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第五話

「栞さん、いらっしゃる?」


女中の怯えたような声が聞こえた。

栞は鷹城家の敷地内にある古い倉庫の二階の窓から顔を覗かせる。

月明かりに照らされた女中と目が合う。彼女から短い悲鳴が上がった。


「あ、あの…少し夕餉が遅れるの。ごめんなさい、田舎汁粉いなかじるこも持ってくるから」

「……」


栞は、無言で窓辺から離れた。

小走りの足音が遠ざかって行く。


燐寸マッチを擦り、蝋燭ろうそくへ火を灯した。

すると今度は、窓と反対側の壁に小石の当たる音がする。

栞が下へ降りて戸を開けると、借金取りの後輩氏が現れた。


「栞君、後藤さんがシベリアを持ってきたよ」

「ありがとうございます。後藤さん」


三日前、栞は井戸に突き落とされた。

本来であれば即死だ。

しかし、幸運にも途中に足場があった。

さらに先客までいたのである。



———三日前。


「っつう、……あれ、生きてる」

「あ、栞君。まだ静かにした方がいい」


その声に目を開けると、栞は提灯ちょうちんに浮かび上がる後輩氏の顔が近くにあり息を呑んだ。とても狭い空間にいるようだ。


「井戸の横穴……ですか?」

「ご名答、さっき落ちてきた時は驚いたよ」


なぜ井戸の中に後輩氏がいるのか、探検でもするような服装に着替えていることから調査に来ているのだろう。借金取りが鷹城家の井戸に入る理由など限られてくる。


「潜入捜査……警察、やめてないんですか?」

「そう、別件でね。さすが先輩の娘だ、理解が早くて助かるよ」


鷹城家の中には金融業を営む者もいて、そちらの捜査で井戸にいたという。

彼は元鑑識として証拠集めを任された潜入捜査員だった。


彼によると、捜査中に井戸の入り口から声が聞こえ、焦って横穴の前に掛けられていた足場を外そうとしたところへ、栞が落ちてきたらしい。

栞は横穴に架けられた足場に身を乗り出して井戸を見上げる。暗闇の中に丸く夜空が切り抜かれ、そこから白い月が見えた。

井戸の入り口から足場までは七尺ほどありそうだ。この足場がなかったらと思い、ゾッとする。


「白装束の身投げは茶番ですね」

「その服なら見つけたよ。この足場も俺が用意したんじゃない、元からあったんだ」


白装束を着ていたのは、女中を特定させないためだろう。

わざわざ井戸まで走るのも神隠しとして目立つための演出だ。

井戸の縁を掴んで前回りし、足場へ着地できるほど運動に長けた人物がいるはずだ。

あとは事情を知らない女中たちが噂を広めてくれる。

よく考えられているなと、栞は感心してしまった。


「その様子だと先日の身投げ、犯人がわかったのかい」

「いいえ。ただ私より背が高くて運動のできる女中が、白装束を着ていたと思います」


数ヶ月前の新聞に、二十歳を迎えた女子の平均身長は五尺ほどとあった。ちょうど栞の背丈だったと記憶している。

七尺下の足場へ、あの勢いで飛び込める女中は限られてくる。


「なんで茶番なんかするんだろうねぇ」

「それは女中ならではの事情ですね」


婦人雑誌では華やかな女性の活躍が謳われている。

だが、それは一部を都合よく切り取った情報だ。

大正になったからといって女の立場は大きく変わらない。


彼女たちの事情は、真相が判明したときに許される理由になるのだろうか。


「それより、この白骨遺体ですね」


横穴を掘った時の休憩所だろうか、スコップや余った建材が置かれた小部屋がある。

その奥では、お仕着せを着た白骨遺体が壁に背を預けるように座っていた。

両足は前に投げ出され、その足元には麦わら帽子と錆びた鍵、煙草入れが落ちていた。

左手は手記と思われる本の上に置かれていた。腹を空かせていたのか、右手は腹部にあった。


「骨と本には触れていない。見つけた時のままだ。周囲の遺留品から指紋は出なかった」


後輩氏の鞄を見ると、大工用の巻尺や薬屋の硝子瓶など、鑑識道具の代わりになりそうな品が詰め込まれていた。


「白骨遺体を調べに井戸へ潜ってたのですか?」

「いや、俺が追ってるのは別件でな。まさか、こんな奥まった物入れみたいな場所に遺体があるとは思わなかったよ。それで道具を集めて戻ってきたんだ」


たしかに、外の光がまったく届かないほど奥まっている。

白装束の女中も、遺体の存在を知れば震え上がるのではないだろうか。


