忘れていた温度
「昨日までは、こんな文字ありませんでした」
言ってから、澄乃は口を閉じた。
天球儀を見上げていた真白が、ゆっくりとこちらを向く。
「昨日?」
金色の輪が、二人の間を音もなく通り過ぎた。細かな文字が、その縁に沿って流れている。
「……そういう気が、しただけです」
「昨日もここに来たの?」
「来た、というのとは少し違います」
「見たことはある」
「ええ」
「どこで?」
澄乃は答えに迷った。
心の中で、と言えば済むことだった。けれど、こうして足元に石畳があり、花に触れた感触が指に残っていると、これまでの方をどう説明すればいいのかわからなくなる。
「目を閉じたときなどに、よく」
「なるほど」
真白は笑わなかった。
鞄から小さなノートを出し、開く。挟まっていたレシートが落ちかけたので、澄乃が受け止めた。
「夢とは違う?」
「眠ってはいませんから」
「じゃあ、見ていた場所に入れたんだ」
驚くほどあっさりと、真白はそう言った。
「信じるんですか」
「目の前で公園がこうなったんだよ。澄乃の話だけ疑うのも変でしょ」
ペンの先が紙を走る。
「ちなみに、文字は読める?」
「いいえ」
「そっか。君が案内人なら、少し楽できるかと思った」
「人選を誤りましたね」
「でも、手がかりが増えた」
真白は嬉しそうに天球儀へ向き直った。
澄乃は拾ったレシートを畳み、彼女の鞄の外ポケットへ入れた。
*
滑り台だった光の帯は、近づくと、幾筋もの細い光を織り合わせたものに見えた。
真白はその端にしゃがみ込み、横からのぞき、今度は顔を傾けて下を見ようとした。
「裏側がない」
「ありますよ。そちら側に」
「そうじゃなくて、厚みが見えないの。なのに――」
靴の先を載せる。
光はしならなかった。
体重を移しても、沈まない。真白は片足立ちになり、小さく膝を曲げた。
「ちゃんと支える」
「跳ばないでくださいね」
「ちょっとだけ」
「跳ばないでください」
真白は澄乃を見て、静かに両足を揃えた。
光の先には白い足場が続いていた。一枚ずつ離れ、湖の上に浮かんでいる。橋脚も、吊るための綱もなかった。
澄乃が踏み出すと、足裏には確かな硬さがあった。
けれど体は軽かった。肩に掛けた鞄も、いつものように片側へ体を引っ張らない。歩くたびに地面へ戻される感覚が薄く、それなのに、足を置く場所を間違える気がしなかった。
空は暗い。
それでも、真白の袖口のほつれまで見えた。
湖の向こうには薄桃色の雲が重なり、その上から深い藍色が広がっていた。夕暮れのようでも、夜明けのようでもある。どちらへ変わっていく気配もない。
遠くの星を見ていたはずなのに、瞬きをすると、同じ輝きがすぐ傍らにあった。
手を伸ばせば届きそうで、目を凝らせば途方もなく遠い。
自分たちが空を眺めているのか、空の中を歩いているのか、澄乃にはわからなかった。
「澄乃、これ」
真白の指先の少し先に、スーパーボールほどの小さな星が浮いていた。
丸い光の内側で、青と白がゆっくりと渦を巻いている。その周りには、やじろべえに似た小さな秤があった。
左右に伸びた腕は鈍い金色で、表面には木目のような筋が通っている。枝の節にも、古い金属の継ぎ目にも見えた。
片方の先がわずかに傾く。
そこから数粒、光の砂がこぼれた。
砂は落ちずに、ほどけるように宙へ広がった。
「……触ってみても?」
「私に許可を求められても」
言い終える前に、真白は秤の中央へ指を添えていた。
「重い」
「浮いていますが」
「うん。でも、軽くない」
澄乃も、おそるおそる下から手を添えた。
押し潰されるような重さではなかった。ただ、動かそうとすると、掌の奥へずっしりした抵抗が返ってくる。こんな小さなものの中に、長い年月が詰まっているようだった。
手を離すと、秤はその場に残った。
真白は目を輝かせ、またノートを開く。
「上も下も、私たちが思ってるほど大事じゃないのかも」
「そうですか」
「足場が浮いてるのに、乗っても動かない。これも浮いてるのに慣性は――」
「先に行きますよ」
「待ってくれたっていいじゃないか」
澄乃は数歩先で立ち止まり、振り返った。
「天球儀まで、という約束はどうなりました?」
「もうここまで来たから」
「今後、あなたとの約束は書面にします」
真白が笑いながら追いつく。
その声が遠ざかると、この世界にはほとんど音がなかった。
水鳥もいない。窓を開ける人も、対岸で火を焚く人もいない。
それでも澄乃は、置き去りにされたとは感じなかった。
誰もいない場所が、こんなにも自分を待っている。
それは少し不思議で、ひどく心地よかった。
*
橋の途中に、小さな岸辺があった。
白い足場の列から、細い道が脇へ伸びている。低い枝の下に、椅子が一つ置かれていた。
澄乃の足が止まった。
華やかなものではなかった。
