↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

忘れていた温度

「昨日までは、こんな文字ありませんでした」


 言ってから、澄乃は口を閉じた。


 天球儀を見上げていた真白が、ゆっくりとこちらを向く。


「昨日?」


 金色の輪が、二人の間を音もなく通り過ぎた。細かな文字が、その縁に沿って流れている。


「……そういう気が、しただけです」

「昨日もここに来たの?」

「来た、というのとは少し違います」

「見たことはある」

「ええ」

「どこで?」


 澄乃は答えに迷った。


 心の中で、と言えば済むことだった。けれど、こうして足元に石畳があり、花に触れた感触が指に残っていると、これまでの方をどう説明すればいいのかわからなくなる。


「目を閉じたときなどに、よく」

「なるほど」


 真白は笑わなかった。


 鞄から小さなノートを出し、開く。挟まっていたレシートが落ちかけたので、澄乃が受け止めた。


「夢とは違う?」

「眠ってはいませんから」

「じゃあ、見ていた場所に入れたんだ」


 驚くほどあっさりと、真白はそう言った。


「信じるんですか」

「目の前で公園がこうなったんだよ。澄乃の話だけ疑うのも変でしょ」


 ペンの先が紙を走る。


「ちなみに、文字は読める?」

「いいえ」

「そっか。君が案内人なら、少し楽できるかと思った」

「人選を誤りましたね」

「でも、手がかりが増えた」


 真白は嬉しそうに天球儀へ向き直った。


 澄乃は拾ったレシートを畳み、彼女の鞄の外ポケットへ入れた。


     *


 滑り台だった光の帯は、近づくと、幾筋もの細い光を織り合わせたものに見えた。


 真白はその端にしゃがみ込み、横からのぞき、今度は顔を傾けて下を見ようとした。


「裏側がない」

「ありますよ。そちら側に」

「そうじゃなくて、厚みが見えないの。なのに――」


 靴の先を載せる。


 光はしならなかった。


 体重を移しても、沈まない。真白は片足立ちになり、小さく膝を曲げた。


「ちゃんと支える」

「跳ばないでくださいね」

「ちょっとだけ」

「跳ばないでください」


 真白は澄乃を見て、静かに両足を揃えた。


 光の先には白い足場が続いていた。一枚ずつ離れ、湖の上に浮かんでいる。橋脚も、吊るための綱もなかった。


 澄乃が踏み出すと、足裏には確かな硬さがあった。


 けれど体は軽かった。肩に掛けた鞄も、いつものように片側へ体を引っ張らない。歩くたびに地面へ戻される感覚が薄く、それなのに、足を置く場所を間違える気がしなかった。


 空は暗い。


 それでも、真白の袖口のほつれまで見えた。


 湖の向こうには薄桃色の雲が重なり、その上から深い藍色が広がっていた。夕暮れのようでも、夜明けのようでもある。どちらへ変わっていく気配もない。


 遠くの星を見ていたはずなのに、瞬きをすると、同じ輝きがすぐ傍らにあった。


 手を伸ばせば届きそうで、目を凝らせば途方もなく遠い。


 自分たちが空を眺めているのか、空の中を歩いているのか、澄乃にはわからなかった。


「澄乃、これ」


 真白の指先の少し先に、スーパーボールほどの小さな星が浮いていた。


 丸い光の内側で、青と白がゆっくりと渦を巻いている。その周りには、やじろべえに似た小さな秤があった。


 左右に伸びた腕は鈍い金色で、表面には木目のような筋が通っている。枝の節にも、古い金属の継ぎ目にも見えた。


 片方の先がわずかに傾く。


 そこから数粒、光の砂がこぼれた。


 砂は落ちずに、ほどけるように宙へ広がった。


「……触ってみても?」

「私に許可を求められても」


 言い終える前に、真白は秤の中央へ指を添えていた。


「重い」

「浮いていますが」

「うん。でも、軽くない」


 澄乃も、おそるおそる下から手を添えた。


