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君のいる明日へ

「あなたは……?」


 真白は答えなかった。


 澄乃を包む腕は、温かいままだった。


 壁の火が、小さく揺れた。


 テーブルには食べかけのフレンチトーストが残っている。溶けたバターが皿のくぼみにたまり、コーヒーからは、もうほとんど湯気が立っていなかった。


 澄乃は、真白の袖をつかんでいた。


 離そうと思えば離せた。


 けれど指をほどくと、返事を聞く前に何かが終わってしまいそうだった。


 真白も、その手を急かさなかった。


 長い沈黙の中で、二人の呼吸だけが少しずつ揃っていく。


 やがて真白が、かすかに息を吐いた。


「……そんな顔をされると、困るな」


 いつもの言い方だった。


 それなのに、澄乃は笑えなかった。


     *


 最初の文字は、金色の輪に刻まれていた。


 天球儀の縁を流れていく、見たことのない文字。


 真白には、それが読めた。


 正確には、読む必要がなかった。


 目に入った瞬間、意味が自分の内側から浮かび上がった。


 幼い子どもの声を受け止めた場所。


 誰にも渡せなかった言葉。


 喜びも、寂しさも、言い直したかった一言も、消えずに積もっていたこと。


 そして、それらがやがて、ひとりの少女の姿を得たこと。


 真白は、すぐには信じなかった。


 だから澄乃に尋ねた。


 ――ちなみに、文字は読める?