大きな葉を丸めたような背もたれと、両側から内へ寄り添う肘掛け。深い座面。その全体が、浅い舟のような脚に支えられている。
周囲のものが内側から光っているのに、その椅子だけは色褪せていた。
縁は擦れ、表面には細かなひびがあった。奥に張られた柔らかそうな布は、誰かが長く座っていた場所だけ、少しくぼんでいる。
知っている。
そう思った途端、膝の裏に、存在しない感触が戻った。
足が床に届かなかった。
ここに座ると、体の横も、背中も、頭の後ろも、ちょうどよく支えられた。深く包まれるのに窮屈ではなく、少し身じろぎすると、椅子は水の上のように揺れた。
温かかった。
誰かが先に座っていたような温かさが、いつも残っていた。
まだ城も、橋も、あの大きな月もなかった頃。
澄乃の世界には、この椅子だけがあった。
――今日ね。
幼い自分の声が、ふいに近くなる。
――お花に水をあげたら、先生が気づいてくれた。
そこでは、話し始める順番を考えなくてよかった。
――一緒に遊びたかったのに、もう帰りたいって言っちゃった。
上手に説明できなくても、言い直してよかった。
――ほんとは、あれ、いやだった。
誰も座っていないのに。
誰も返事をしないのに。
言葉は途中で行き場を失わず、椅子の丸い内側に収まった。母に一日の話をするときのように、嬉しかったことから、言いにくかったことまで、少しずつ取り出せた。
話し終わる頃には、胸の中に、また明日を入れる場所ができていた。
いつから来なくなったのだろう。
心の中の景色は、ずっと広げていた。湖を作り、塔を増やし、空に星を散らした。
そのどこへ行っても一人でいられるようになって、最初に自分を休ませてくれた場所だけを、忘れていた。
澄乃は道を外れ、椅子へ近づいた。
肘掛けの先が、少し欠けている。
それを見た途端、胸の奥が痛んだ。
誰も使わなくなったあとも、ここにあったのだ。
自分が背を伸ばし、靴を買い替え、幼い頃の服を着られなくなる間も。
椅子は、小さな体の形を残したまま待っていた。
ごめんなさい、と言うのも違う気がした。
ただ、触れたかった。
指を伸ばす。
「早く行かないのかね?」
柔らかな声が、背中に触れた。
澄乃は、はっと振り向いた。
叱られたのでも、急かされたのでもなかった。
もう十分休めたか、と確かめるような温かさがあった。
「……真白さん?」
「城。入口、見えてるよ」
真白は橋の先を指していた。
片方の肩から鞄がずり落ち、その紐を肘で引っ掛けている。後頭部の寝癖も、そのままだった。
「あの壁、近くで見たいんだよね。石にしては継ぎ目が変で」
椅子には目も向けない。
澄乃は彼女を見つめ、それから、伸ばしかけた手を下ろした。
「……今、行きます」
「うん」
もう一度だけ椅子を見る。
座ってしまったら、長く立ち上がれない気がした。
澄乃はその形を覚え直すように眺め、真白の後を追った。
*
城まで、ずいぶん歩いた気がした。
けれど橋を渡り始めてから、まだ一呼吸しかしていないようでもあった。
足は疲れていない。空の色も変わっていない。
道の長さを確かめようと振り返ったときには、二人はもう城門の前にいた。
塔は、見上げると首が痛くなるほど高かった。
壁にはレンガに似た四角いものが積まれている。灰色に紫を混ぜたような色で、一つ一つの角が、わずかに丸い。
澄乃が掌を当てると、冷たくなかった。
日の当たらない壁なのに、午後の陽だまりの名残があった。
大きな門は開いていた。
番をする者も、名を尋ねる者もいない。
「こんにちは」
真白が中へ声をかけた。
返事はなかった。
彼女はしばらく待ち、澄乃を振り返る。
「お邪魔します、でいいかな」
「住んでいる方がいるなら」
「いなくても言っておこう。お邪魔します」
真白は敷居をまたいだ。
澄乃は一歩、遅れた。
何度も眺めてきた城だった。
尖塔の数も、窓の形も知っている。それなのに、向こう側に廊下があり、曲がり角があることを、今初めて知った。
胸元で鞄の紐を握り直す。
「澄乃?」
「……はい」
中へ入ると、足音が低く響いた。
壁の所々に、小さな火が灯っている。それだけでは足りないはずなのに、廊下の奥まで見渡せた。
影は深い。けれど、その中に何かが隠れているとは思わなかった。
真白はさっそく壁際にしゃがんでいた。
「目地がない。積んだんじゃないのかな」
「入って早々、床の調査ですか」
「壁の下の方です」
「大きな違いでしょうか」
澄乃は顔を上げた。
正面の壁に、タペストリーが掛かっていた。
紫と黄色のパンジーが、布いっぱいに咲いている。花の中央の濃い色が、小さな顔のように見えた。
「あ……」
「何かあった?」
「この花、好きでした」
幼い頃、道端の花壇でよくしゃがみ込んだ。
同じ種類なのに、どの花も違う表情をしている。それが面白くて、一つずつ見ていると、母が隣で待ってくれた。
