↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

一人分の夜に、君がいる

「澄乃(すみの)。もし私が明日から来なくなったら、どうする?」


 昼休みの学食で、真白(ましろ)が言った。


 深刻な話をするには、口の端についたカレーがいささか邪魔だった。


「まず、静かになったなと思います」

「最初にそこ?」

「そのあと、出席日数を心配します」

「私の安否は?」

「真白さんなら、だいたいの土地で生存できるでしょう」


 真白はスプーンを置いた。


「二年も友達やってきて、野生動物みたいな信頼を得てたんだ」

「褒めています」

「褒め言葉でこんなに寂しくなること、ある?」


 澄乃は紙ナプキンを一枚取り、彼女に差し出した。真白が首をかしげたので、自分の口の右端を指で示す。


「あ、ありがと」


 拭いたのは左側だった。


「反対です」


 真白は顔立ちだけなら、黙って窓際に座っているだけで誰かの目を引く人だった。澄乃より少し背が高く、手足がすらりと長い。けれど今朝は寝癖を直す途中で飽きたらしく、後頭部の一房が外を向いている。上着のポケットからは、丸めたレシートが半分のぞいていた。


 十九歳。同い年。


 知り合って二年近く経つが、この人の中で何に手間をかけ、何を諦めるかの基準は、いまだによくわからない。


「でね、本題なんだけど」

「今までのは何だったんですか」

「導入。駅の裏に古い地下道あるじゃん。あれ、戦前の水路跡につながってるって話があって」

「行きませんよ」

「まだ誘ってない」

「では、今のうちに」


 真白はまた、少しだけ傷ついた顔をした。


 澄乃はその顔に弱かった。大半が演技だとわかっていても、残りが気になる。


「……写真を撮ってきたら、見ます」

「ほんと? 図面も?」

「写真からお願いします」


 真白はたちまち機嫌を直し、鞄から折り目だらけの地図を引っ張り出した。


 説明を聞きながら、澄乃はテーブルの端へ目を落とす。


 水の入ったコップに、窓の光が揺れていた。


 その細い光の向こうで、べつの水面が広がる。


 岸辺には青い結晶の花が咲き、遠い城の尖塔が、暮れない夕焼けを突き刺している。夜空には大きな三日月。金色の輪を幾重にも重ねた天球儀が、誰の手も借りず、ゆっくりと回っている。


