第28章 おふくろの味神崎屋2
俺はじゃがいもの皮をむき、角を薄く落として水へ入れた。
「肉じゃが!?」
天音が目を丸くして観客席で叫んだ。
「そうだ」
「本当に?」
「じゃがいもをむいて、何とかロッシーニにはならないだろ」
「晃一さんなら、なるかもしれないじゃん」
「ならない」
きっぱり返すと、眞子が声を上げて笑った。紬だけは笑わず、まな板の上をじっと見ている。
「晃一さんが決めたなら、大丈夫よ」
紬が言い切ると、里沙はロッシーニの皿と俺のじゃがいもを見比べた。
「ですが、先ほどの料理のあとです。勝てるでしょうか」
久世が審査卓の端から立ち上がり、白いテープの手前まで来た。
「最高級の肉を家庭料理にするなんて、ずいぶん思い切りましたね」
「肉じゃがじゃ困るのか」
「私は困りません。勝ちやすくなるだけですから」
久世が身を乗り出したところで、水城が呼び止めた。
「社長」
「まだ何もしていないわよ」
「前に出すぎです」
水城に指摘されても、久世は動かない。紬も右手の観客席から立ち上がり、俺の特設キッチンへ近づいてきた。
「晃一さんの邪魔をしないで」
「見ているだけよ」
「近づかないで!」
俺の調理台を挟んで睨み合う二人の間へ、水城が割って入った。
「二人共、邪魔です!」
水城は二人を席に戻した。俺は、それを横目に、しらたきを下ゆでする。勝負より先に、水城が倒れないか心配になってきた。
鍋へ焼き油を引き、食べやすく薄切りにした肉を入れる。ジュッと音がして、肉の表面から赤みが消えた。
「もう出すのか?」
眞子が声を上げた。
「焼きは、旨味を閉じ込めるだけだ」
「まだ中は赤いぞ」
「あとで煮るから大丈夫」
取り出した肉を見ていた眞子が、納得したように頷いた。
「それなら安心だな」
肉を取り出した鍋へ、玉ねぎ、にんじん、じゃがいもを入れる。焼き油が回り、玉ねぎの端が透けたところで酒と砂糖、だしを加えた。
「醤油は?」
天音がまた聞く。
「あとだ。先に甘みを含ませる」
「順番で変わるの?」
「変わる。醤油を先に入れると、じゃがいもへ甘みが入りにくい」
天音は鍋とカメラの画面を交互に見た。
忙しい奴だ。
煮汁に薄いあくが浮いた。すくってから醤油とみりんを加え、落とし蓋をする。鍋がことこと鳴り始めると、観客席の会話が少し静かになった。
「匂いが変わりましたね」
里沙が鍋から漂う匂いを嗅いだ。
「先ほどは焼いたお肉の香りでしたが、今度は玉ねぎと煮汁の甘い香りです」
里沙の説明を聞きながら、眞子が腹を押さえた。
「これは飯が欲しくなる匂いだな」
天音がカメラ越しに眞子を見る。
「まこちゃん、まだ食べられないよ」
「分かってるぞ。だから待ってるんじゃん」
「待っても食べられないかも。審査員じゃないし」
「審査が終わるまで待つ」
眞子は両手を膝に置き、落とし蓋を見つめている。待つ姿勢だけは立派だ。
じゃがいもに串が通るようになったところで火を止めた。味が落ち着くまで少し待つ。
「火を止めてしまうのですか?」
アドリアンが初めて俺の調理に口を出した。
「休ませる」
「料理を冷ますために?」
「冷める間が一番味が入る」
アドリアンは何も言わず、鍋を見た。さっきまでの余裕のある笑みは消え、俺の手順を追っている。
俺は持ってきた味噌の容器を開ける。
「味噌まで入れるの?」
久世が言った。
「それでは肉じゃがではなく、味噌煮になるでしょう」
「そこまでは入れない」
「では、何のために?」
俺は答えず、味噌の色を確かめた。
信州の米味噌を土台に、仙台の赤味噌を加え、八丁味噌をほんの少し。肉じゃがへ使う分には、すりおろしたにんにくと生姜も混ぜてある。
おふくろから教わった、神崎屋の合わせ味噌だ。
子供のころ、学校から帰った俺は、よく店のカウンターの隅で晩飯を待っていた。
「母ちゃん、まだ?」
「まだだよ」
「さっきもそう言った」
「じゃがいもは、お前に急かされても早く煮えないよ」
鍋からは甘辛い匂いがしていた。腹が減っていた俺は、おふくろが振り向くたびに鍋を覗いた。
「一個だけ」
「駄目」
「小さいのでいいから」
「小さいのは味見で食べたよ」
「ずるい」
おふくろは苦笑し、小皿へ肉じゃがをよそった。
「そこまで言うなら、熱くても文句を言うんじゃないよ」
湯気を吹き、じゃがいもをかじった。甘辛い煮汁のあとから味噌が香り、牛肉の味が舌に残る。
「美味い」
「そうかい」
「今日の、いつもより美味い」
「赤味噌を少し増やしたんだよ。にんにくと生姜も入ってる」
「明日もこれがいい」
「毎日同じじゃ、飽きちまうだろ」
おふくろは空になった小皿を見て言った。
「おふくろの味、神崎屋だからね。腹を空かせて帰ってきた子に、美味しいと言わせられなきゃ困るよ」
その味を、俺は店を継いでからも作った。地上の神崎屋を閉める日まで、何度も鍋を火にかけた。
今度の肉は、牛肉よりずっと味が強い。いつもの配合では、味噌の香りが肉に負ける。赤味噌を少し増やし、にんにくと生姜を多めに利かせてある。
詳しい理屈を並べるようなものじゃない。食って、肉の味が引き立てばいい。おふくろが、味噌のグルタミン酸と、肉のイノシン酸がなんちゃらと言ってたが、よく覚えていない。
「晃一さん」
紬の声で顔を上げた。
「いい匂い」
「まだ味噌は入れてないぞ」
紬は慌てず、煮えている鍋を指した。
「分かってるわ。今の香りも好きってこと」
紬は楽しげに目を細めた。深層まで行って、この肉を持ってきた四人が見ている。
期待に応える為には、いつもの神崎屋の味以上にするだけだ。
煮汁を小さな器へ取り、合わせ味噌を溶く。鍋を温め直して肉を戻し、味噌を加えた。
「煮立てると味噌の香りが飛ぶ。最後に香りを残す……」
鍋底から返すように混ぜ、蓋をする。少し待って開けると、醤油、味噌、生姜の香りが重なった。
「来た!」
天音が声を上げる。
「何が来たんだ」
「さっきまでと違う香り! もっとお腹が空くやつ!」
天音の隣で、眞子も立ち上がった。
「あたしにも分かるぞ!普通の肉じゃがじゃない」
里沙は二人の前へ手を広げた。
「二人とも、白いテープを越えないでくださいね」
「「心配しなくても、今は食べにいかないよ」」
深い器へ、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、しらたき、肉を盛る。煮汁を掛けると、面取りしたじゃがいもの角が艶を帯びた。俺は器を審査卓へ並べ、アドリアン側の特設キッチンにも試食用を一つ置いた。
「アビスバイソンの肉じゃがです」
俺は自分の特設キッチンへ戻った。




