第17章 受付嬢雪乃と味噌ラーメン
昼の混雑が引き、洗い物を片づけたところへ、紬、天音、里沙、眞子の四人が来た。
四人はカウンターに並び、開いたメニューをのぞき込んでいる。なかなか注文が決まらないのは、迷っているからではない。眞子が食べたい料理を増やし続けているからだ。
「まこ。まず一品選びなさい」
里沙が釘を刺すと、眞子はメニューから顔を上げた。
「分かってる。だから、一番うまそうなのを決めてるんだ」
「全部に指を置くのは、決めたことにならないよ」
天音が眞子の手元を見て笑う。そのとき、店の扉が開く。
入ってきたのは、黒髪をきっちり上げた女だった。紺色のギルド制服に、角ばった黒い鞄。二十代後半くらいだろう。背筋を伸ばした姿は堅苦しいが、店に入った途端、厨房のほうへ顔が向いた。
前に一度、かつ丼を食べに来たギルド職員だ。
「いらっしゃい。空いてるところへどうぞ」
「はい。本日は――」
「あっ、かつ丼の人」
紬が先に声を上げる。
女は口を閉じた。
「かつ丼の人?」
里沙が首をかしげると、天音が待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「前に来たギルドの人。最初は背筋をぴんと伸ばして食べてたんだけど、二口目から丼を抱えて、こう、がーっと」
「説明に身振りは必要ですか」
「あったほうが伝わるかなって」
女は少しだけ眉を寄せ、天音の身振りが終わるのを待っている。
「そんなに速かったのか」
目を丸くした眞子の腕を、天音が軽く叩く。
「まこちゃん。本人の前だから」
「でも、うまいかつ丼なら急いで食いたくなるよな」
「……お気遣いありがとうございます」
女は礼を言ったが、眉間のしわは消えなかった。
「まず、注文してもよろしいでしょうか」
「もちろん。好きなものを選んでくれ」
俺がメニューを渡すと、女は鞄を足元へ置き、空いているカウンターの椅子へ座る。腰を下ろすと、端から順に品書きを見始めた。
端まで見ても決まらないらしく、また最初から品書きを追っている。
「決まらないなら、おすすめを言おうか」
「いえ。候補が多く、絞り込んでいるところです」
女は品書きを上から見直し、味噌ラーメンの文字を指す。
「こちらをお願いします」
「味噌ラーメンだな」
「はい。今回は慌てず、ゆっくりいただきます」
注文に決意表明までついてきた。ラーメンは普通に食ってくれればいい。
味噌ラーメンを聞いた眞子が、メニューを閉じた。
「晃一さん、あたしも同じの」
「決まったのか」
「ああ。野菜も肉も入ってるからな」
「二つだな」
厨房へ戻り、中華鍋を火にかける。
油をなじませ、刻んだにんにくと生姜を入れる。細かな泡が弾け、香りが一気に立った。そこへ挽き肉を加えると、鍋の中でぱちぱちと脂が弾ける。
紬がカウンター越しに鍋をのぞく。
「もう美味しそうです」
「まだ肉を炒めただけだぞ」
「その段階から美味しそうなんです」
「分かる。この匂いなら、待てる」
注文したばかりだ。少しは待ってくれ。
挽き肉の色が変わったところへ、まず玉ねぎとにんじんを入れる。少し遅れて、もやしも加えた。
強い火のまま鍋を振ると、野菜が油をまとい、じゃっ、じゃっと気持ちのいい音を立てる。もやしの白に、にんじんの赤が混じる。炒めすぎず、歯触りが残るところでいったん火から外した。
女が鍋を見ながら聞いてくる。
「野菜は先に炒めるんですね」
「先に炒めたほうが香りが出る。スープで煮ないから、もやしもくたくたにならない」
「なるほど」
