第二話
「ねえ聞いた?」
「うん、公成様が京都の学校から戻られるんでしょう?」
台所では朝から若様の話で盛り上がっていた。
公成というのは鷹城家の嫡男だ。京都の高等学校に通っていたが父の病で東京の実家へ戻ってくるという。
女中の神隠し事件にも絡んでいると雑誌で騒がれていた。ここに戻ってからは離れに住むらしい。
(誰も怯えてないし、神隠しなんてあるのか?)
栞が鷹城家へ奉公にきて、すでに二ヶ月が経過していた。
神隠しが起きるのを期待していたが、一度も発生していない。
「栞さん、お千代が女中部屋で呼んでるわよ」
「はい、すぐに行きます」
千代は数日前に奉公された十二歳の女中で、はじめての後輩だ。
栞の肩に届くくらいの背丈で、幼さの残る顔をしている。
しかし、炊事や裁縫に洗濯を手慣れた様子で片付けていく。
栞は密かに千代先輩と呼んでいて、可愛い後輩との時間を楽しみにしていた。
台所を出ると隣にある女中部屋の戸を開けた。
「はい、出来ました。どうして裾が破れるんですか」
「もう直ったの!? やっぱり千代先輩は仕事が早い」
「千代先輩?」
千代は着物を差し出しながら、首をかしげている。
前掛けも薄汚れているので不審に思っているのかもしれない。
「そうだ。先輩たちが、少し休んでいいって言ってましたよ」
「そうですか、それでは少し横に」
女中には決まった就業時間がない。
昨夜も旦那様が倒れ、全員が夜半に叩き起こされた。だから手の空いた者から休みを融通し合っている。
栞は女中部屋の戸をそっと閉めると、台所へ戻る。
「次の奉公明けは、奥方様付きの方らしいわよ」
「なんでも鷹城家の親族と縁談が進んでるって!!」
「いいなあ……、でも、ご令嬢だから当然よね」
女中たちは、玉の輿へと話が切り替わっていた。
ご令嬢でもなければ、奉公明けに名家との縁談など夢物語だ。そもそも帰る場所がある者ばかりではない。
「そういえば栞さん、前掛けを汚すほど井戸がお好きなの?」
「へっ? いや……その、井戸の神隠しに興味がありまして」
先輩女中は何とも言えない表情を浮かべた。
栞としては、血痕や争った跡がないか確かめたいだけなのだが、そのたび裾を引っ掛け、泥で前掛けを汚してしまう。
流し台で洗い物をしていると、庭から黄色い悲鳴が上がり、台所の窓ガラスが震えた。
「え? あれ若様でしょ」
「待って、活動写真の俳優みたいじゃない!」
「栞も行くよ!」
勝手に手首を持たれて中庭へと連れていかれる。
近づくと、背の高さが際立った。三つ揃いの背広を着こなし、チョッキには懐中時計の鎖がのぞいている。歳は十七だったはずだ。
幼さが残るのは顔だろう。その黒髪は上だけ少し長めで横へ流し、一房が目尻へかかっていた。
(へえ、英語も話せるのか)
英国紳士と会話をしていた。
経済用語はわからないが、どうやら投資の話をしているようだ。
洒落た服装に、雑誌に載るほどの美形とくれば、遊び呆けているものと思っていた。
栞は思わず顔を見直してしまう。
その視線に気付いたのか、公成がこちらへ顔を向けた。栞は隣の英国紳士へと視線を流す。代わりに、周りの女中たちが一斉に黄色い悲鳴をあげた。
公成は、紳士と握手を交わすと、一緒に離れへと歩き出した。
(まあ、関係のない世界だな)
栞が台所へ戻ろうとしたところ、女中の悲鳴が上がった。
また坊ちゃん絡みかと振り返り、栞は目を見開く。
中庭を白い服を着た女が走っていた。
(気でも触ったか?)
その女は井戸へ勢いよく頭から身を入れると、前回りをするように落ちていった。
栞は迷わず井戸へ駆けて行く。
しかし、途中で女中たちに引き止められてしまう。
そこで台所へ引き返し、庭木に隠れながら井戸へ近づく。
「おい、危ないから井戸には近づくな!」
「止まりなさい」
今度は下男に止められてしまった。
(何か、おかしい)
どうして誰も井戸に近づかないのか。
公成と英国紳士も下男たちに抑えられて、彼らも困惑した表情を浮かべていた。
御曹司を守っているというより、井戸へ近づけさせないように見える。
それが意図的なら、伝染病や呪いといった類だろうか。
栞は下男たちに台所まで戻された。
先ほどとは打って変わって、怪談話に花が咲いている。
「七年前に神隠しに遭った女中の仕業ね」
「幽霊が井戸へ引きずり込んだのかしら」
七年前の事件はかすかに記憶がある。
新聞にも掲載され、警察発表の続報から雑誌の推測記事まで大盛り上がりだった。
握り飯を作りながら、栞は女中たちの会話を聞いている。
(いや、どう考えてもおかしいだろ)
ここの感情豊かな女中たちが、身投げを目撃して落ち着いて仕事ができるわけがない。
栞の視線に気付いたのか、女中部屋で休むように促された。
もうすぐ警察が来るらしい。
だが、まるで神隠しだとわかっているような話ぶりだ。
(解せん)
今夜にでも抜け出して井戸を見ておきたいと思った。
警察の検分後でも証拠は見つかると父から聞いている。
二ヶ月で初めて昼間から眠れるのは有難い。
欠伸をすると、それまで張っていた気が一気に緩んだ。
栞はそのまま眠りに落ちた。
———瞼を上げると、窓から白い光が入り込んでいた。
どうやら明け方まで寝てしまったらしく、風呂にも入っていない。
井戸の確認を兼ねて、軽い清拭でもしよう。
