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「どうしよう…どうしよう…」
涼子はそう言いながら、へなへなとソファーに崩れ落ちる。もはや座っていることもできないほど憔悴していた。
凄子はマンションの各部屋のドアを開けて主寝室を探すと、リビングまで戻り涼子を抱き上げ、主寝室のベッドへ運んでいく。寝かせても、香音…香音…と呻いていた。
リビングのソファーで柴山に電話を入れた。
「…やあ、セイコちゃん」
その声は沈み加減で、いつもの軽妙な調子ではない。もうすでに承知しているのだろう。
「困ったことになっちまった…、香音ちゃんがどこへ連れ去られたのか、見当もつかねえ。おまけに電源は切られてるし」
「東郷の旦那からも電話があってね、『犯人なんて殺してもいいから、香音を無事に助け出してくれ』って言われたよ。それから警察には絶対知らせるなともね。…職業柄、きっと警察のやり方や失敗例なんかも知ってるんだろうな」
「ゴウゾウには美崎の詳しい情報を頼んでる、もしつかんだらお前にも情報がいくと思うが」
「わかった。…とにかく早急に見つける手段を考える」
電話を切ると凄子は、頭を抱えると髪をぐしゃぐしゃにかき回した。そして深いため息を吐いた。
『子ども誘拐』、それは凄子が最も忌み嫌う言葉と手口だった。そしてその言葉を耳にすると、嫌でも凄子の記憶が鮮明によみがえってくるのだ。
― 昭和55年 ―
凄子が18歳の時、男の子を産んだ。名前は凄蔵。結婚相手は九州出身の鳶職の男だった。3人は狭いアパートながらも楽しく慎ましく暮らしていた。
だが、凄蔵が2歳の頃のある日、事件が起こった。
スーパーで買い物中のほんの一瞬の隙に、凄蔵が消えてしまったのだ。
凄子は血相を変えてそこら中探しまくるが結局見つからず、警察に届け出てから仕方なくアパートに帰った。
鳶職の亭主は、年中旅から旅の職人で家にはおらず、旅先の現場事務所に電話で報告することしかできなかった。心は張り裂けそうで、一睡もできずに朝を迎えた。
しかし翌日の昼間、犯人らしき人間から電話がかかってきた。子どもをあずかっているから、早急に1000万の金を用意しろとの要求だった。電話はそれだけ言うと切れる。
激しく動揺しながらも、凄子は犯人との会話を冷静に分析した。
凄子と蔵雄の子どもとわかった上での連れ去りと断定できるが、電話帳に載せていないのに、なぜ電話番号がわかったのか。
凄子夫婦のことをよく知っている人間が、わざと我が子を狙ったとしか考えられなかった。
そして通話中の背景を思い出してみる。
『周りでテレビの音が聞こえた、背後にかすかに聞こえた女の声が訛っていたような気がした、犯人は男で声やしゃべり方を変えているが、男にも共通の訛りがあった気がする、そして身近でよく聞く訛り…』
亭主と同じ九州地方の訛りだと気づいた凄子は受話器を取り、亭主の現場事務所に電話をかけた。今日は体調を崩して仕事を休んだから、宿舎にいるだろうと番号を教えてくれた。
電話をすると亭主は、長野に飛んで帰ろうと宿舎を出る矢先だったようだ。
凄子は状況を話すと、亭主はしばらく考えたのちに犯人らしき人間を特定した。
…その男は亭主とともに九州から出てきた鳶仲間だった。同じ組でずっと一緒に仕事をしてきたが、ここ1年ぐらいはギャンブルに溺れて仕事に来なくなったらしい。男は多くの鳶仲間にも多額の借金をしていたので、顔を出すこともできないのだ。だから今回の旅仕事にも来なかったと。
凄子は男の住所や電話番号を調べてくれと言うと、職人名簿を探し出して伝えた。
「お前、なにばするつもりや」
「決まってんじゃねえか、凄蔵を連れ戻しに行くんだよ」
「まだあいつと決まったわけやないやろう」
「その野郎かどうか行ってみりゃわかんじゃねえか、あたしは居ても立っても居られねえんだよ!」
「女ひとりじゃ危なかけん、俺も一緒に行くけん待っとって」
「そんなのんびりしてられねえんだよ!…蔵雄、おめえはあたしの性分わかんだろ」
「気持ちはわかるばってん、ちょっと待ちんしゃい!」
「ええい、うるせえ!」
凄子は黒電話の受話器を叩きつけて切った。
アパートからはそれほど遠くない市営住宅だった。古い平屋の連棟がいくつも並んでいる。
頭に刻んである棟番号を確かめて、暗がりに身を潜める。時期は9月初旬だから19時を回れば真っ暗だ。
目的の男の住居の玄関には灯りが見える、凄子はそっと玄関まで近づくと屋内の気配が薄い壁越しに聞こえてきた。
…子どもの泣き声、凄蔵に違いない。凄子は心臓がバクバクしてくる。
「…ママは金ば用意しとうけん、もうちょっと静かに待ちんしゃい!」
怒鳴っている。あの男の声だ、間違いない。凄蔵は泣きながらママと叫んでいるに違いない。
凄子はジーンズの尻ポケットに忍ばせた短い木刀の柄を握る。
「しゃあしかガキや!静かにせれ!」
肉を叩く音とともに、女の怒鳴り声が響いた。凄蔵の泣く声がここまで聞こえてきた。
…凄子は心拍の高鳴りで倒れそうになりながら、激烈な怒りの眼を玄関に向ける。(凄蔵…待ってろよ。ママがすぐに行くから)
…凄子が乗り込もうとした瞬間、背後に気配がした。振り返ると眠そうな顔をした老人が立っていた。少し怪訝な眼を向けると、
「いいかね?」
と、玄関ブザーを押した。左手に回覧板を携えている。凄子は暗がりに身を移して成り行きを窺っていた。
老人は男に、自治会の行事とゴミ収集場所変更の話を長々としたあと、
「それではおやすみなさい」
と背を向けた。ドアを閉めようとした男の右腕が暗がりから見える。凄子はドアが閉まる寸前に靴の爪先を突っ込んだ。