栞は、大型の提灯の脇に据えられた写真機を見る。

横穴は煌々と照らされているが、骨の細かな傷まで撮影できる光量ではない。


「これでは写りませんね」

「そうなんだよ。閃光粉もないし、俺には動かす権限もない。正式な鑑識が来るまで、このままにしておくしかなくてね」


骨一本動かすにも、まず発見時の状態を写真と見取り図に残さなければならない。


「それで提案なんだが——」

「しっ、後輩氏。お静かに」


井戸の入り口で女中たちが会話している。

その内容は聞き取れない。口ぶりから焦っているのはわかる。


「栞君、こっちから外へ出るぞ。あと、俺は後藤な」

「あ、はい。父の後輩の後藤さんですよね。よろしくお願いします、後藤さん」


小柄ながら筋肉質、元鑑識にして借金取りまで演じられる後藤さん。よし覚えた。

父が先輩だったというだけで、その娘をここまで丁寧に扱ってくれるとは驚きだ。

自分にもこういう後輩がほしい。


「——ところで後輩氏、先ほどの提案とはなんでしょうか?」

「ああ、黒川さんと一緒にいたろ。あの人なら鑑識を動かせるはずだ。後藤さんの名前を言えばわかるからな」


黒川警部補、あの浅黒くて目が痛い男か。


横穴の先にある通路の天井は低い。

後藤が腰を屈めて先を歩き、栞は後藤の鞄を掴んで後ろに続いた。

やがて石で造られた階段が現れ、後藤が頭上の板を持ち上げた。


(どこかの床下に繋がってるのか)


後藤が階段を上がり、その姿が消えると通路は真っ暗になった。


「ほら、後藤さんの手に掴まれ」

「ありがとうございます。後藤さん」


古い倉庫のようだ。

蜘蛛の巣が多く、長いこと使われていないことがわかる。


「栞さん、ここにいらっしゃるの?」


栞は反射的に身を小さくして、周りを見まわした。

先ほどの通路は白装束の逃げ道だ。ここへ来るのを待ち伏せていたのだろう。


「こ、後輩氏。どうしますか?」

「出ていってやりたいところだが、後藤さんは潜入中だからな」


栞は体力に自信がない。逞しい女中たちに囲まれたら逃げられないだろう。

後藤の鞄から提灯を三つほど借り、火を入れた。

その明かりを見た女中たちから小さな声が上がる。


「私には警察がついています。ただ事情は理解しています。黙っていてほしければ三食の飯と風呂桶と水を持ってきてください」


後藤が大きく口を開けて、栞を見ていた。

もう女中生活は諦めているので、交渉することにしたのだ。


「わ、わかりました。それでは」


女中たちの足音が遠ざかる。小窓から外を見ると四名で来ていたようだ。

その帯の色に声が出そうになった。

栞が考えていたよりも神隠しの規模は大きいようだ。


「あの女中たち、奥方様のお付きですね」

「おいおい、栞君より格上の女中だろ。しかも犯罪者みたいな要求してたよな」


後藤が呆れた様子で見ている。


「あれは、一度やってみたかったんですよ」



———現在。


栞が倉庫の二階でシベリアを食べていると、外が騒がしくなった。

壁に身を寄せて窓から様子をうかがう。もう気分は逃亡犯だ。


「馬車が来たのか、あれは若様と…父様!?」

「鷹城家の若様か? 先輩もいるってことは栞君の手紙が届いたんだな」


あの黄色い花を添えて手紙を送ったのが功を奏したようだ。

やはり気障な男は単純である。


こんなに早く来るとは、実働隊として優秀といえよう。

父も元同僚に会えたら喜ぶはずだ。


「ところで、借金取りの後輩氏は父と会って問題ないのですか?」

「何度も先輩に会ってるけど人のことを覚えるのが苦手なんだろうな。誰かと似てさ。まあ、でも今は潜入中だから消えとくか。それじゃあな、後藤さんは帰るよ」


少しだけ寂しそうで、栞に対して何か言いたげな表情を浮かべながら後藤は帰った。

栞は、父様の鑑定結果を早く聞きたいと強く思った。


いざとなれば女中たちは栞が守ろう。

短い間だったが、同じ釜の飯を食ったものとしての礼儀だ。

実働隊の坊ちゃんは、どこまで真相に近づけたのだろうか。

古い倉庫に三日も潜伏していたせいか、犯人のような言動になってしまう。


「さて、どちら側につくべきか」


栞は、シベリアの残りを口へ放り込んだ。



◇◇◇

第五話 後藤さん

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