 読めない、という返事を聞いたとき、胸の奥が冷えた。


 その感覚に名前をつける代わりに、真白はノートを開いた。


 調べればいい。


 知らないことは、いつもそうしてきた。


 光の橋の構造を確かめた。浮かぶ秤に触れた。空を巡る星を追った。


 けれど、星の瞬きにまで、同じ願いがあった。


 あの子が、ここで休めるように。


 休んだあと、また歩けるように。


 どうか。


 どうか、あの子を。


 誰かの命令ではなかった。


 長い間、声を持てなかった場所の祈りだった。


 澄乃が古びた椅子の前で立ち止まったとき、真白は近づけなかった。


 小さな体を包んでいたくぼみを、自分の胸の内側にも感じた。


 あそこにいた。


 まだ手も足もなく、名前もなく、返事をすることもできなかった頃から。


 城に入ってからは、もう確かめるだけだった。


 壁の継ぎ目にある印。


 通路の端に刻まれた模様。


 パンジーの花の間に、細く織り込まれた糸。


 それらは、真白が目を向けるたびに記憶を返した。


 十九歳の少女として持っているつもりだった年月より、ずっと長い時間が、胸の中へ戻ってきた。


 それでも、澄乃と食べたフレンチトーストはおいしかった。


 ナプキンを渡されれば嬉しかった。


 自分が何でできているかを知っても、その気持ちは変わらなかった。


     *


「今は、私のことはいいよ」


 真白は静かに言った。


「君の話を、もう少し聞きたい」


 澄乃は首を横に振った。


「よくありません」


 袖を握る指に、力が入る。


「どうして、そんな声をするんですか」


「どんな?」


「……ずっと前から、私を知っているような」


 真白の腕が、ほんの少しだけ強くなった。


「知っているよ」


 その返事は、驚くほど小さかった。


「君が話してくれたことは、全部」


 澄乃は息を止めた。


「花に水をあげたことも。一緒に遊びたかったのに、帰りたいと言ったことも」


 食堂の火が、静かに揺れている。


「言えなかったことを、あとから何度も言い直していたのも」


「……話していません」


「うん。今の私にはね」


 澄乃はゆっくりと、袖から手を離した。


 真白も腕をほどいた。


 逃げるようには離れなかった。澄乃が振り向きやすいように一歩下がり、いつもと同じ顔で、そこに立った。


 後頭部の髪が一房、外を向いている。


 こんなときでさえ、それは直っていなかった。


「ここは、君に優しい場所だよ」


 真白が言った。


「疲れたら休める。話したくなければ、話さなくていい。好きなものも、ちゃんとある」


 澄乃はテーブルを見た。


 星の皿。


 母と同じ味の食事。


 窓の向こうには、暮れない空が広がっている。


「居心地がいいなら、ずっとここにいればいい」


 真白の声が、少しだけ平らになった。


「帰らなくても、明日の約束を考えなくてもいい。誰かに声をかけて、返事を待たなくても」


 澄乃は顔を上げた。


 真白は笑っていた。


 唇だけで、笑っていた。


「君が、本当にそれを望むならね」


 胸の奥に、小さな痛みが走った。


「……何が言いたいんですか」


「選べるってこと」


「帰った方がいいと、言いたいのでしょう」


「私は、君がどうしたいか聞いてる」


 真白の手がわずかに動いた。


 澄乃へ伸びかけて、途中で止まる。


 その指が、上着の裾を握った。


「私がここにいたいと言ったら」


「いればいい」


「ずっと?」


「……うん」


 返事までの間が、短い言葉に似合わないほど長かった。


 澄乃は立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る。


「だったら、どうしてそんな顔をするんですか」


 真白は何も言わなかった。


「ここが好きだと言うことまで、間違いなんですか」


「間違いじゃない」


「外に戻って、また上手に話せなかったら? 声をかけて、困った顔をされたら?」


 言葉が止まらなくなった。


 いつもなら飲み込めるところで、飲み込めなかった。


「あなたは平気でしょう。誰にでも話しかけられて、知らない場所にも勝手に入っていけて」


 窓が、かすかに震えた。


「私には、そんなふうにはできません」


「澄乃」


「あなたに、何がわかるんですか!」


 カップが跳ねた。


 壁の高いところで、細い音がした。


 レンガの隙間を、亀裂が走っていた。


     *


 最初に崩れたのは、窓の上の飾りだった。


 星の形をした欠片が落ちる。


 けれど床へぶつかる前に、細かな光になってほどけた。


 天井の向こうに夜空が見えた。


 城が、少しずつ形を保てなくなっている。


 澄乃は肩をすくめた。


 怒りが引くより早く、恐怖が戻ってきた。


 自分が壊している。


 そう思うと、壁の亀裂がさらに広がった。


「……ごめんなさい」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


「私、そんなつもりでは」


「うん」


 真白が近づいてきた。


 足元が震えても、彼女は澄乃を見ていた。


「わかるさ」


 いつもの、少し気安い口調だった。


「君が、誰かを困らせたくてそう言ってるんじゃないことくらい」


 澄乃の目に、涙がたまった。


「全部わかったように、言わないでください」


「そうだね」


 真白は立ち止まった。


「明日、誰が君にどんな返事をするかは、私にもわからない」


 天井から光の砂が降っていた。


 肩に触れる前に消える、冷たくない砂だった。