 押し潰されるような重さではなかった。ただ、動かそうとすると、掌の奥へずっしりした抵抗が返ってくる。こんな小さなものの中に、長い年月が詰まっているようだった。


 手を離すと、秤はその場に残った。


 真白は目を輝かせ、またノートを開く。


「上も下も、私たちが思ってるほど大事じゃないのかも」

「そうですか」

「足場が浮いてるのに、乗っても動かない。これも浮いてるのに慣性は――」

「先に行きますよ」

「待ってくれたっていいじゃないか」


 澄乃は数歩先で立ち止まり、振り返った。


「天球儀まで、という約束はどうなりました?」

「もうここまで来たから」

「今後、あなたとの約束は書面にします」


 真白が笑いながら追いつく。


 その声が遠ざかると、この世界にはほとんど音がなかった。


 水鳥もいない。窓を開ける人も、対岸で火を焚く人もいない。


 それでも澄乃は、置き去りにされたとは感じなかった。


 誰もいない場所が、こんなにも自分を待っている。


 それは少し不思議で、ひどく心地よかった。


     *


 橋の途中に、小さな岸辺があった。


 白い足場の列から、細い道が脇へ伸びている。低い枝の下に、椅子が一つ置かれていた。


 澄乃の足が止まった。


 華やかなものではなかった。


 大きな葉を丸めたような背もたれと、両側から内へ寄り添う肘掛け。深い座面。その全体が、浅い舟のような脚に支えられている。


 周囲のものが内側から光っているのに、その椅子だけは色褪せていた。


 縁は擦れ、表面には細かなひびがあった。奥に張られた柔らかそうな布は、誰かが長く座っていた場所だけ、少しくぼんでいる。


 知っている。


 そう思った途端、膝の裏に、存在しない感触が戻った。


 足が床に届かなかった。


 ここに座ると、体の横も、背中も、頭の後ろも、ちょうどよく支えられた。深く包まれるのに窮屈ではなく、少し身じろぎすると、椅子は水の上のように揺れた。


 温かかった。


 誰かが先に座っていたような温かさが、いつも残っていた。


 まだ城も、橋も、あの大きな月もなかった頃。


 澄乃の世界には、この椅子だけがあった。


 ――今日ね。


 幼い自分の声が、ふいに近くなる。


 ――お花に水をあげたら、先生が気づいてくれた。


 そこでは、話し始める順番を考えなくてよかった。


 ――一緒に遊びたかったのに、もう帰りたいって言っちゃった。


 上手に説明できなくても、言い直してよかった。


 ――ほんとは、あれ、いやだった。


 誰も座っていないのに。


 誰も返事をしないのに。


 言葉は途中で行き場を失わず、椅子の丸い内側に収まった。母に一日の話をするときのように、嬉しかったことから、言いにくかったことまで、少しずつ取り出せた。


 話し終わる頃には、胸の中に、また明日を入れる場所ができていた。


 いつから来なくなったのだろう。


 心の中の景色は、ずっと広げていた。湖を作り、塔を増やし、空に星を散らした。


 そのどこへ行っても一人でいられるようになって、最初に自分を休ませてくれた場所だけを、忘れていた。


 澄乃は道を外れ、椅子へ近づいた。


 肘掛けの先が、少し欠けている。


 それを見た途端、胸の奥が痛んだ。


 誰も使わなくなったあとも、ここにあったのだ。


 自分が背を伸ばし、靴を買い替え、幼い頃の服を着られなくなる間も。


 椅子は、小さな体の形を残したまま待っていた。


 ごめんなさい、と言うのも違う気がした。


 ただ、触れたかった。


 指を伸ばす。


「早く行かないのかね?」


 柔らかな声が、背中に触れた。


 澄乃は、はっと振り向いた。


 叱られたのでも、急かされたのでもなかった。


 もう十分休めたか、と確かめるような温かさがあった。


「……真白さん?」


「城。入口、見えてるよ」


 真白は橋の先を指していた。