「今は?」
「今も、好きです。たぶん、見かける機会が減っただけで」
その先の扉には、紋章らしい飾りがあった。
跳ねる馬の背に虹が架かり、周囲を星が囲んでいる。
澄乃は近づいた。
小学校の高学年の頃、ノートの端に何度も描いた組み合わせだった。馬の脚がうまく描けず、いつもそこだけ消しゴムを使いすぎた。
目の前の馬は、澄乃の絵よりずっと上手だった。
けれど、虹の下に星を置く順番は同じだった。
「これも?」
真白が尋ねた。
澄乃は頷く。
真白は紋章を見て、タペストリーの方を振り返った。
「……なるほどね」
「何がですか」
「まだ途中。もう少し見たい」
そのとき、甘い匂いがした。
*
食堂の扉も開いていた。
長いテーブルの端に、二人分だけ、食事が用意されている。
厚く切られたフレンチトースト。
焼き色のついた表面で、四角いバターが少しずつ溶けていた。傍らのコーヒーから、細い湯気が上がっている。
白い皿の縁には、金色の星が並んでいた。
澄乃は入口で立ち止まった。
「……どうして」
その声に、真白も足を止めた。
「これも、好きなもの?」
澄乃は答える前に、部屋の奥を見た。
厨房へ続きそうな入口がある。
人影はない。
「母が、作ってくれたんです」
学校から帰って、うまく笑えなかった日。
明日のことを考えるだけで、朝が来なければいいと思った日。
母は事情を全部聞くより先に、冷蔵庫を開けることがあった。
卵を割る音。
牛乳を注ぐ音。
フライパンの上で、バターが溶ける匂い。
食べる、と聞かれて頷くと、それだけで会話に参加できた気がした。
「落ち込んでいるときなどに。……よく」
真白は厨房をのぞき、誰もいないことを確かめて戻ってきた。
「ちょうど焼けたところみたいだね」
澄乃は椅子に手を掛けた。
座っていいのか迷うより先に、匂いをもう一度、近くで確かめたかった。
真白も向かいに座る。
「いただいて、いいんだろうか」
「ここまで座ってから言いますか」
「礼儀として、一応」
「誰に向けた礼儀でしょう」
「作ってくれた……何かに」
真白が両手を合わせた。
澄乃も、そっと手を合わせる。
「いただきます」
ナイフを入れると、表面がかすかに鳴った。
中は柔らかく、卵の黄色が端まで染みていた。
一口、食べる。
澄乃は動きを止めた。
甘さも、温度も、知っていた。
よく焼けた端を噛むと、バターの香りが広がった。
思っていたより空腹だったことに、そのとき気づいた。
「おいしい」
真白が、驚いたように言う。
「調査はよろしいんですか」
「味も重要な情報だから」
「ずいぶん熱心な調査ですね」
「君も、もう二口目だよ」
澄乃は返事の代わりにコーヒーを飲んだ。
真白は笑い、皿の縁を指で示した。
「星も好き?」
「ええ」
「パンジー、馬、虹、星。あとフレンチトースト」
「並べられると、少し恥ずかしいですね」
「私は面白いと思う」
彼女はノートを開きかけ、バターのついた指に気づいて引っ込めた。
澄乃がナプキンを渡す。
「ここ、君の好きなものが、違う時期のものまで一緒にある」
「……そうですね」
「さっきの文字みたいに知らないものもあるけど、何もかも無関係ってわけじゃない」
澄乃は皿を見た。
金色の星が、食堂の火を受けて小さく光っている。
「私が忘れていたものまで、あります」
椅子のことは、まだ話せなかった。
言葉にした途端、あのひび割れまで真白の調査項目になってしまうのが、少しだけ嫌だった。
真白は窓の外を見た。
「あとは、誰がこの二人分を用意してくれたのか、だね」
「誰もいないのかもしれません」
「うん。でも、出来立てだ」
澄乃はもう一口食べた。
理由がわからないままでも、ここにいると、体の奥から少しずつ力が抜けていく。
急いで答えなくていい。
楽しいふりをしなくていい。
真白が何かを喋っていて、自分は聞きたいところだけ聞いている。それでも、目の前の席は空かない。
「……こういう場所なら」
澄乃は小さく言った。
「ずっといても、困らない気がします」
真白はフォークを置いた。
すぐには返事をしなかった。
澄乃は、その沈黙に顔を上げる。
「……何ですか」
「居心地、いいんだね」
「ええ」
真白は頷いた。
「さっきの子にも、食べさせたいくらいおいしいよね」
「さっきの?」
「学食で、ノートのお礼を言ってた子」
澄乃の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。
「ああ……」
「お礼したいって言ってたし。今度、お茶でも――」
椅子の脚が床を擦る音がした。
食堂の音ではなかった。
*
放課後の教室。
机を寄せる音。
澄乃は、折り畳んだ紙を持っていた。
話しかける前に何度も確かめた、短い言葉。
――今度、私も一緒に行っていい?