「でも、君が一人で帰ってきた日に、何を話していたかは知ってる」


 真白の声が揺れた。


「楽しかった話を、誰かに聞いてほしくて、何度も最初から話していたことも」


 澄乃は、目を逸らせなくなった。


「私は、その話を聞くのが好きだった」


 真白の頬を、一筋、涙が伝った。


「君のことが、大切なんだよ。世界でいちばん」


 崩れる城の中で、その声だけは遠くならなかった。


「君が私を忘れても、元気ならよかった。でも……休むために来ていた場所へ、帰らなくて済むように隠れ始めたから」


 澄乃の胸に、古い椅子の形が浮かんだ。


「だから、迎えに……?」


「座って待っているだけじゃ、届かなくなった」


 真白は困ったように笑った。


「それで、ずいぶんお喋りになったらしい」


 椅子のくぼみ。


 その中で話した言葉。


 消えてしまったと思っていた、幼い自分の声。


「あなたは、あの椅子の……」


「そこに残ったもの、かな」


 真白は自分の胸に手を置いた。


「嬉しかったことも、悲しかったことも。誰かと一緒に行きたかった気持ちも。少しずつ積もって、私になった」


 言いながら、彼女自身も確かめるように息をした。


「ちゃんとわかったのは、今日だよ。それまでは私も、君のおせっかいな友達だと思ってた」


 澄乃の中で、いくつもの場面が重なった。


 学食でノートのお礼を言った同級生は、澄乃を見ていた。


 真白が横から何かを言ったときも、話は澄乃へ返ってきた。


 二人で歩いた廊下。


 隣に座っていた講義室。


 真白の名前を呼ぶ声を、自分以外の誰かから聞いたことがあっただろうか。


 思い出せなかった。


 こんなに賑やかな人だったのに。


 いつも、自分の隣にいたのに。


「……私が、作ったんですか」


「うん」


「では、全部」


 言いかけて、止まった。


 真白の顔が、ほんの少し強張ったからだった。


 澄乃は唇をかみ、言葉を選び直した。


「……あなたが友達であることまで、変わるわけではありませんよね」


 真白が瞬きをした。


 涙が、もう一つ落ちた。


「それは」


 声が詰まる。


 真白は鼻をすすり、情けなさそうに笑った。


「私が聞きたかったことだな」


     *


 食堂の壁が、外へほどけていった。


 向こうには湖があった。


 砕けた塔の輪郭が星になり、暗い水面へ映っている。


 澄乃の足元だけは崩れなかった。


 床の縁が欠けるたび、新しい光がその下へ寄り添い、靴を支えた。


 世界はまだ、澄乃を落とさないようにしていた。


 真白が片手を差し出した。


「誰よりも、君の幸せを願っているよ」


 その先に、淡い虹が伸びた。


 透けるような七色の道だった。


 遠い端に、小さな明かりが見えた。


 街灯。


 木々の影。


 見慣れた公園のベンチ。


 現実の夜が、薄い膜の向こうにあった。


「帰ったら」


 澄乃は尋ねた。


「あなたは、どうなるんですか」


 真白は虹の道を見た。


「同じように、隣を歩けるかはわからない」


 澄乃は動かなかった。


「そんなの」


 それ以上、言葉にならなかった。


 戻れば前へ進めるのかもしれない。


 けれど、その先に真白はいないのかもしれない。


 一人になるために来た場所で、今は一人で帰ることが怖かった。


「……真白さん」


「うん」


「私は、また断るかもしれません」


「そういう日もあるだろうね」


「うまく話せずに、帰りたくなるかもしれません」


「その日は休めばいい」


「あなたのようには、なれません」


 真白は首を傾げた。


「私みたいなのが二人もいたら、君が困るでしょ」


 澄乃は、泣きながら少し笑った。


 城の最後の柱が、遠くで光に変わった。


 それでも二人の間には、急かす声がなかった。


 澄乃は虹の先を見た。


 あの同級生に、まだ返していない言葉があった。


 お礼をさせて、と言われたとき、本当は少し嬉しかった。


 今度、と言われたその続きを、自分から尋ねてみてもいいのかもしれない。


「……お茶に」


 澄乃は小さく言った。


「誘ってみたいです」


 真白は頷いた。


「うん」


「何を話すかは、決まっていませんが」


「おいしかったものの話でもすればいい」


 澄乃は差し出された手を取った。


 温かかった。


 この温度を、持って帰りたいと思った。


     *


 虹の道の途中に、椅子があった。


 崩れていく景色の中で、そこだけは静かだった。


 古びた背もたれ。


 欠けた肘掛け。


 小さな体の形を残した座面。


 澄乃は足を止めた。


 今度は、真白も何も言わなかった。


 手を離し、澄乃が歩いていくのを待っていた。


 椅子の前に膝をつく。


 伸ばした指が、擦れた縁に触れた。


 思い出の中より硬かった。


 その傷みを、澄乃は両手でなぞった。


「……ただいま」


 返事はなかった。


 けれど、もう返事がないことを寂しいとは思わなかった。


「長い間、忘れていてごめんなさい」


 頭を下げると、涙が座面に落ちた。


「私、ここで話すのが好きでした」


 言葉が、少しずつ出てきた。


「嫌だったことばかり話していた気がしていましたけど……嬉しかったことも、たくさん、聞いてもらっていたんですね」


 両腕を広げ、丸い背もたれを抱いた。


 幼い頃には包んでもらうしかなかった椅子を、今は自分の腕で抱きしめられた。


「聞いてくれて、ありがとう」


 真白が、少し離れたところで口元を押さえた。


「待っていてくれて、ありがとう」


 澄乃は頬を椅子へ寄せた。


「迎えに来てくれて……ありがとう」