 片方の肩から鞄がずり落ち、その紐を肘で引っ掛けている。後頭部の寝癖も、そのままだった。


「あの壁、近くで見たいんだよね。石にしては継ぎ目が変で」


 椅子には目も向けない。


 澄乃は彼女を見つめ、それから、伸ばしかけた手を下ろした。


「……今、行きます」

「うん」


 もう一度だけ椅子を見る。


 座ってしまったら、長く立ち上がれない気がした。


 澄乃はその形を覚え直すように眺め、真白の後を追った。


     *


 城まで、ずいぶん歩いた気がした。


 けれど橋を渡り始めてから、まだ一呼吸しかしていないようでもあった。


 足は疲れていない。空の色も変わっていない。


 道の長さを確かめようと振り返ったときには、二人はもう城門の前にいた。


 塔は、見上げると首が痛くなるほど高かった。


 壁にはレンガに似た四角いものが積まれている。灰色に紫を混ぜたような色で、一つ一つの角が、わずかに丸い。


 澄乃が掌を当てると、冷たくなかった。


 日の当たらない壁なのに、午後の陽だまりの名残があった。


 大きな門は開いていた。


 番をする者も、名を尋ねる者もいない。


「こんにちは」


 真白が中へ声をかけた。


 返事はなかった。


 彼女はしばらく待ち、澄乃を振り返る。


「お邪魔します、でいいかな」

「住んでいる方がいるなら」

「いなくても言っておこう。お邪魔します」


 真白は敷居をまたいだ。


 澄乃は一歩、遅れた。


 何度も眺めてきた城だった。


 尖塔の数も、窓の形も知っている。それなのに、向こう側に廊下があり、曲がり角があることを、今初めて知った。


 胸元で鞄の紐を握り直す。


「澄乃?」

「……はい」


 中へ入ると、足音が低く響いた。


 壁の所々に、小さな火が灯っている。それだけでは足りないはずなのに、廊下の奥まで見渡せた。


 影は深い。けれど、その中に何かが隠れているとは思わなかった。


 真白はさっそく壁際にしゃがんでいた。


「目地がない。積んだんじゃないのかな」

「入って早々、床の調査ですか」

「壁の下の方です」

「大きな違いでしょうか」


 澄乃は顔を上げた。


 正面の壁に、タペストリーが掛かっていた。


 紫と黄色のパンジーが、布いっぱいに咲いている。花の中央の濃い色が、小さな顔のように見えた。


「あ……」


「何かあった?」


「この花、好きでした」


 幼い頃、道端の花壇でよくしゃがみ込んだ。


 同じ種類なのに、どの花も違う表情をしている。それが面白くて、一つずつ見ていると、母が隣で待ってくれた。


「今は?」

「今も、好きです。たぶん、見かける機会が減っただけで」


 その先の扉には、紋章らしい飾りがあった。


 跳ねる馬の背に虹が架かり、周囲を星が囲んでいる。


 澄乃は近づいた。


 小学校の高学年の頃、ノートの端に何度も描いた組み合わせだった。馬の脚がうまく描けず、いつもそこだけ消しゴムを使いすぎた。


 目の前の馬は、澄乃の絵よりずっと上手だった。


 けれど、虹の下に星を置く順番は同じだった。


「これも?」


 真白が尋ねた。


 澄乃は頷く。


 真白は紋章を見て、タペストリーの方を振り返った。


「……なるほどね」


「何がですか」

「まだ途中。もう少し見たい」


 そのとき、甘い匂いがした。


     *


 食堂の扉も開いていた。


 長いテーブルの端に、二人分だけ、食事が用意されている。


 厚く切られたフレンチトースト。


 焼き色のついた表面で、四角いバターが少しずつ溶けていた。傍らのコーヒーから、細い湯気が上がっている。


 白い皿の縁には、金色の星が並んでいた。


 澄乃は入口で立ち止まった。


「……どうして」


 その声に、真白も足を止めた。


「これも、好きなもの?」


 澄乃は答える前に、部屋の奥を見た。


 厨房へ続きそうな入口がある。