 そこでなら、黙っていても心配されない。


 楽しいのか、怒っているのか、退屈なのか。顔をのぞき込まれ、説明を求められることもない。


 湖の岸に一人で座る。それだけでよかった。


「澄乃?」


 天球儀の輪が、コップの縁に戻った。


「聞いてた?」

「水路の話までは」

「ほぼ最初だね」


 責める声ではなかった。真白は慣れた手つきで、地図を澄乃の方へ寄せ直した。


 そこへ、通りかかった同じ講義の学生が足を止める。


「澄乃ちゃん、昨日のノート、助かった。ありがとう」

「いえ。最後のところ、先生が訂正していたので、そこだけ気をつけて」

「うん。今度お礼させて」


 その子が去ると、真白がにやりとした。


「人気者」

「ノートが、です」

「そういうことにしておいてあげる」


 澄乃は小さな肩をさらに丸めた。


 皆、親切だった。自分も、できることなら親切でありたかった。


 ただ、この明るさの中で一日を過ごすには、いつも少しだけ力が要る。


 笑うタイミングを測っているうちに会話が次へ進み、ようやく言葉が見つかった頃には、別の誰かが笑っている。


 嫌な場所ではない。


 それでも、自分の席だけ、椅子の高さが合っていないような気がした。


     *


 丘の上の公園には、町の音が薄くなって届く。


 古いブランコが二つ。色の剥げた滑り台。今は誰も遊ばない、球形の回転遊具。


 いちばん奥のベンチが、澄乃のいつもの場所だった。


 その日も彼女は膝に本を載せ、同じページを開いたまま、木々の隙間に見える空を眺めていた。


 ここなら、読むふりさえ、途中でやめていい。


「いた」


 坂の下から声がした。


 澄乃は目を閉じた。


 数秒待ってから開けても、真白は消えていなかった。


「探したよ。図書館にもいないし」

「よくここがわかりましたね」

「前に、ここから撮った写真見せてくれたでしょ。給水塔の角度で」

「その能力を、なくした学生証の捜索にも使ってください」

「あれは部屋にあることまではわかってる」


 真白は坂を上りきり、得意げに鞄を探った。紙類と充電ケーブルに引っかかった末、青い筆箱が出てきた。


「はい。忘れ物」

「……あ」


 講義室の机に置いたままだった。


 澄乃は両手で受け取った。


「ありがとうございます。明日でもよかったのに」

「中に大事そうな万年筆あったから」

「助かりました」


 真白は頷き、そのまま隣へ座ろうとした。


「それでは」

「うん?」

「ここからは、私だけの時間です。どうかお引き取りを」


 真白の腰が、ベンチの数センチ手前で止まった。


「届け物をした人間に?」

「感謝はしています」

「入園権は付かないんだ」

「公共の公園なので、そこまでは制限できませんが」

「じゃあ座る」

「私の言い方に、改善の余地がありました」


 真白は笑って腰を下ろした。


 澄乃はため息をつき、彼女の上着の裾が湿った落ち葉を巻き込んでいるのを、そっと払ってやる。


「十分だけ」

「五分です」

「七分」

「何を交渉しているんでしょうね、私たちは」


 風が吹いた。


 開いていた本のページが一枚、めくれる。


 その紙の白さが、ふと青くなった。


 澄乃は顔を上げた。


「……日が落ちるの、早くない?」


 真白も空を見ていた。


 つい先ほどまで西日に透けていた葉が、黒い輪郭に変わっていた。木々の向こうの住宅が見えない。代わりに、低くたなびく雲がある。


 町があるはずの高さを、雲が流れている。


 澄乃は本を閉じた。


 ブランコが鳴った。


 一度だけ、いつもの錆びた音がした。


 二度目には、澄んだ金属音になった。


 鎖を、金色の光が上っていく。


 赤茶けた錆が小さな星のように剥がれ落ち、その下から細かな彫刻が現れた。座板は透き通り、青紫の結晶へと変わっていく。支柱は枝を伸ばすように高くなり、頭上で優美な弧を描いた。


