許可の申請をしなければならないのである。
「まあ私は調停屋だから、全ての地区にフリーパスで入れるのだがね。
緊急事態に許可を得ている時間なんてないからね」
そうしてたどり着いたのがアパートメントの二階。築四十年のみすぼらしい建物の一室が孝也の部屋であり、その隣が幼馴染が引き籠っている部屋なのである。
「ふむ。確かに結界だね。これを開けるのは一般人には難しいだろう」
「やっぱりか。で、どうするんだ? 何か儀式みたいなことでもすんのか?」
「まずは挨拶。これ、礼儀の基本だな。いきなり開けたら失礼だろう」
「何の話だよ……」
ここで常識的な礼儀が必要なのかは不明である。
少女はまず来訪を告げるために扉を普通にノックした。
「御免下さい。こちらは生活相談課、異種族調停係の者ですが」
声をかけて返事を待つ。
しかし中からは何の反応もなかった。
居留守なのか、もしくは返事をする気力がないのか。
「……返事はない。ただの屍のようだ」
「やめろよ縁起でもねぇ。大丈夫、生きてんよ」
「何故そう言い切れるのかね?」
「今朝、テレビのザッピング音を確認している」
普通に生活している気配は感じるのだ。問題は食事を取っていないことである。
「そうか。毎朝キミは幼馴染の女性の部屋の音を盗み聞きしていると」
「隣だから聞こえてくんだよ! ボロアパートなめんな!」
完全なる不可抗力である。人を変態呼ばわりするのはやめてもらいたい。
「まあ、結界が維持されているので生存しているのはわかっていたんだがね。
この手の結界は術者が死ねば解除されるものだから」 何が屍のようだ、だ。
生きていることが分かっているなら不謹慎な冗談を挿まないでもらいたい。
……いや、寧ろわかっているからこその冗談か。
しかし、この娘は出会ってからずっと余計なことばかり口にしている。大人しそうな外見とは裏腹に陽気な人間なのかもしれない。
「なに、お約束だよ。形式美というものは大切にしないとな。キミだって空気ぐらいは読むだろう」
「そんな空気は存在しねぇよ……」
孝也が真面目に相談しているというのに軽口ばかり叩いている。やはり人間ではないと理屈や常識が違うのかもしれない。
「さて、返事がないということは寝ているという可能性もあるということだね?」
「まあ、そうだな」「つまりここで騒いでいても無駄である可能性もある訳だ」
「それが?」
と、いきなり少女は腰を落として右手の拳を構えた。
「お、おい、まさか――」
そして止める暇もなく、「えいっ」と正拳突きを放って扉を吹き飛ばしてしまったのであった。
「え、え〜〜〜〜〜〜っ!?」
礼儀はどうした礼儀は。
幾ら返事がないからと言って、何をしても良いということにはならない。
「な、何しやがる! ドアがなくなっちまったじゃねぇか!」
「大丈夫、後で家主に話を通しておく。ついでに代用品の手配もしておくから、一時間後には新しい物がついているだろう」
「何そのアフターケア……」
「取り敢えずお邪魔しよう。お邪魔します」
「おい、ちょっとぐらい待て! 遠慮なしかよ!」
少女はズンズンと室内に押し入ってしまった。
部屋は孝也の部屋と同じで、全室が土足の西洋風フローリングになっていた。
玄関には敷居も廊下もなく、入ってすぐにテーブルとソファー、そしてテレビがあるだけの簡素なリビングだ。
取り敢えずそこに幼馴染の姿はなく、動いているのは床で稼働している全自動掃除機だけ。
左側には二つの扉とキッチンがある。手前の扉は洗面所やトイレ。そして残す一つが、寝室へと繋がる扉である。
少女は視線だけで室内の様子を確認してから、迷うことなく寝室の扉を開けた。
感だとしたら大したものだ。
その寝室内は濃い闇に覆われていた。
窓がなく一切の光源がないため、室内灯を点けないと夜のように暗いのだ。
そんな闇の中から、エアコンの冷気と駆動音だけが静かに漂ってきていた。
「失礼する。少々よろしいかね?」
「……?」
僅かに反応する気配がした。
孝也が室内灯のスイッチを入れると、古い蛍光灯によって部屋の全貌が浮き彫りとなった。
今時LEDではないらしい。
そんな地味な部屋の隅には寝台が一つ。
その上に、膝を抱えている一人の女性の姿があった。
年齢は二十代前半。色気のない寝間着姿で、髪は肩下ほどの長さだが無尽蔵に飛び跳ねていて寝癖か癖毛かは判断できない。
その悲惨な格好の人物こそが、孝也の幼馴染である日吉夕海であった。