「今日はメモを取らないの?」
天音が聞くと、女の手が一瞬だけ鞄へ動き、すぐ膝へ戻った。
「取りません。今日は調査ではなく、食事に来ました」
「今日は食べるだけ?」
「はい。そのつもりです」
別の鍋で温めておいたスープの火を弱め、合わせ味噌を溶く。味噌はぐらぐら煮立てると、せっかくの香りが飛ぶ。最後に味を見て、少しだけ醤油を足した。
隣の鍋で麺を茹でる。箸でほぐし、食べ頃よりわずかに早く上げて、しっかり湯を切る。丼へ入れてからも熱いスープを吸う。鍋の中でちょうどよくしてしまうと、客が箸をつける頃には伸びてしまう。
「はい、お待ち」
二つの丼へ麺を入れ、味噌スープを注ぐ。
茶色い味噌スープの上に、炒めた挽き肉と野菜を山のように盛る。刻んだねぎを散らし、仕上げに黒胡椒をひと振り。白い湯気に乗って、味噌と炒めたにんにくの香りがカウンターへ広がる。
「うわ、これだよ」
眞子はもう箸を持っている。
女は丼の前で背筋を伸ばし、両手をそろえた。
「いただきます」
まず、れんげでスープをひと口。熱さに目を細めたあと、表情がふっと緩む。
「味噌は濃いのに、塩辛くありません。挽き肉の脂があるから、味が丸く感じます」
「野菜の甘みも出てるからな」
「にんにくと生姜も分かります。ですが、どちらも出すぎていない」
感想まできっちりしている。今日は本当にゆっくり食べるらしい。
女は麺を少しだけ持ち上げ、息を吹きかけてからすする。もちっとした麺を噛み、次にもやしを一本、さらに挽き肉を少し。ひと口ごとに箸を置く。
里沙が感心したように女の箸を見る。
「丁寧ですね」
「食事は、ゆっくりいただくものですから」
女はそう答え、また麺を少しだけ取る。
その横で、眞子がずずっと大きな音を立てた。
「美味い! 味噌が麺に絡んで、噛むと肉も一緒に来る!」
麺をすすり、野菜を食い、スープを飲む。眞子の丼だけ減り方がおかしい。女の視線が、ちらりとそちらへ動く。
里沙が眞子をたしなめる。
「まこ、もう少し音を抑えて食べなさい」
「ラーメンは勢いも味だぞ」
女が眞子へ顔を向ける。
「そんな味はありません」
女は否定したが、次に持ち上げた麺はさっきの倍だった。
ずずっ。
今度は箸を置かない。そのまま野菜をつまみ、挽き肉ごと口へ運ぶ。れんげでスープを飲み、すぐ次の麺へ進む。
天音が楽しそうに笑う。
「あ、速くなった」
女は麺を飲み込んでから答える。
「なっていません」
紬も女の箸を見ている。
「前にも見た食べ方です」
女はさらにひと口食べた。口の中の麺を飲み込んでから答える。
「ラーメンは、麺が伸びますので」
「ゆっくり食べるんじゃなかったんですか?」
「方針を修正しました」
仕事の報告みたいな言い方だが、箸はもう次の麺をつかんでいる。
眞子が負けじと丼を持ち上げる。女も一瞬だけそちらを見て、残っていた麺をまとめてすする。
「競争じゃないぞ」
女がすぐに否定する。
「競争していません」
眞子は空になりかけた丼を見せた。
「あたしはしてる」
女が眞子へ言い返す。
「しないでください」
女は競争ではないと言ったが、二人の丼はほとんど同時に空になる。
女はれんげを置き、紙ナプキンで口元を押さえた。それから何事もなかったように背筋を伸ばす。
「ごちそうさまでした。最後まで熱々でした」
「速く食べたからだろ」
「それは否定しません」
そこは認めるらしい。
そのとき、眞子が卓上のラー油をつかむ。
「晃一さん、おかわり。次は、これを入れてみる」
「一杯だけだぞ」