 人影はない。


「母が、作ってくれたんです」


 学校から帰って、うまく笑えなかった日。


 明日のことを考えるだけで、朝が来なければいいと思った日。


 母は事情を全部聞くより先に、冷蔵庫を開けることがあった。


 卵を割る音。


 牛乳を注ぐ音。


 フライパンの上で、バターが溶ける匂い。


 食べる、と聞かれて頷くと、それだけで会話に参加できた気がした。


「落ち込んでいるときなどに。……よく」


 真白は厨房をのぞき、誰もいないことを確かめて戻ってきた。


「ちょうど焼けたところみたいだね」


 澄乃は椅子に手を掛けた。


 座っていいのか迷うより先に、匂いをもう一度、近くで確かめたかった。


 真白も向かいに座る。


「いただいて、いいんだろうか」

「ここまで座ってから言いますか」

「礼儀として、一応」

「誰に向けた礼儀でしょう」

「作ってくれた……何かに」


 真白が両手を合わせた。


 澄乃も、そっと手を合わせる。


「いただきます」


 ナイフを入れると、表面がかすかに鳴った。


 中は柔らかく、卵の黄色が端まで染みていた。


 一口、食べる。


 澄乃は動きを止めた。


 甘さも、温度も、知っていた。


 よく焼けた端を噛むと、バターの香りが広がった。


 思っていたより空腹だったことに、そのとき気づいた。


「おいしい」


 真白が、驚いたように言う。


「調査はよろしいんですか」

「味も重要な情報だから」

「ずいぶん熱心な調査ですね」

「君も、もう二口目だよ」


 澄乃は返事の代わりにコーヒーを飲んだ。


 真白は笑い、皿の縁を指で示した。


「星も好き?」

「ええ」

「パンジー、馬、虹、星。あとフレンチトースト」

「並べられると、少し恥ずかしいですね」

「私は面白いと思う」


 彼女はノートを開きかけ、バターのついた指に気づいて引っ込めた。


 澄乃がナプキンを渡す。


「ここ、君の好きなものが、違う時期のものまで一緒にある」


「……そうですね」


「さっきの文字みたいに知らないものもあるけど、何もかも無関係ってわけじゃない」


 澄乃は皿を見た。


 金色の星が、食堂の火を受けて小さく光っている。


「私が忘れていたものまで、あります」


 椅子のことは、まだ話せなかった。


 言葉にした途端、あのひび割れまで真白の調査項目になってしまうのが、少しだけ嫌だった。


 真白は窓の外を見た。


「あとは、誰がこの二人分を用意してくれたのか、だね」


「誰もいないのかもしれません」

「うん。でも、出来立てだ」


 澄乃はもう一口食べた。


 理由がわからないままでも、ここにいると、体の奥から少しずつ力が抜けていく。


 急いで答えなくていい。


 楽しいふりをしなくていい。


 真白が何かを喋っていて、自分は聞きたいところだけ聞いている。それでも、目の前の席は空かない。


「……こういう場所なら」


 澄乃は小さく言った。


「ずっといても、困らない気がします」


 真白はフォークを置いた。


 すぐには返事をしなかった。


 澄乃は、その沈黙に顔を上げる。


「……何ですか」

「居心地、いいんだね」

「ええ」


 真白は頷いた。


「さっきの子にも、食べさせたいくらいおいしいよね」

「さっきの?」

「学食で、ノートのお礼を言ってた子」


 澄乃の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。


「ああ……」

「お礼したいって言ってたし。今度、お茶でも――」


 椅子の脚が床を擦る音がした。


 食堂の音ではなかった。


     *


 放課後の教室。


 机を寄せる音。


 澄乃は、折り畳んだ紙を持っていた。


 話しかける前に何度も確かめた、短い言葉。


 ――今度、私も一緒に行っていい?


