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東郷明憲は『人権派弁護士』として名の知れた人物だという。
普段から、『加害者とその家族の人権』や『刑務所における受刑者の待遇の改善』、凶悪犯罪であっても『少年犯罪者やその家族のプライバシーの保護』、またいかなる場合でも受刑者の『死刑反対及び死刑の廃止』など、加害者側に立った主張が多く、各地で講演もしているという。
凄子もかつて刑務所に服役していた経験があるので理解できる部分もあったが、東郷の主張はどれも体裁ばかりの見せかけで、『立場や職業上の正論』に過ぎない、と凄子は思った。なぜなら、いざ自分の娘が攫われたとなったら、『犯人など殺してもいいから、無事に娘を助け出せ』などと、普段の主張と真逆なことを平気で言ったからだ。
同時に、世の中の識者のような連中が、メディアで声高にそういった正論を振りかざしているが、もし自分の身内が残酷に殺されたとしても、そのように冷静で論理的な態度で同じことが言えるのか、とも思った。
世の中の誰もが、自分の子どもや家族が一番大事に決まっている。人間だけではない、動物だって同じだ。それが自然の摂理というものだ。
それを感情抜きで『人権論』を滔々と語り、あたかも知識人ヅラして気取っているヤツが許せなかった。
アパートの駐車場の隅に置き去りになっているママチャリにまたがると、ゴウゾウからの電話が鳴る。
「姐御、正解だ。…軽トラの名義だが、美崎寿男になっていた。つまり野郎の爺さんの名義だ」
ゴウゾウの声はいつもより弾んで聞こえた。
「よっしゃ!決まりだな」
凄子はゴウゾウに礼を言って切ると、続けて柴山に電話を入れる。柴山にも情報は伝わっていたようだ。
「あたしは美崎の実家の西美山町に向かおうと思ってんだけど、涼子さんが心配なんだよな…」
と言うと、
「東郷家には誰かを回すから、セイコちゃんは美崎の追跡に行ってくれよ」
と言った。柴山の元には何人の『仕事屋』がいるのかと思う。
凄子は香音の鞄を片方の肩に引っ掛けると、ママチャリでかっ飛んでいく。行き先は自分の棲み家だ。
マンションに到着すると、エレベーターまでの暗い通路に誰かが座り込んでいた。足音が聞こえたのか、顔を上げる。香音の恋人の古屋叶多だった。
叶多は凄子に気づき、あわてて立ち上がると、
「香音はまだ見つからないんですか」
と、不安な顔で聞いてきた。睡眠不足なのかうつろな目をしている。
「うん、…だけど香音ちゃんを攫った野郎の正体はつかんだ。今から探しに行ってくるよ」
叶多は凄子の肩の鞄に気づき、なおさら不安げな顔になる。凄子はそれを無視するように、足早にエレベーターホールまで行くとボタンを押した。
「僕も行きます!連れてってください!」
叶多は背後から声を掛けてきた。凄子は振り向きもせず黙っていた。(こんな坊ちゃんを連れて歩いてもな…)と思いながらエレベーターに乗り込む。叶多もついてきた。
「凄子さんは俺がガキだから、足手まといになると思ってるでしょうが、迷惑はかけません。だから連れてってくださいよ!」
叶多の声が狭い箱の中に響く。凄子はインジケーターを見上げながら、なおも黙っていた。
「香音は俺の女だ!…なにもせずに待ってるなんてできないよ!…凄子さん、俺も行きます!」
その言葉は凄子の胸に少しだけ響いた、(ちったぁ男気あるのかな、この小僧)エレベーターは最上階に着く。
「…わかったよ、叶多。お前も一緒に来い。ただ、てめえの身はてめえで守る、それだけは約束しろよ」
凄子は振り向くと叶多に言った。
「わかりました、約束します!」
身長は凄子と同じぐらいだが、見るからに貧弱で頼りない体形を、大きめサイズのTシャツが包んでいる。香音と同じく人形のように整った小顔だが、その目には強い意志が感じられた。
部屋に戻ると応接テーブルの上のワイルドターキーに目が行った。
憂鬱になりかけた気持ちを切り替えるように頬を叩くと、キャビネットの引き出しからフォールディングナイフを取り出し、刃を起こす。軍用のそれは鈍い光を放っていた。
ジーンズのポケットにナイフを入れると黒いシャツを羽織り、キーを片手に部屋を出た。玄関前で待っていた叶多に、行くぞと声をかけてエレベーターに乗る。
契約駐車場のカローラレビンに乗り込みエンジンを掛けた。叶多は爆音に驚きながら助手席に乗ってくる。
ドロドロとアイドリング音を聞きながら、水温計の針が少し振れたのを確認した。凄子はローギヤに入れて重いクラッチを繋ぐ。レビンは咆哮を上げて走り出した。
真夏の午後の市街地は、日傘を差したり頭にタオルを乗せた通行人がだるそうに歩いている。信号待ちが頻繁に続く通りからようやく外れると、交通は一気に流れ出す。凄子は各ギアを5000回転まで引っ張ってからシフトアップしていく。
叶多は身体が助手席のシートに押し付けられる感覚に恐怖を覚えて、目をつぶっていた。
国道19号。名古屋市を起点に長野市までの約270キロの幹線道路。中央道から分岐する長野道が、長野市まで開通するまでは大動脈だった路線だ。
千曲川に合流する前の犀川に沿って作られた道なので、直線は少なくカーブばかり。勾配は比較的少ないが、延々と片側一車線なので、前に遅い車両がいたらずっと引きずられる。
凄子は調子良くレビンを走らせていたが、じきに行列の後端にへばりついた。スピードが落ちたことで緊張を解いた叶多が、香音のことを聞いてきた。
「香音の鞄があった場所って、犯人の棲み家だったんですか?」
「ああ、あんまし生活してる感じはなかったけど、棲み家だろうな。…あたしの仲間のジイさんが探し出したんだけど、美崎に見つかって刺されちまった」
「刺された…?そんなに危険なヤツなんですか」
「多分な。…もらった情報を見る限り、ろくなもんじゃねえ。犬や猫を面白半分に殺すような野郎だ。まったく気に食わねえ」
「そんな…、香音、大丈夫かな…」
助手席のガラスにうなだれる叶多を横目で見て、凄子は美崎の『連続強姦強盗事件』のことは言わずにいようと思った。知ったら半狂乱になるのは間違いない。
叶多はため息をつくと凄子に向き直り、
「香音、殺されないですよね?大丈夫ですよね?」
と、女々しい目を向けてくる。叶多の言葉が鬱陶しくなってきた凄子は怒鳴った。
「てめえも男だろ!心配したってどうにもならねえことを考えたって仕方ねえだろう。…香音ちゃんを取り戻す、そのためについてきたんじゃねえのか、お前は!」
「そうでした、すみません。もう言いません」
叶多はそれっきり、うつむいたままだった。
(お前の気持ちはわかるよ、あたしだって凄蔵が消えちまったあの時は、藁をもすがる思いだった…)
凄子は自分の気持ちも落ち着かせるために、セブンスターに火を点けた。
トンネルの手前の分岐で遅い車両が左に流れていったおかげで、流れが速くなった。凄子はレビンのアクセルを踏み込んで西へと飛ばしていく。