笑い声がした。
自分に向けられたものだったのか、今ではもう、はっきりしない。
ただ、言い終えたあとに誰かが少し困った顔をして、その隣の子へ目を向けたことだけは覚えていた。
――澄乃って、そういうの来ないと思ってた。
責める言い方ではなかった。
だから、何を返していいかわからなかった。
断られる前に笑った。
――うん。別に、行きたかったわけじゃないから。
机の下で、紙を握り潰した。
帰ってからも、その音が手の中に残っていた。
次に誘われたときには、自分から断った。
その方が、ずっと簡単だった。
カップが鳴った。
澄乃は瞬きをした。
コーヒーの表面に、細かな波が立っていた。
テーブルが震えている。
壁の火が、同時に細くなった。
「澄乃?」
窓の外の星が、遠ざかった。
さっきまであんなに近かったのに。
天井が高くなっていく。廊下の奥が伸び、扉が、手の届かない場所へ離れていく。
喉に、あの日の言葉が戻った。
行きたかった。
本当は、一緒に行きたかった。
ただそれだけのことを、どうしてあんなに恥ずかしいと思ったのだろう。
真白に何か言おうとした。
大丈夫です。
少し、思い出しただけです。
けれど口を開くと、息しか出なかった。
世界の奥で、低い震えが続いている。
ここにも来るのか、と思った。
あんなに遠くへ置いてきたつもりだったのに。
皿の縁に触れていた指を引っ込め、澄乃は両手を胸元に寄せた。
火が一つ、ふくらんだ。
消えそうだった炎に、丸い明るさが戻る。
続いて、その隣も。
壁を伝う震えが、少しずつ遠のいていった。
甘い匂いがした。
焼けたパンと、溶けたバター。
母が台所にいる日の匂い。
澄乃は息を吸った。
今度は、少し深く入った。
「急がなくていい」
耳の近くで、声がした。
肩と、胸元に寄せた腕が、温かく包まれていた。
いつの間にか、真白が後ろに立っていた。
澄乃の背中に、自分の体を沿わせるようにして、そっと抱きしめている。
「うまく話せなくてもいいから」
その声は落ち着いていた。
いつもの、次の発見へ駆けていく声ではなかった。
長く待つことを知っている声だった。
澄乃は彼女の袖をつかんだ。
壁の震えが収まっていく。
遠のいていた窓が、元の場所へ戻った。星が一つ、ガラスの向こうをゆっくり通り過ぎる。
「……私」
「うん」
「行きたかったんです」
声にすると、それは驚くほど小さな言葉だった。
何年も胸の中で膨らんで、触れるのさえ怖くなっていたものが、たったそれだけの形になった。
「一緒に、行ってみたかった」
「うん」
続きを求められなかった。
どうして断ったのかも、次は頑張れるかも、聞かれなかった。
澄乃は袖を握ったまま、目を閉じた。
背中が支えられている。
体の両側が、柔らかく包まれている。
足元は確かなのに、重さだけがほどけていく。
知っていた。
この温度を。
今日、橋の途中で思い出したばかりだった。
まだ湖も、城もなかった頃。
言葉にならない気持ちを抱えて座ると、いつもこうして――。
澄乃は目を開けた。
向かいの席には、真白の皿が残っている。
食べかけのフレンチトースト。斜めに置かれたフォーク。開きかけたノート。
いつもの真白のものだった。
それなのに、今、自分を包んでいる優しさは、二年前よりも、もっとずっと古い場所から届いていた。
澄乃はゆっくりと振り向いた。
見慣れた顔がある。
けれど、その目をどう呼べばいいのか、一瞬わからなかった。
「あなたは……?」
真白は、すぐには答えなかった。
澄乃を包む腕だけが、そのまま温かかった。