 笑い声がした。


 自分に向けられたものだったのか、今ではもう、はっきりしない。


 ただ、言い終えたあとに誰かが少し困った顔をして、その隣の子へ目を向けたことだけは覚えていた。


 ――澄乃って、そういうの来ないと思ってた。


 責める言い方ではなかった。


 だから、何を返していいかわからなかった。


 断られる前に笑った。


 ――うん。別に、行きたかったわけじゃないから。


 机の下で、紙を握り潰した。


 帰ってからも、その音が手の中に残っていた。


 次に誘われたときには、自分から断った。


 その方が、ずっと簡単だった。


 カップが鳴った。


 澄乃は瞬きをした。


 コーヒーの表面に、細かな波が立っていた。


 テーブルが震えている。


 壁の火が、同時に細くなった。


「澄乃?」


 窓の外の星が、遠ざかった。


 さっきまであんなに近かったのに。


 天井が高くなっていく。廊下の奥が伸び、扉が、手の届かない場所へ離れていく。


 喉に、あの日の言葉が戻った。


 行きたかった。


 本当は、一緒に行きたかった。


 ただそれだけのことを、どうしてあんなに恥ずかしいと思ったのだろう。


 真白に何か言おうとした。


 大丈夫です。


 少し、思い出しただけです。


 けれど口を開くと、息しか出なかった。


 世界の奥で、低い震えが続いている。


 ここにも来るのか、と思った。


 あんなに遠くへ置いてきたつもりだったのに。


 皿の縁に触れていた指を引っ込め、澄乃は両手を胸元に寄せた。


 火が一つ、ふくらんだ。


 消えそうだった炎に、丸い明るさが戻る。


 続いて、その隣も。


 壁を伝う震えが、少しずつ遠のいていった。


 甘い匂いがした。


 焼けたパンと、溶けたバター。


 母が台所にいる日の匂い。


 澄乃は息を吸った。


 今度は、少し深く入った。


「急がなくていい」


 耳の近くで、声がした。


 肩と、胸元に寄せた腕が、温かく包まれていた。


 いつの間にか、真白が後ろに立っていた。


 澄乃の背中に、自分の体を沿わせるようにして、そっと抱きしめている。


「うまく話せなくてもいいから」


 その声は落ち着いていた。


 いつもの、次の発見へ駆けていく声ではなかった。


 長く待つことを知っている声だった。


 澄乃は彼女の袖をつかんだ。


 壁の震えが収まっていく。


 遠のいていた窓が、元の場所へ戻った。星が一つ、ガラスの向こうをゆっくり通り過ぎる。


「……私」


「うん」


「行きたかったんです」


 声にすると、それは驚くほど小さな言葉だった。


 何年も胸の中で膨らんで、触れるのさえ怖くなっていたものが、たったそれだけの形になった。


「一緒に、行ってみたかった」


「うん」


 続きを求められなかった。


 どうして断ったのかも、次は頑張れるかも、聞かれなかった。


 澄乃は袖を握ったまま、目を閉じた。


 背中が支えられている。


 体の両側が、柔らかく包まれている。


 足元は確かなのに、重さだけがほどけていく。


 知っていた。


 この温度を。


 今日、橋の途中で思い出したばかりだった。


 まだ湖も、城もなかった頃。


 言葉にならない気持ちを抱えて座ると、いつもこうして――。


 澄乃は目を開けた。


 向かいの席には、真白の皿が残っている。


 食べかけのフレンチトースト。斜めに置かれたフォーク。開きかけたノート。


 いつもの真白のものだった。


 それなのに、今、自分を包んでいる優しさは、二年前よりも、もっとずっと古い場所から届いていた。


 澄乃はゆっくりと振り向いた。


 見慣れた顔がある。


 けれど、その目をどう呼べばいいのか、一瞬わからなかった。


「あなたは……?」


 真白は、すぐには答えなかった。


 澄乃を包む腕だけが、そのまま温かかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。