第三話
「栞さん、カフェーが好きなの?」
「へっ?」
今年三十を迎える先輩の志津子さんは後ろに目でもついているのだろうか。
鷹城邸から四半刻ほど歩いた本郷の白山上へ買い出しにきていた。
栞は開店したばかりの建物を見上げていたのだ。
一階には新刊や雑誌が並び、階段を上ればカフェー。
栞にとっては、ずいぶん卑怯な組み合わせだった。
「月一度のお暇では行かないの?」
「家の事情で難しいですね」
休みのたびに借金取りが迎えにきて、日用品の買い出しで終わるなんていえない。
女中たちの話を聞く限り鷹城邸の給金は月十円前後だ。
しかし、栞の手元に届くのは二十銭だけ。ほとんどが借金返済に充てられている。
カフェーで珈琲一杯なら飲めるが、日用品も必要だ。
つまり、栞は何もできない状態となっていた。
「ちょっとだけ、カフェーに行こうかしら」
「えぇええ!!」
自分の大きな声に驚いてしまう。
栞を不憫に思ったのだろう、お姉様が天使に見えてきた。
胸が高鳴っていく。シベリアの甘さや珈琲の匂いを思い出す。
「それでは、お野菜を買ってきますね!」
「ああ、お千代。ありがとう」
栞より三つ下の千代は数日前に入ってきた後輩だ。
自分の肩ほどしかない背丈だが、何より聡い。特に記憶力がよく、一度でも言えば次からは率先して動く。十二歳とは思えない働きぶりだった。
おそらく自分まで加わればカフェー代がかさむと、気を利かせたのだろう。
「この階段を登るのかしら」
「はい!」
栞は金で返せないぶん、今度は千代の仕事を手伝おうと心に誓った。
階段を上がるたびに音楽が大きくなっていく。
夢の国があるとしたら、それはカフェーではないだろうか。
「あれ、待てよ」
「栞さん、どうされたの?」
千代は数日前に入ってきたばかり。
しかも、今日の買い出しに加わったのは出発直前。
何を買うのか知らないはずだ。
「あ、いえ。千代が迷子にならないかなと」
「…どういうこと?」
志津子の反応に違和感があった。千代の心配をしているようには見えない。
栞は、千代が出発直前に加わったのに、何を買うのか知っているのはおかしいと話した。
すると、階段を登っていた志津子が踵を返した。
「……そう。それじゃ、心配だからカフェーは今度にしましょう」
「へっ?」
冗談じゃない。何か失礼なことでも言ったのだろうか。
カフェーへ行けないということなのか?
栞は、夢の国への扉を目前にして入れない現実に呆然とした。
「どうしたの? 降りるわよ。千代が心配なのでしょう?」
階段を降りてカフェーの前で立っていると、千代が野菜を買って戻ってきた。
こうして月に一度の買い出しは終わったのである。
鷹城邸へ戻ると、女中たちが目を丸くした。
「あら、ずいぶんと早かったのね」
「どうしたの栞さん、お顔が真っ青よ!?」
買い出しは月に一度しかない休みと同じように扱われていた。
仲の良い女中であれば、一緒に活動写真を観に行くこともあるという。
鷹城家と女中頭が黙認していることもあり、密かな楽しみとなっている。
志津子は真剣な表情のまま、台所へと向かった。
ただ事ではない様子に女中たちは慌てて追いかける。
(あー、やらかしたな)
人間関係は苦手だ。幼い頃から海外雑誌の謎解きや捜査資料ばかり見ていた。
それもあって老若男女問わず会話が合わない。
まあ、十五にもなれば活動写真や婦人雑誌も読む。
それで克服できたと思っていたのだ。
(こうして栞は心を閉ざしたのであった)
——などとひとり遊びをしていると、千代と目が合った。
女中たちに何か言われたのか、目に大きな涙を溜めて栞を睨んでいた。
なぜか胸が締め付けられる。
(よし、一人で生きていこう)
もう最低限の会話をしていこうと心に決めた。
はなから名家の女中など貧乏人の栞には務まるわけがなかったのだ。
事実、誰も栞には近づいてこない。
(試しに近づいてみるか)
やはり女中たちは一定の距離を保っている。
たしか今日は女中頭が終日でかけているはずだ。
「これは好都合だな」
先ほどの違和感を放っておけなかった。
栞は風を切るように堂々と女中頭の執務室まで歩いて行く。
こっそり後をつけてこようとする者がいれば、逆に近づいて追い払う。
そして、執務室へ入ると採用用紙を探した。
「採用」というラベルの引き出しには鍵がかかっていた。
科学雑誌では定期的に見かける解錠方法を試す。
すぐに鍵が開き、一人で生きていくための自信をつけた。
「千代の採用用紙は、っと…あった!」
採用用紙は年代別になっているようだ。
そのいくつかには、名前の横に赤い丸印が付けられていた。
赤丸の付いた採用用紙を何枚か見比べ、ある共通点に気付く。
これが神隠しの仕組みかも知れない。
(証拠の残し方を考えるか)
もし神隠しの真相が栞の予想通りなら、警察は無理だ。
父様に届けるしかない。
誰かに届けてもらうにしても神隠しを疑っている必要がある。
それでいて自由に動ける人物だ。
「あ…、坊ちゃんか」
近くにあった茶封筒と便箋を拝借する。
公成だけに意味が伝わるよう、便箋に一語だけ記す。
それを採用用紙と一緒に封筒へ入れ、小さく折りたたんだ。
どうやって届けるかを考えながら執務室を出ると、女中たちが遠巻きに様子をうかがっていた。
離れへ続く小径の脇に黄色い花が枝から垂れるように咲いている。
気障な男には花を添えた方が受け取るかもしれない。
「小野寺さん! どこにいるの?」
女中頭が大声で探し回っている。
(もう戻ったのか)
電話をかけていた女中の姿を思い出す。近所だから帰ってきたのだ。
とりあえず、離れへ続く小径の脇に封筒を置き、手折った黄色い花を重ねる。
急いで台所へ向かおうとすると、千代が井戸を覗き込んでいた。
「千代、あぶないよ」
千代に嫌われていても、これは見過ごせない。
採用用紙の内容が本当なら千代は守るべき相手だ。
「ねえ、これ見て!」
「ん?」
千代が指差す方を見るが、暗くて見えない。
何か見落としていたものがあるのだろうか。
「ごめんね」
返事をするよりも早く、栞は背中を押されて井戸へと姿を消した。
◇◇◇
第三話 新たな神隠し