 真白は何度も頷いた。


 もう、言葉を返そうとはしなかった。


 胸の中に積もっていたものが、ゆっくりほどけていく。


 座って待っていた時間も。


 名前を呼んでもらった二年間も。


 どちらも、澄乃の中に届いていた。


 澄乃は顔を上げた。


 立ち上がり、目元を拭いた。


「行ってきます」


 真白は涙の残る顔で笑った。


「いってらっしゃい」


     *


 夜の風が、頬を冷やした。


 澄乃はベンチに座っていた。


 膝には本がある。


 公園のブランコが、錆びた音を立てた。


 滑り台は街灯を細く映し、古い回転遊具は動かずにそこにあった。


 丘の下を車が走っていく。


 どこかで犬が吠えた。


 鞄は重かった。


 持ち上げると、いつものように肩が片側へ引かれた。


 隣の席には、誰もいなかった。


 澄乃はしばらく、その空いた場所を見ていた。


 何か言えば、返事が来る気がした。


 帰るの、と尋ねられて、当然です、と答える気がした。


 けれど、聞こえたのは木の葉の擦れる音だけだった。


 澄乃は立ち上がった。


 ベンチを振り返る。


 唇が動きかけたが、声にはしなかった。


 あの場所で、伝えられた。


 今は、そのことを大切にしたかった。


 坂へ向き直る。


 涙が一筋、顎まで伝った。


 拭ってから、歩き始めた。


     *


 数日後。


 講義が終わり、教室のあちこちで鞄のファスナーが鳴っていた。


 ノートのお礼を言ってくれた同級生が、前の席で帰り支度をしていた。


 澄乃は本を鞄にしまった。


 声をかけるなら、今だった。


 けれど相手が立ち上がると、自分も椅子を引いただけで終わりそうになった。


 忙しいかもしれない。


 今度、というのは挨拶だったのかもしれない。


 胸の中に、いつもの言葉が並んだ。


 澄乃は鞄の紐を握った。


 欠けた肘掛けを思い出した。


 真白の、直らない寝癖を思い出した。


「あの」


 思ったより小さな声だった。


 それでも、その子は振り向いた。


「うん?」


 澄乃は一度、息を吸った。


「この前、お礼を、と言ってくださったでしょう」


「あ、うん」


「もしよければ……お茶でも、一緒に」


 相手の顔を見るまでの一瞬が、とても長かった。


「今日?」


「ご都合がよければ」


「今日はバイトなんだ。明日なら、三限のあと空いてるけど」


 澄乃の胸が、一度だけ強く縮んだ。


 けれど、そのあとの言葉まで聞けた。


 明日なら。


「……はい。明日、お願いします」


「よかった。行ってみたいお店があるんだよね」


 澄乃は頷いた。


 帰り道、スマートフォンに店の名前が届いた。


 その短い通知を、二度、読み返した。


     *


 季節は少しずつ進んだ。


 澄乃は、いつも上手に話せるようになったわけではなかった。


 会話の途中で言葉を探しすぎて、話題が変わってしまう日もあった。


 誘いを断ってから、行けばよかったと思う夜もあった。


 そんな夜には、以前より少し素直に、自分の気持ちを認められた。


 行きたかったのだ、と。


 次の機会には、その気持ちを一言だけ伝えてみた。


 学食で、知っている顔の隣に自分から座った。


 疲れている日は、今日は一人で食べます、と言えた。


 母がフレンチトーストを焼く横で、何も聞かれないうちから、その日にあったことを話した。


 春には、道端のパンジーを撮って友人へ送った。


 きれいだね、と返事が来た。


 澄乃は画面を見て、少し笑った。


 一人の時間は、今も好きだった。


 丘の上の公園にも、本を持って出かけた。


 ただ、立ち上がるとき、帰りたい場所ができていた。


 明日、話したいことができていた。


     *


 夜と夕暮れのあいだに、静かな湖があった。


 青い結晶の花が岸辺に咲き、遠い城の窓には、ぽつりぽつりと火が灯っている。


 橋の途中の小さな岸辺。


 低い枝の下に、古い椅子があった。


 年月が重なり、背もたれのひびは以前より長くなっていた。


 それでも、隙間は丁寧に繕われ、擦れた縁には艶があった。座面には柔らかな布が敷き直され、埃は積もっていなかった。


 真白が、そこに座っていた。


 長い脚を少し持て余し、片方の肘を肘掛けに載せている。


 後頭部の髪が一房、外を向いていた。


 風もないのに、椅子がゆっくり揺れた。


 真白はふと顔を上げた。


 何か、嬉しい話を聞いたように。


「……明日の話も、楽しみにしてるよ」


 金色の天球儀が回っていた。


 輪と輪が重なり、離れ、そのたびに小さな光が生まれた。


 光は水面を渡り、花の先を照らし、古い椅子の縁に触れた。


 湖が広がっていく。


 城も、橋も、椅子も、広い星空の中へ小さくなっていく。


 遠ざかる岸辺で、椅子はもう一度、静かに揺れた。


 その向こうで、金色の輪が、また一周した。



心の中に秘めていた自分だけの世界

自分に寄り添ってくれる、慰めてくれる

隣にいてくれる唯一の存在


思春期〜青春時代に広げていた世界を何か物語にしたいと思い、AIを利用して作成してみました


澄乃と真白、この二人の関係性をベースに人との関わりや

一歩踏み出していく若者の勇気を織り交ぜてストーリーを作りました



AIを利用してになりますが、思っている事を表現して物語を作れてよかったです


お目汚しになってしまいますが、とても楽しく作ることができました

ご覧いただいた方にはお礼申し上げます、ありがとうございました


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