第28章 おふくろの味神崎屋1
勝負の日の朝、俺は冷蔵庫から保冷容器を出した。
蓋を開けると、冷気の向こうに新鮮そうな赤色の肉が見える。表面は乾いていない。匂いにも変わりはなかった。
紬たちが深層から運んできた、アビスバイソンの肉だ。
「よし」
冷蔵庫へ入れた日に、少し焼いたり色々試して味は確かめた。脂身は少なく、噛みしめると赤身の旨味がじわりと出る。最高級のグラスフェッドビーフによく似ている。
色々考えた上、俺が作るものは、もう決まっていた。
肉と材料を積み、東京ダンジョン地下一階の広場へ向かう。広場には料理勝負のための特設会場が設けられていた。正面には評論家たちが座る長い審査卓があり、その手前に同じ広さの特設キッチンが二つ並んでいる。どちらにも調理台、コンロ、流しが揃っていた。
特設キッチンの左右には、小卓を挟んだ観客席が設けられている。床には白いテープが貼られ、観客席との間が区切られていた。紬たちは中央の最前列、久世と水城は審査卓の横に座っている。
「晃一さん!」
紬が真っ先に立ち上がった。その隣で天音がカメラを構える。里沙と眞子も、観客席から俺を見ていた。
四人とも朝からいつもどおりだ。俺も、やることをやればいい。
俺は保冷容器を右側の特設キッチンへ運んだ。左側では、白い調理服のアドリアンが包丁を並べている。俺の保冷容器を見ると、金色の髪を撫でつけ、不敵に微笑んだ。
「本当に同じ肉を用意したのですね」
「ああ」
「マドモアゼル久世が、余計な事をしたようで心配しましたよ。用意出来なくても、分ける準備をしていたのですが」
久世はアドリアンと目を合わせなかった。
「紬たちが取ってきた」
「深層から?」
アドリアンが顔を上げるより早く、紬が胸を張った。
「晃一さんに勝ってもらうためよ」
アドリアンは紬たち四人を順に見てから、俺へ視線を戻す。
「なるほど。そこまでして用意した肉なら、料理にも期待しましょう」
「晃一さんは絶対に美味しくしてくれるわ」
即座に言い返した紬へ、アドリアンが尋ねる。
「勝つと言わないのですか?」
「美味しくしたら、晃一さんが勝つもの」
紬は迷いなく言い切った。
久世が評論家たちの前に立ち、条件を読み上げた。アドリアンが勝てば神崎屋を閉め、俺は久世の買収を受け入れる。俺が勝てばラ・ターブル・デュフールは閉店し、久世は神崎屋から手を引き東京ダンジョン進出を諦める。
「双方、異論はありませんね」
「ない」
「もちろんです」
俺とアドリアンが答えると、水城が久世の前へ書類を差し出した。
「社長もです」
「私が申し出た条件よ」
書類を引かない水城に、久世が眉を寄せた。
「昨日の夜には、また新装開店出来るように書き換えるとか言ってましたよね」
「思いついただけで、変えてないわ」
「私が止めましたからね」
久世は、そしらぬ顔で書類へ署名した。水城は早くも疲れたように息を吐く。
「では、始めてください」
久世は審査卓の端へ戻り、水城もその隣に座った。
先に動いたのはアドリアンだった。
アビスバイソンのフィレ肉を厚く切り、塩を振る。熱したフライパンへ置いた途端、焼き油が勢いよく弾けた。
「うわ、音からして美味しそう」
カメラを向けたまま感嘆した天音を、紬が横から睨んだ。
「あまね、敵を応援しないで」
「応援じゃないよ。感想だよ」
「同じでしょう」
「違うってば」
紬は天音を止めながら、自分もフライパンを見ている。焼けた肉の匂いは、止めようがないからな。
アドリアンは肉の側面まで焼き、弾力を確かめて火から外した。迷いがない。赤身の厚さに対しての火の入り方を見ながら、休ませる時間まで完璧だ。
「さすがね」
久世が満足そうに脚を組んだ。
「あの肉を完璧に調理出来る料理人は、そう多くないわ」
「社長、まだ神崎さんの調理は始まってもいません」
「もう勝ったようなものよ」
水城は久世の得意そうな顔を見て、またため息をついた。
「勝った顔をするのが早いと言っているんです」
水城が言うと、久世は脚を組み直しただけで返事をしなかった。
別のフライパンでは、フォアグラが焼かれていた。表面が薄く色づき、フォアグラから溶け出した脂が細かく泡立つ。肉を焼いたフライパンへマデラ酒が入ると、甘い香りを含んだ蒸気が一気に立ち昇った。
「あれを肉に掛けるのか?」
眞子が身を乗り出す。
「ソースにするんだよ。たぶん」
天音が答える。
アドリアンは煮詰めたソースを味見し、ほんの少し塩とスパイスを足した。温めた皿へフィレ肉を置き、その上にフォアグラを重ねる。薄く削った黒いトリュフを散らし、艶のある褐色のソースを流した。
高い材料を積み上げただけじゃない。フォアグラの量も、トリュフの香りも、真ん中の肉を食わせるために抑えてある。考えたうえのバランスだ。
「アビスバイソンのトゥルヌド・ロッシーニです」
アドリアンは料理を一皿ずつ審査卓へ運び、評論家たちの前へ並べた。それから特設キッチンへ戻り、審査卓へ向き直った。
白髪の評論家がナイフを入れる。濃い焼き色の内側から、赤みを残した断面が現れた。肉汁は皿へ流れず、切り口に薄くにじんでいる。しかし、押せば、そのバランスは決壊して大量に溢れ出しそうだ。
「見事だ」
一口食べた評論家が、すぐに次を切った。
「赤身の味わいが消えていない。フォアグラの脂を合わせても、主役は肉のままだ」
「ソースもよく合っています。肉の甘みのあとに焼き汁の香りが広がります」
アドリアンは自信たっぷりに俺を見た。
「神崎さん。最高の肉には、それにふさわしい料理が必要です」
「そうか」
「それだけですか?」
アドリアンが返事を待っている。俺は鍋から手を離さずに答えた。
「悪いが手が離せなくてね」
右手の観客席から天音がくすりと笑い、紬は胸の前で両拳を握った。アドリアンは口を開きかけたが、それ以上は言わなかった。
手強い料理だ。失敗らしい失敗は、どこにもない。
それでも、俺は俺の料理を作ればいい。




