第24章 ダンジョンにチェーン店進出1
卵を割っていると、通路から何度も台車の音が聞こえてきた。
朝の搬入にしては遅い。しかも、一台や二台ではない。金属の車輪が床の継ぎ目を越えるたび、がたん、がたんと音が近づき、また遠ざかる。
卵液へ出汁を加えて箸で混ぜていると、扉が開いた。
「おはようございます、神崎さん」
久世玲奈が大きな紙袋を提げて入ってきた。今日も身体に沿った濃紺のスーツで、胸元の開いた白いブラウスを着ている。後ろから水城真帆が書類鞄を抱えて続いた。眼鏡が少し下がり、結んだ栗色の髪も乱れている。
「社長。どうして開店前から、よそのお店に寄るんですか」
「ご挨拶は大事でしょう」
「ついさっき思いついた予定を、ご挨拶とは呼びません」
また急に連れてこられたらしい。
「今日は何です?」
「これをお持ちしました」
久世が紙袋から一枚取り出し、カウンターへ置いた。
赤い文字で、東京ダンジョン地下一階店、本日開店と書かれている。その下に載っていた日替わり定食の値段を見て、俺はもう一度数字を確かめた。
「二百九十円?」
「開店記念価格です。ご飯の大盛りも無料にしました」
「それで儲かるのか」
「初日から一食ずつ利益を取る必要はありません。まず食べていただかないと、店は選ばれませんから」
久世は楽しそうに答えた。前に持ってきたハムカツサンドの出来を考えれば、安いだけの店ではないだろう。
「社長。挨拶は済みました。開店作業へ戻りますよ」
「まだ神崎さんから感想を聞いていないわ」
「安いですね」
「それだけですか?」
「値段を見せに来たんでしょう」
ほかに何を言えばいいんだ。
久世は紙袋を水城へ渡さず、自分で脇へ置いた。それからカウンター越しに身を寄せる。ジャケットの中で大きな胸が押し上がり、開いた襟元が近づいた。
「あちらの店では、神崎さん一人では出せない数を、神崎さんには付けられない値段で出します」
小声で言われ、返事が少し遅れた。
「近いですよ、社長」
「聞こえるように話しているの」
「普通の距離でも聞こえます!」
水城が久世のジャケットの裾を引く。その時、もう一度扉が開いた。
「晃一さん、おはよう。今日の――何をしてるの?」
白い鎧姿の紬が、入口で止まった。後ろから入ってきた天音が、紬の肩越しにこちらをのぞく。
「うわ。昨日より近い」
「比べなくていい」
里沙と眞子も続いて入る。四人とも探索装備のままだ。天音は焦げ跡の残る撮影用カメラを肩から下げていたが、今日は蓋を閉じている。
紬は久世の隣まで来ると、俺と久世の間へ開店チラシを立てた。
「晃一さん。これ、何?」
「今日から向こうに店を出すそうだ」
「向こうって?」
久世が紬へ向き直った。押し付けていた胸がカウンターから離れたので、俺も少し息をつく。
「この通路の先です。神崎屋と同じ地下一階で、探索者向けの食事を出します」
「ずいぶん近いのね」
「近くなければ、比べていただけないでしょう?」
「比べるまでもないわ。私はここで食べるから」
「一人分、確保しましたね」
久世は笑い、紬は俺の隣へ寄った。客席側から厨房の隣は取れない。正確には、カウンターで、俺の前に立っただけだ。
「では、戻りますよ、社長。向こうはもう開店直前です」
「水城、走れば間に合うわ」
「私まで走らせる前提で話さないでください!」
久世は紙袋を提げ直し、俺へ華やかに笑った。
「神崎さんも、暇になったら食べに来てください」
「社長!」
「開店祝いは、持っていけませんよ」
久世は一瞬だけ目を丸くし、すぐに声を立てて笑った。水城に急かされながら二人が出ていく。
紬は閉まった扉を見てから、チラシを裏返した。
「見なくても値段は消えないぞ」
「分かってる」
まったく、迷惑な社長だ。




