第28章 おふくろの味神崎屋3
評論家たちは、まずじゃがいもを箸で割った。
湯気が上がる。煮崩れてはいないが、口へ入れれば舌で押すだけで崩れるはずだ。
白髪の評論家が箸を止めた。
「味噌ですね」
「はい」
「最初から煮込んではいない。味噌の香りが立つ」
今度は肉と玉ねぎを一緒に取る。評論家は二つを一緒に口へ入れると、箸を止めて皿の肉を見直した。
「肉の旨味が、さっきよりはっきり感じられる」
アドリアンがわずかに身を乗り出す。
「味噌で肉の味が強くなるのですか?」
「味噌だけではありません」
和服の女性評論家が、煮汁を含んだ玉ねぎを口へ運んだ。
「玉ねぎの甘み、じゃがいもにしみ込んだ煮汁、最後に残った味噌の香り。それを一緒に食べると、赤身の味がさらに強く感じられます」
「肉だけではないと?」
「ええ。鍋の中にあるものを一緒に食べて、この肉の美味しさが完成するのです」
別の評論家が飯へ煮汁を少し掛けた。続けて肉を乗せ、そのまま口へ入れる。
「これは困る」
久世が眉を寄せた。
「何がです?」
尋ねた久世へ、評論家は飯をもう一口食べてみせた。
「飯が止まりません」
評論家はそう答え、また箸を伸ばした。
「後で絶対食わせてもらうからな」
眞子が小声で言ったが、静かな観客席にはよく聞こえた。
天音がカメラを構えたまま、眞子を肘でつついた。
「まこちゃん、今は黙って」
里沙が、眞子に注意したが。同感の様だ。
「眞子の言うとおりです。先ほどより、皆さんが食べるのが速くなっています。私も食べたくなりました」
紬は、嬉しそうだ。椅子に座ったまま、足を何度も揺らしている。
評論家たちは感想を言わなくなった。肉、じゃがいも、玉ねぎ、飯と、順番を変えながら器を空にしていく。
評論家たちは、アドリアンの料理を一口食べるたびに手を止め、味を確かめていた。俺の肉じゃがでは、考えるより先にどんどん食べている。どちらが上か下かは、まだ分からない。
最後の一人が箸を置いた。
「判定をお願いします」
久世は、さっきまでより自信のない声で言った。
「その前に、一つ確認させてください」
白髪の評論家がアドリアンを見た。
「今日の料理に、失敗したと思うところはありますか」
「ありません」
アドリアンは即座に答えた。
「肉の火入れ、フォアグラ、トリュフ、ソース。すべて狙いどおりです」
「私たちも同じ評価です。あなたのロッシーニは、世界最高水準の完成品でした」
久世は息を吐き、ほくそ笑んだ。
「では――」
「それでも、私たちは神崎氏の肉じゃがを選びます」
久世は目を見開いた。
「なぜです?」
聞いたのはアドリアンだった。
「あなたは最高級の肉を味の中心にすえ、フォアグラとソースで引き立てました。神崎氏は、肉から出た煮汁をじゃがいもや玉ねぎへ含ませた。肉だけでなく、どれを食べても肉の美味しさが続きます。材料全ての相乗効果で、それぞれがさらに美味くなっている。」
和服の評論家が空になった器を見せた。
「最後の味噌も、濃い赤身の味を引き立て、もう一口と次々食べたくなる。この肉を、より美味しく食べさせたのはこちらです」
紬が両手で口を押さえた。天音はカメラを構えたまま跳ねそうになり、里沙に肩をつかまれている。眞子はもう両手を上げていた。
まだだ。アドリアンが答えていない。
アドリアンは肉じゃがの器を見たまま動かなかった。やがて、残っていた玉ねぎを一切れ食べる。
「最高級の肉を、ただ家庭料理にしたのではなかった」
誰に言うでもなく、アドリアンが呟いた。
「全て、肉を美味しく食べるために使った。そういうことですか」
「俺は、いつもの肉じゃがを作っただけだ」
アドリアンが俺を睨んだ。
「その答えは、少々腹が立ちますね」
「悪いな」
アドリアンは俺を見て、ゆっくり息を吐いた。
「神崎さん。あなたを素人同然と評した言葉を撤回します。私は失敗していない。だからこそ、あなたの料理に負けたと認めます」
「やった!」
今度こそ紬が立ち上がった。天音もカメラを向けたまま跳ね、眞子が両手を振り上げる。
「勝ったぞ、晃一さん!」
「やった、やった! 撮れてる、これ?」
カメラを構えたまま跳ねる天音を見て、紬が言った。
アドリアンは、包丁を一本ずつケースにしまった。
「私はパリへ戻ります」
「今日すぐに?」
天音が驚くと、アドリアンはケースを鞄へ収めながら答えた。
「そういう契約です。負けたから逃げるのではありませんよ。元々、神崎屋を潰すまでの契約でした。失敗しても終わりの予定でした」
「分かってるって。向こうでも料理するの?」
「もちろんです。私は料理人ですから。パリダンジョンの探索者達が待っています」
アドリアンは鞄を閉じ、俺へ手を差し出した。
「短い間でしたが、退屈はしませんでした」
「俺もだ。達者でな」
握手をすると、アドリアンは穏やかに微笑んだ。それから久世へ向き直る。
「マドモアゼル久世。契約どおりです」
「ええ。分かっているわ」
アドリアンは鞄を持ち、観客席の脇を通って会場を後にした。
久世は席を立った。負けてもしゃんとしているが、いつもの華やかな笑みはない。
「ラ・ターブル・デュフールは閉店します。アドリアンとの契約も本日で終了。神崎屋の買収からは、完全に手を引きます」
「社長、こちらへ署名を」
水城がすぐに書類を開いた。
「早いわね」
「勝負の前から用意していました」
「私が負けると思っていたの?」
久世がペンを持たずに尋ねると、水城は契約書を出した。
「いいえ、負けたときに書類がないほうが問題です」
「勝ったときの書類は?」
「もちろんあります」
「用意がよすぎるのも腹が立つわね」
「私に当たらないでください」
久世はペンを取り、サインした。水城が内容を確認し、俺に渡す。店の閉鎖、アドリアンとの契約終了、神崎屋の買収から手を引くこと。どれも条件どおりだった。
「これで終わりです、神崎さん」
「もう店をくれと言わないなら、それでいい」
「ええ。私の負けよ」
久世は悔しそうに言い切った。水城は、ようやく肩の力を抜く。
「社長、帰社したら赤字と料理勝負の経費の計算ですよ」
「今日ぐらい休ませなさい」
「昨日も同じことを言いました」
久世は何か言い返そうとしたが、水城に連れられて会場を後にした。




