一人分の夜に、君がいる
「澄乃。もし私が明日から来なくなったら、どうする?」
昼休みの学食で、真白が言った。
深刻な話をするには、口の端についたカレーがいささか邪魔だった。
「まず、静かになったなと思います」
「最初にそこ?」
「そのあと、出席日数を心配します」
「私の安否は?」
「真白さんなら、だいたいの土地で生存できるでしょう」
真白はスプーンを置いた。
「二年も友達やってきて、野生動物みたいな信頼を得てたんだ」
「褒めています」
「褒め言葉でこんなに寂しくなること、ある?」
澄乃は紙ナプキンを一枚取り、彼女に差し出した。真白が首をかしげたので、自分の口の右端を指で示す。
「あ、ありがと」
拭いたのは左側だった。
「反対です」
真白は顔立ちだけなら、黙って窓際に座っているだけで誰かの目を引く人だった。澄乃より少し背が高く、手足がすらりと長い。けれど今朝は寝癖を直す途中で飽きたらしく、後頭部の一房が外を向いている。上着のポケットからは、丸めたレシートが半分のぞいていた。
十九歳。同い年。
知り合って二年近く経つが、この人の中で何に手間をかけ、何を諦めるかの基準は、いまだによくわからない。
「でね、本題なんだけど」
「今までのは何だったんですか」
「導入。駅の裏に古い地下道あるじゃん。あれ、戦前の水路跡につながってるって話があって」
「行きませんよ」
「まだ誘ってない」
「では、今のうちに」
真白はまた、少しだけ傷ついた顔をした。
澄乃はその顔に弱かった。大半が演技だとわかっていても、残りが気になる。
「……写真を撮ってきたら、見ます」
「ほんと? 図面も?」
「写真からお願いします」
真白はたちまち機嫌を直し、鞄から折り目だらけの地図を引っ張り出した。
説明を聞きながら、澄乃はテーブルの端へ目を落とす。
水の入ったコップに、窓の光が揺れていた。
その細い光の向こうで、べつの水面が広がる。
岸辺には青い結晶の花が咲き、遠い城の尖塔が、暮れない夕焼けを突き刺している。夜空には大きな三日月。金色の輪を幾重にも重ねた天球儀が、誰の手も借りず、ゆっくりと回っている。
そこでなら、黙っていても心配されない。
楽しいのか、怒っているのか、退屈なのか。顔をのぞき込まれ、説明を求められることもない。
湖の岸に一人で座る。それだけでよかった。
「澄乃?」
天球儀の輪が、コップの縁に戻った。
「聞いてた?」
「水路の話までは」
「ほぼ最初だね」
責める声ではなかった。真白は慣れた手つきで、地図を澄乃の方へ寄せ直した。
そこへ、通りかかった同じ講義の学生が足を止める。
「澄乃ちゃん、昨日のノート、助かった。ありがとう」
「いえ。最後のところ、先生が訂正していたので、そこだけ気をつけて」
「うん。今度お礼させて」
その子が去ると、真白がにやりとした。
「人気者」
「ノートが、です」
「そういうことにしておいてあげる」
澄乃は小さな肩をさらに丸めた。
皆、親切だった。自分も、できることなら親切でありたかった。
ただ、この明るさの中で一日を過ごすには、いつも少しだけ力が要る。
笑うタイミングを測っているうちに会話が次へ進み、ようやく言葉が見つかった頃には、別の誰かが笑っている。
嫌な場所ではない。
それでも、自分の席だけ、椅子の高さが合っていないような気がした。
*
丘の上の公園には、町の音が薄くなって届く。
古いブランコが二つ。色の剥げた滑り台。今は誰も遊ばない、球形の回転遊具。
いちばん奥のベンチが、澄乃のいつもの場所だった。
その日も彼女は膝に本を載せ、同じページを開いたまま、木々の隙間に見える空を眺めていた。
