第一話
——大正十年、東京市小石川区。
「小野寺さん、来週までには返してくださいね」
教室の窓から届く理科教師の声に栞は頷くと、借りた科学雑誌を抱きしめた。
女学校の門を抜けて、伝通院前表町の通りを急ぎ足で歩く。
長屋暮らしの小野寺家にとって、高額な海外の専門誌を読める機会は滅多にない。
「これ持ち帰ったら喜ぶだろうな」
警視庁で最新の科学捜査を牽引した自慢の父が退職した。
民間の鑑識相談所をはじめたが、現場一筋の人間に商売など無理な話だ。
あれよあれよという間に、長屋へと流れ着いた。
(あれは人攫いか?)
洋装の男二人組が道端で誰かを探していた。
女生徒の顔を覗き込むようにしている。
女生徒の多くは着物に袴、足元は編み上げ靴という格好ばかりだ。長い黒髪を後ろで巻き上げ、大きなリボンを結んでいる。栞のリボンは朱色だが、目立つものではない。
栞は見分けがつかないのだろうと、周りに歩幅を合わせて歩き出す。
彼らに近づくと、少し離れたところに幌付きの馬車が見えた。
男たちは濃色の背広にベスト、白いシャツにネクタイという格好だ。帽子を目深に被っているせいか、目つきが悪く見える。三十代といったところか。
栞は道の端を歩いて、やり過ごすことにした。
「おい、待て。小野寺栞だな」
「へっ?」
力強く腕を掴まれて、身体が硬直する。
栞の背丈は五尺にも届かない。小柄で華奢な十五歳の娘に、男の腕を振り切る術はなかった。
周囲の女生徒が蜘蛛の子を散らすように離れていく。
(なぜ私なんだ)
周りも着物に袴姿ばかりだが、袖口から艶のある絹の裏を覗かせる娘もいる。
あれを見れば、栞より金を持っていそうなのは一目でわかるだろうに。
男たちは黒革の鞄から写真と帳面を取り出した。
そこには二年前の入学式で撮られた栞が写っている。帳面には赤い線が何本も引かれていた。
人攫いではない。借金取りか。
それなら栞にも心当たりがある。
いつも女学校から帰ると、一階にある事務所で父が寝ていた。
机には海外雑誌や科学書籍が山積みで、帳簿は真っ白。請求書すら出していない。
(うん、やっぱり借金取りだな)
男たちは写真と栞の顔を見比べると、紙と万年筆を取り出した。
「君には借金のかたに働いてもらう」
「これを見ながら、父君に手紙を書きなさい」
どうやら、このまま売り飛ばされるらしい。
丁寧に書く内容まで教えてくれるという、なんと優しい借金取りだ。
最後に家族だけがわかる印を書けとまで書かれていた。
「あの…私はどこへ売られるのですか?」
「女衒ではない。大丈夫だ、心配するな」
近くにいた女生徒から短い悲鳴があがる。
一部には、目を爛々とさせ、活動写真でも見るようにこちらを眺めている者までいた。
「こ、怖くて文字が書けません。どこへ行くのか先に知りたいです」
「まだダメだ。君は鑑識の娘だ。手がかりを残そうとするだろ」
(なんだ、見た目より賢いのか)
この様子だと自宅の様子や父のことも把握しているだろう。
手紙に彼らの特徴を残したところで、すぐに気付かれる。
栞は大きく息を吐くと、万年筆を走らせた。
『三ヶ月だけ奉公に出ることにしました。給金から毎月少し送ります。どうか心配しないでください。父様は研究を続けてください。栞より ◎』
栞は、文章の端に筆先でくるりと小さな渦を書き記した。
男たちは手紙を改めると、最後に書かれた印について尋ねてきた。
彼らには二重丸に見えるらしい。
「鑑識の父なら渦状紋だとわかるはずです」
父から指紋には弓状紋、蹄状紋、渦状紋があると教わっていた。幼い頃から栞は渦状紋を気に入って自分の印にしていたのだ。
「そうか、それならいい。では馬車へ乗ってくれ」
『科学捜査の父』とまで呼ばれた捜査員の娘が、退職から一年余りで奉公に出される。
馬車に近づくにつれて、その現実が重くのしかかった。
だんだん手足の感覚が鈍くなり、少しずつ目の前が霞んでくる。
荷運びに使うような薄汚れた馬車だった。
硬い座席に腰をおろすと、監視役の男が向かいの席に座った。
彼が手を挙げて御者に合図を送ると、馬車がゆっくりと動き出した。
「さてと、まずはこれを渡そう」
男は栞の隣にある柳行李と封筒を指差した。
その爪は綺麗に整っている。よく見ると靴も磨かれていて、シャツもアイロンがかけられている。
借金取りにしては小綺麗な格好だ。黒革の手提げ鞄も使い込まれているが、手入れが行き届いている。
(本当に借金取りなのか?)