柳行李から風呂浴びの一式を取り出す。
女中たちのイビキや凄まじい寝相をかいくぐり部屋を出た。
井戸へ向かう途中の洗い場で、清拭用の桶に水を張る。
そのまま栞は井戸へ近づいた。
(早起きは三文の得ってのは本当かもね)
白い陽の光を浴びた井戸は、昨日の騒動をかき消すほど美しい。
海外の画家が描いたような色彩ではないだろうか。
昨日の身投げを思い出し、井戸を覗き込む。
(暗くて見えないな)
燐寸をつけると岩肌の一部に金具があった。
もう少し明るさがあればと思う。
「これなら見えるか?」
「ああ、どうも」
大きめの提灯で一気に井戸の中が明るくなる。
金具には縄があり、井戸の水を汲み上げるときに使うようだ。
それよりも少し降りたところに横穴が見える。
「何かわかったか?」
「あの横穴、水量調整でしょうか」
「わからん、警察がすぐに帰ったのが気になるんだよな」
「証拠を示す印もない。おそらく何も見つからなかったのでしょうね」
栞は警察がすぐに引き上げたことにも驚いたが、現場の綺麗さにも違和感を覚えた。
「これが神隠しの一つになるなら…」
「ああ、まだ続くよな」
「ですよねえ」
そこでようやく、栞は自分が誰と話しているのか考え、固まった。
目の前の調査に意識を奪われていた。
一体この男は誰だ。
言葉遣いから下男ではない。
昨日、英語を話していた公成の声に似ている。
袖口から上等な絹がのぞいている。
金持ちの坊ちゃんとは関わりたくない。
それが女中という立場なら、なおさらだ。
(さて、どうしたものか)
栞は井戸へ上半身を乗り出したままだ。この体勢なら顔まではわからないだろう。
とりあえず井戸の桶を上げるふりをして時間を稼ぐ。
「桶か? まかせろ」
顔も見えない女中相手に、ずいぶん親切なことだ。公成は自ら桶を引き上げ始めた。
時間稼ぎをしている栞にとっては迷惑でしかない。
こうして、栞の両手には水の張られた桶が残った。
「よし、水をかけよう!」
焦り過ぎて、考えていたことを口走ってしまった。
背後にむかって思い切り桶の水を浴びせる。
公成が短い声をあげたが、待つわけがない。
そのまま勝手口へ駆け込む。
すぐに靴を脱いで忍び足で女中部屋へ戻った。
程なくして下男や女中が騒ぎ出す。
女中頭が部屋に来て、全員が駆り出されることになった。
「誰の仕業か、白状なさい!」
凄まじい剣幕の女中頭、その隣には家令まで立っていた。
そして、びしょ濡れの公成もいる。
何より、自分の着物も少し濡れていた。
洗い場には、清拭用に水を張った桶を置いたままだ。
(このままでは見つかるな)
女中たちより少し後ろを歩き、桶の近くにある草陰へ隠れる。
公成が話し出し視線が集まった頃合いで、桶を持つ手に力を入れる。
(ええい、ままよ!)
栞は、桶の水を振り撒いた。
「「「きゃああああ!!!」」」
女中たちが四方八方へ広がり、そこへ栞も加わる。
女中頭と家令、そして上着を替えたばかりの公成も水を浴びていた。
「あんた方、何をされてるんです? おや、坊ちゃんまで」
「黒川さん、お早いですね」
黒川辰蔵。警視庁の警部補らしい。
日に焼けた浅黒い肌をした細身の男だった。洋装が妙に板についている。
栞を見るや片目を閉じてみせた。
何かの呪いか、それとも水掛けの現場を——
(目撃されたのか?)
正門の前には記者が詰めかけていた。
家令が率いる下男たちとせめぎ合っている。
新たな神隠しを一目見ようと野次馬も加わり、大賑わいだ。
公成が黒川へ礼を言った。
「黒川さん、ありがとうございます」
「こんな小ちゃかったのに、すっかり好青年ですなあ」
葉巻を咥え、指先ひとつで巡査たちを動かしている。
敵に回したら厄介そうな男だ。
栞の視線に気付いたのか、近づいてくる。
「お嬢ちゃん、悪さしちゃいけないよ?」
「ははっ」
よい返答が分からず、笑って誤魔化した。
取り調べをされたら冤罪でも認めてしまいそうだ。
おそらく警察は敷地内で見張っていたのだろう。
「あ、井戸に指紋——」
「大丈夫、対象外にしてあるから」
父の知り合いなのだろうか。栞は思わず黒川の顔を見直した。
黒川警部補は再び片目を閉じて見せた。
(目に違和感があった人物か?)
七月とはいえ、公成が風邪でも引いたら大変だと家令が騒ぎ、その場は解散となった。
「まったく、誰よ!!」
「髪の毛びしょびしょ、乾かすの大変なのに」
栞は知らぬ顔で自分の柳行李を開けて着替えていた。
自分だけあまり濡れていないことに気付かれたくない。
(なんだこれ)
見覚えのない封筒が入っていた。
中には一枚の紙が入っていて、その内容に見入ってしまう。
『チカヅクナ』
どうやら栞は狙われてしまったようだ。
筆跡を悟られないようにしたのか、文字は角ばっている。内容も抽象的だ。
早朝に公成といるところを見た者の嫉妬なのか、それとも井戸を調べに行ったことへの警告なのか。
いずれにしても、今回の神隠しをきっかけに何者かが動き出したことは間違いない。
栞は顔を上げて、目線だけで周囲を見回す。
誰からも視線を感じない。
この中にはいないのだろうか。
ふと、目の前にある棚のガラスへ視線をやる。
そこには、口角を上げて笑う自分がいた。
◇◇◇
第二話 はじまりの日