眞子が蓋をひねる。だが、蓋の周りには油と唐辛子がこびりつき、固まったように動かない。
「開かないぞ」
「貸してみろ」
眞子から瓶を受け取り、俺も蓋をひねる。力を込めても動かない。
「俺が締めすぎたか」
女が手を差し出した。
「私が確認します」
女が俺から瓶を受け取り、軽く蓋をひねる。
きゅっ、と音がして、蓋があっさり外れる。
「開きました」
眞子が女の手元を見る。
「おお。すげえ腕力」
「固くはありませんでした」
俺が瓶を受け取る。力を入れても動かなかった蓋だ。女が簡単に開けるとは、さすがに感心する。
「それに、さっきより匂いがよく分かります」
女は厨房へ顔を向けた。
「生姜、にんにく、炒めた玉ねぎ。奥の鍋は、煮物でしょうか。醤油と砂糖、それから……鰹の出汁です」
「全部合ってる」
「それに、今は品書きの文字が、先ほどよりすんなり頭に入ります。妙に集中しやすいです」
里沙が三つの変化を聞き、女へ告げる。
「やっぱりバフ飯ですね。嗅覚と集中力、それに腕力も大幅に上がっています」
女は自分の手を見る。
「食後の変化としては、否定できません」
「腹いっぱいになって、調子が戻ったんじゃないか?」
「晃一さんは、またそれですか」
紬が呆れた顔をする。
腹を空かせた人間が飯を食えば、鼻も頭も働く。あの蓋を開けたのは、元々力持ちなだけだろ。俺はいつも通り、味噌ラーメンを作った。
女が椅子から立つ。
「ところで」
足元の鞄を持ち上げ、制服の裾を直す。そして、俺たちへ向き直る。
「先ほどは機会を逃しましたので、改めて。探索者ギルド受付の麻生雪乃です」
深くはないが、きっちりした一礼だ。
「前回は店の確認に来ましたが、今日は一人の客として来ました。今後とも、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。雪乃だな」
俺が答えると、雪乃は少しだけ肩の力を抜き、天音も笑顔を向けた。
「やっと名乗れましたね、雪乃さん」
「入店直後に、かつ丼の人と呼ばれなければ、もう少し早く名乗れました」
里沙も笑顔で続ける。
「でも、覚えやすかったですよ」
雪乃は反論しかけて、やめた。前回の食べ方は、本人にも覚えがあるんだろう。
紬が雪乃に聞く。
「雪乃さん、次は何を食べますか?」
「次ですか」
雪乃は壁の品書きを見上げた。
「焼き魚定食と、生姜焼き定食。それからオムライス、唐揚げ、カレーも食べたいです」
眞子が身を乗り出す。
「全部一度に食うのか?」
「食べません」
今日一番の即答だ。
「日を分けます。当然です」
「じゃあ五回来るんだな」
「……現時点では、その予定になります」
雪乃は真面目な顔で答えるが、口元は少し笑っている。
「また食べに来てくれ」
「はい。次は、入ったらすぐ注文します」
雪乃は一瞬止まり、それから小さく頭を下げた。
「では、最初に注文します」
次からは、注文を先にするらしい。
雪乃は財布を取り出し、味噌ラーメンの代金をカウンターへ置いた。俺が受け取ると、一礼して扉へ向かう。
雪乃が店を出ると、眞子が空の丼を俺の前へ押し出す。
「晃一さん、あたしのラーメン」
「すまん。今の話の間も、ずっと待ってたのか」
「あたしは最初から注文の話しかしてないぞ」
確かにそうだった。
ギルドの受付が常連に一人加わっても、神崎屋でやることは変わらない。来た客に、食いたいものを作るだけだ。俺は厨房へ戻り、眞子へ念を押す。
「分かってる。一杯だけだからな」
「よし!」
眞子が両手を上げる。紬たちが一斉に笑う。
俺は、もう一度鍋へ火を入れた。