栞は柳行李よりも男の服装が気になってしまった。
「そこに行き先と当面の生活資金が入っている。給金から返済分を引いて、残りは父君へ送っておく。ただ家族に行き先は伝えない。悪いね」
柳行李の中には上等な銘仙の着物や前掛けに帯、お仕着せ一式が入っていた。やはり女衒に売られるのではないだろうか。
「よく見てくれ、家紋が入っているだろ?」
「ん? その声は…」
ずいぶん前に聞いたことのある声だ。
それに胸ポケットに万年筆を二本差し込む癖に見覚えがある。
「あぁ……俺のことを覚えてたか。小さい頃だから忘れちまったかと思ってたよ」
「はい、はっきりとは覚えていませんが」
「小野寺先輩には世話になった。俺も借金取りなんかしてるけど、先輩の娘さんには、可能な限り良い奉公先を選ばせてもらった。力不足を許してほしい」
父の勤め先で、何度か見かけた男だった。
彼の言葉に少しだけ生きる希望が湧いてきた。
栞は、封筒を開けて奉公先を確かめる。
「鷹城家……あの神隠しが再び起きてる?」
「ああ、七年前に死んだ女中の呪いらしいな。そこが交渉できる限界だった」
鷹城家といえば、新聞をにぎわす神隠しが何度もあった名家ではないか。
たしか給金が高く、若君も雑誌に出るほど美形なのに、親が娘を奉公に出したがらないと聞いたことがある。
それに同じ小石川区内で、長屋からも近い。たしか植物園の辺りだ。
「不思議なのは、最近の神隠しは事件として捜査すらされないことだよな」
その言葉に新聞記事を思い出した。
たしか、女中の荷物はそのまま、朝餉を食べかけたまま消えたという娘もいたはずだ。
その一方で、殺人を疑う物的証拠はなく、遺体さえ見つからない。
(まさに神隠し)
「それでは七年前は、鑑識が現場に入ったのですか?」
「ああ、俺も担当してたからな」
そう言うと後輩氏は口角を上げて、懐から封筒を出した。
「栞君さ、昔から科学雑誌の謎解き好きだっただろ?」
「はい、実は最新号を借りてきたばかりです」
後輩氏が封筒の中身を出すと、一冊の手帳が現れた。
栞は手渡されて、中身を開くと当時の報告が克明に記録されていた。
「すごい、鷹城家の地図まである……これは七年前の情報ですか?」
「ああ、俺が勝手に書いた手帳だ。うっかり馬車に落としちまったから拾い主に預けておくよ」
栞は当時の新聞記事が貼られたページに目を奪われていた。
「七年前と現在の神隠しに関係があるということですよね」
「警察はそう見てると思うぞ。まあ、怖いかもしれないが、三ヶ月の辛抱だ」
巷では神通力やら未来が見える女学生といった話が実しやかに伝えられている。
神隠しが相次ぐ名家へ奉公に行きたい娘などいないだろう。
やはり栞のように売られた娘ばかりなのだろうか。
「もしかして女中不足で死ぬほど忙しいのでしょうか」
「いや、そんなことはない。最低限の女中は揃っていた」
名家に奉公するなら、女中にもある程度の教養が必要なはずだ。だが、そういう娘ほど、神隠しの噂がある家へ親が奉公に出したがらない。
それでは、鷹城家はどのように女中を維持しているのだろうか。
「鷹城家に到着しました」
「ああ、わかった。それじゃあ行こうか」
先に馬車を降りようとした後輩氏が振り返る。
栞は手帳を読んでいた手を止めた。
車窓の向こうに、高い塀と鷹城家の門が見える。
「栞君、その……大丈夫かい?」
父の後輩氏が不安そうな表情を浮かべている。
栞は車窓のガラスに映る自分の顔を眺めた。
そこには、八重歯をのぞかせる小野寺栞がいた。
◇◇◇
第一話 小野寺栞は変わらない