ここなら、読むふりさえ、途中でやめていい。
「いた」
坂の下から声がした。
澄乃は目を閉じた。
数秒待ってから開けても、真白は消えていなかった。
「探したよ。図書館にもいないし」
「よくここがわかりましたね」
「前に、ここから撮った写真見せてくれたでしょ。給水塔の角度で」
「その能力を、なくした学生証の捜索にも使ってください」
「あれは部屋にあることまではわかってる」
真白は坂を上りきり、得意げに鞄を探った。紙類と充電ケーブルに引っかかった末、青い筆箱が出てきた。
「はい。忘れ物」
「……あ」
講義室の机に置いたままだった。
澄乃は両手で受け取った。
「ありがとうございます。明日でもよかったのに」
「中に大事そうな万年筆あったから」
「助かりました」
真白は頷き、そのまま隣へ座ろうとした。
「それでは」
「うん?」
「ここからは、私だけの時間です。どうかお引き取りを」
真白の腰が、ベンチの数センチ手前で止まった。
「届け物をした人間に?」
「感謝はしています」
「入園権は付かないんだ」
「公共の公園なので、そこまでは制限できませんが」
「じゃあ座る」
「私の言い方に、改善の余地がありました」
真白は笑って腰を下ろした。
澄乃はため息をつき、彼女の上着の裾が湿った落ち葉を巻き込んでいるのを、そっと払ってやる。
「十分だけ」
「五分です」
「七分」
「何を交渉しているんでしょうね、私たちは」
風が吹いた。
開いていた本のページが一枚、めくれる。
その紙の白さが、ふと青くなった。
澄乃は顔を上げた。
「……日が落ちるの、早くない?」
真白も空を見ていた。
つい先ほどまで西日に透けていた葉が、黒い輪郭に変わっていた。木々の向こうの住宅が見えない。代わりに、低くたなびく雲がある。
町があるはずの高さを、雲が流れている。
澄乃は本を閉じた。
ブランコが鳴った。
一度だけ、いつもの錆びた音がした。
二度目には、澄んだ金属音になった。
鎖を、金色の光が上っていく。
赤茶けた錆が小さな星のように剥がれ落ち、その下から細かな彫刻が現れた。座板は透き通り、青紫の結晶へと変わっていく。支柱は枝を伸ばすように高くなり、頭上で優美な弧を描いた。
「澄乃」
真白の声が近くでした。
澄乃は返事をしなかった。
見覚えがあった。
滑り台の銀色の斜面がほどけ、幅の広い光の帯になった。それは地面へ降りず、宙に弧を描いて、いつの間にか現れた水辺へ続いていた。
砂場には浅い水が満ちていた。
その水面が音もなく広がり、柵を越え、丘の下の町を覆っていく。けれど、ベンチの足元には一滴も触れない。
青い花が咲いた。
花びらの一枚一枚が、磨かれた鉱石のように月を映していた。
そして、古い回転遊具が動き始めた。
鉄の輪が一つ、また一つと外れ、互いに異なる向きへ傾いていく。剥げた塗装の下から金が現れ、輪の表面を、細い文字が走った。
中心に青い球が浮かぶ。
いくつもの輪がそれを囲み、ゆっくりと回った。
巨大な天球儀だった。
頭上には、空の半分を占めるほどの三日月。
遠い岸辺には、見たことのある尖塔。
夜と夕暮れが、混ざりきらずに並んでいる。
「……ここ」
澄乃は立ち上がった。
背中を丸めることを、忘れていた。
湖の匂いがした。冷たい石と、雨のあとの葉に似ている。
そんな匂いがするとは知らなかった。
何度も思い描いた場所なのに。
ベンチの傍らまで歩き、青い花に触れた。硬い花びらの先が、指の腹をかすかに押し返した。
触れられる。
胸の奥に、ゆっくりと喜びが広がった。
ここに座っていていいのだと思った。