「澄乃」


 真白の声が近くでした。


 澄乃は返事をしなかった。


 見覚えがあった。


 滑り台の銀色の斜面がほどけ、幅の広い光の帯になった。それは地面へ降りず、宙に弧を描いて、いつの間にか現れた水辺へ続いていた。


 砂場には浅い水が満ちていた。


 その水面が音もなく広がり、柵を越え、丘の下の町を覆っていく。けれど、ベンチの足元には一滴も触れない。


 青い花が咲いた。


 花びらの一枚一枚が、磨かれた鉱石のように月を映していた。


 そして、古い回転遊具が動き始めた。


 鉄の輪が一つ、また一つと外れ、互いに異なる向きへ傾いていく。剥げた塗装の下から金が現れ、輪の表面を、細い文字が走った。


 中心に青い球が浮かぶ。


 いくつもの輪がそれを囲み、ゆっくりと回った。


 巨大な天球儀だった。


 頭上には、空の半分を占めるほどの三日月。


 遠い岸辺には、見たことのある尖塔。


 夜と夕暮れが、混ざりきらずに並んでいる。


「……ここ」


 澄乃は立ち上がった。


 背中を丸めることを、忘れていた。


 湖の匂いがした。冷たい石と、雨のあとの葉に似ている。


 そんな匂いがするとは知らなかった。


 何度も思い描いた場所なのに。


 ベンチの傍らまで歩き、青い花に触れた。硬い花びらの先が、指の腹をかすかに押し返した。


 触れられる。


 胸の奥に、ゆっくりと喜びが広がった。


 ここに座っていていいのだと思った。


 誰かの会話に戻るため、目を開けなくてもいい。あの天球儀の輪が一周するところを、最後まで見ていられる。


 澄乃は小さく息を吐いた。


「よかった」


「すごい」


 二人の声が重なった。


 澄乃は振り返った。


 真白がいた。


 当然のように、いた。


 ひどく残念な見落としに気づいた顔を、澄乃はした。


「……真白さんも、いるんですね」

「いるよ! 何これ!」


 真白の目は、これまで見たことがないほど輝いていた。


 彼女は天球儀へ駆け寄り、触れる直前で手を止めた。


「待って、先に観察。動力は? あの輪、接点がない。浮いてる? それとも中心から――」


 鞄を探り、スマートフォンを取り出す。写真を一枚撮って画面を確認し、今度はしゃがんで地面を調べた。


「影はある。光源は月だけじゃないね。あっちの夕焼け、太陽が見えないのに明るい。澄乃、時計見せて」

「少し落ち着いてください」

「落ち着いてる。知らないものに、まだ一度も触ってない」

「あなたなりの最大限なんですね」


 真白は嬉しそうに頷いた。


「天球儀に似てるけど、輪の数が変なんだよね。地球の空を再現してるんじゃないのかも。あの刻字、読めそうで読めないな。近くで見たい」


 澄乃はベンチへ戻り、本を膝に置いた。


「どうぞ。私はここにいます」

「え?」

「座り心地も、変わっていないようですし」


 真白はしばらく彼女を見た。


「怖くないの?」


 そこで初めて、その可能性に気づいたように、澄乃は瞬きをした。


「……あまり」

「そっか」


 真白はそれ以上、問い詰めなかった。


 代わりに湖の向こうへ目をやり、口元をほころばせた。


「じゃあ、見に行けるね」


 澄乃は本を抱え直した。


「今の会話で、なぜそうなるんですか」

「怖いなら、まずここで休もうと思って」

「怖くなくても休めます」

「でも、あの橋、途中で浮いてるんだよ」


 滑り台だった光の帯の先に、飛び石のような白い足場が並んでいた。湖の上を遠くまで続き、岸辺の城へ向かっている。


「あそこまで行けば、この場所の構造がわかるかもしれない。戻る方法も調べたいし」

「来たばかりでしょう」

「うん。だから、帰り道があるかだけは知っておきたい」


 それはもっともな意見だった。


 もっともだったので、澄乃は少し困った。


 真白が手を差し出した。


「まず天球儀まで。一緒に見よう」

「ここからでも見えます」

「裏側が見えない」

「裏側は、裏側のままでよいのでは」

「私は気になる」


 知っている、と澄乃は思った。


 この人はいつも、閉まっている扉の向こうや、古い道の行き止まりを気にする。


 教室の隅で本を読んでいた、話しかけても気の利いたことを返さない小柄な同級生のことまで、なぜか気にした。


「……天球儀までですよ」


 澄乃は本を鞄にしまった。


 差し出された手に自分の手を載せると、真白は指を握り、しかし引っ張りはしなかった。澄乃が立つのを待ってから、歩き始める。


 結晶の花を踏まないよう、二人は細い石畳を進んだ。


「ところで、澄乃」

「はい」

「さっき、私もいるってわかったとき、かなり嫌そうな顔したね」

「かなり、ではありません」

「ちょっとはしたんだ」

「誤差の範囲です」

「その誤差、友達にはけっこう刺さるよ」


 真白の後頭部で、直し忘れた髪が揺れている。


 月明かりを浴びても、そこだけは朝と少しも変わらなかった。


 澄乃は小さく笑った。


 自分しかいないはずの岸辺に、二つの足音が響いている。


 そのことには、まだ少し不満があった。


「あと、手はもう離していただいて結構です」

「道、暗いから」

「光っていますが」

「私が転ぶかもしれない」

「……それは、否定できませんね」


 金色の輪が、二人の頭上で静かに回った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。