誰かの会話に戻るため、目を開けなくてもいい。あの天球儀の輪が一周するところを、最後まで見ていられる。
澄乃は小さく息を吐いた。
「よかった」
「すごい」
二人の声が重なった。
澄乃は振り返った。
真白がいた。
当然のように、いた。
ひどく残念な見落としに気づいた顔を、澄乃はした。
「……真白さんも、いるんですね」
「いるよ! 何これ!」
真白の目は、これまで見たことがないほど輝いていた。
彼女は天球儀へ駆け寄り、触れる直前で手を止めた。
「待って、先に観察。動力は? あの輪、接点がない。浮いてる? それとも中心から――」
鞄を探り、スマートフォンを取り出す。写真を一枚撮って画面を確認し、今度はしゃがんで地面を調べた。
「影はある。光源は月だけじゃないね。あっちの夕焼け、太陽が見えないのに明るい。澄乃、時計見せて」
「少し落ち着いてください」
「落ち着いてる。知らないものに、まだ一度も触ってない」
「あなたなりの最大限なんですね」
真白は嬉しそうに頷いた。
「天球儀に似てるけど、輪の数が変なんだよね。地球の空を再現してるんじゃないのかも。あの刻字、読めそうで読めないな。近くで見たい」
澄乃はベンチへ戻り、本を膝に置いた。
「どうぞ。私はここにいます」
「え?」
「座り心地も、変わっていないようですし」
真白はしばらく彼女を見た。
「怖くないの?」
そこで初めて、その可能性に気づいたように、澄乃は瞬きをした。
「……あまり」
「そっか」
真白はそれ以上、問い詰めなかった。
代わりに湖の向こうへ目をやり、口元をほころばせた。
「じゃあ、見に行けるね」
澄乃は本を抱え直した。
「今の会話で、なぜそうなるんですか」
「怖いなら、まずここで休もうと思って」
「怖くなくても休めます」
「でも、あの橋、途中で浮いてるんだよ」
滑り台だった光の帯の先に、飛び石のような白い足場が並んでいた。湖の上を遠くまで続き、岸辺の城へ向かっている。
「あそこまで行けば、この場所の構造がわかるかもしれない。戻る方法も調べたいし」
「来たばかりでしょう」
「うん。だから、帰り道があるかだけは知っておきたい」
それはもっともな意見だった。
もっともだったので、澄乃は少し困った。
真白が手を差し出した。
「まず天球儀まで。一緒に見よう」
「ここからでも見えます」
「裏側が見えない」
「裏側は、裏側のままでよいのでは」
「私は気になる」
知っている、と澄乃は思った。
この人はいつも、閉まっている扉の向こうや、古い道の行き止まりを気にする。
教室の隅で本を読んでいた、話しかけても気の利いたことを返さない小柄な同級生のことまで、なぜか気にした。
「……天球儀までですよ」
澄乃は本を鞄にしまった。
差し出された手に自分の手を載せると、真白は指を握り、しかし引っ張りはしなかった。澄乃が立つのを待ってから、歩き始める。
結晶の花を踏まないよう、二人は細い石畳を進んだ。
「ところで、澄乃」
「はい」
「さっき、私もいるってわかったとき、かなり嫌そうな顔したね」
「かなり、ではありません」
「ちょっとはしたんだ」
「誤差の範囲です」
「その誤差、友達にはけっこう刺さるよ」
真白の後頭部で、直し忘れた髪が揺れている。
月明かりを浴びても、そこだけは朝と少しも変わらなかった。
澄乃は小さく笑った。
自分しかいないはずの岸辺に、二つの足音が響いている。
そのことには、まだ少し不満があった。
「あと、手はもう離していただいて結構です」
「道、暗いから」
「光っていますが」
「私が転ぶかもしれない」
「……それは、否定できませんね」
金色の輪が、二人の頭上で静かに回った。




