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怒髪冠を衝け!  作者: 村松康弘
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 ―事件は突然起こった―


 凄子と佐々木はソファーに向かい合い、今後の動きを話し合っている最中だった。

 携帯が鳴る、発信者は『東郷涼子』…その名前を見て、なんとなく嫌な予感を感じた。着信ボタンを押す。

 「もしもし」

 凄子は答えるが涼子は言葉を発せず、妙な息づかいだけが聞こえてきた。不穏な気配に胸騒ぎを覚える。

 「もしもし…」

 凄子はもう一度問いかけた。

 「…東郷です。…娘が、香音が誰かに連れ去られました…」

 涼子は声を震わせながら、やっと言葉を発した。(誰かに連れ去られました…?)途端に凄子の鼓動は激しくなる。

 「えっ!香音ちゃんが…」

 向かいの佐々木が異状を察し目を丸くして、凄子を見つめた。

 「どういうことですか!」

 凄子は荒い息づかいをしている涼子に問うが、携帯から聞こえてくるのは過呼吸状態の呻きとすすり泣く声だけだ。

 「今からそちらに向かいます!」

 凄子は通話を切ると、事の次第がわからず口を開けたままの佐々木に、

 「東郷さんのマンションに行くぞ!」

 と、黒いジャケットを引っつかみ玄関を飛び出した。少し遅れて佐々木もついてくる。


 ママチャリの後ろに佐々木を乗せて、市街地を駆けていく。信号待ちで並んでいる車列の左端を、韋駄天のように突き進む。コーナーは膝が路面に擦れるほど倒してすり抜けていく。佐々木がうまくバランスを取ったのでスムーズに曲がっていった。車のクラクションもシカトして凄子はぶっ飛ばす。

 東郷家の住まいのグレイス櫻丘マンションまであっという間だった。


 ママチャリを植え込みに放り出すと、ふたりはエレベーターに飛び込む。棲み家のエレベーターより断然速いが、それでももどかしく感じた。

 最上階で降りると廊下の突き当りまで突っ走る、チャイムを鳴らすと同時にドアに手を掛けるとすんなり開いた。

 「涼子さん!入りますよ!」

 凄子はあわただしく雪駄を蹴り脱ぎ、短い廊下の先のリビングの扉を開く。

 …涼子は広い部屋のソファーの下に頭を抱えて蹲っていた。

 凄子に気づき顔を上げたが、貧血のように蒼白の表情で、血色を失くした唇を震わせている。

 「凄子さん、香音が…香音が…」

 夢遊病のようなうつろな目つきを彷徨わせている涼子は、あきらかに平常心を失っている。

 「涼子さん、落ち着いて!…まずは話を聞かせてください」

 凄子は涼子を肩を支えて、ソファーに座らせた。佐々木はリビングの入り口で呆然と立ち尽くしている。

 背中をさすってやると、いくらか落ち着きを取り戻した。そして、

 「香音が約束していた時間に帰ってこないので、携帯に電話しました…でもなかなか出なくておかしいなと思っていたらようやくつながって、でも男の人が出て…」

 涼子はそう言うと肩を落とした。だが思い直したように、手の中に持っていたものをテーブル上に置いた。それはICレコーダーだった。

 東郷親子からストーカー被害の相談を受けた時に、凄子が渡した物だ。

 「…録れていたらいいんですけど」

 凄子はうなづき、ICレコーダーの再生をはじめた。


 「…なたは誰なんですか」

 会話の途中から録音されている。

 「香音は!香音はそこにいるんですか!」

 涼子の切迫した声がレコーダーの小さなスピーカーを震わせた。

 「イルヨ…」

 面倒くさそうに受け答えしているのは、確かに男の声だ。凄子の脳裏に『美崎』と思しき若い男の風貌がよぎる。

 「いったいあなたは誰なんですか!…いったいなんの目的で」

 「ダレダッテイイジャネエカ、アンタノムスメハココニイルヨ」

 「ちょっと…ちょっと娘と、香音と代わってください!」

 男の向こうで香音らしき声が小さく聞こえるが、何を言ってるかはわからない。凄子は耳に神経を集中させる。(…踏切の遮断機の音、横断歩道の『麦畑』らしきメロディー)

 「ムスメハ、シバラクアズカルヨ」

 男は母親の焦燥を嘲笑うかのように、のんきな声で答えた。

 「あずかるって!…ちょっと待ってください!お願いですから娘と代わってください!お願いします!」

 涼子の声は、凄子を胸を震わせるほど切迫していた。

 「ウルセエナ!シバラクアズカルッテイッテンダロ!」

 短い会話からでも男の気の短さが窺え、凄子は怒りの炎が上がってきたが涼子の心痛を思うとそれどころじゃなくなった。

 「お願いします!お金ならいくらでも用意しますので、娘だけは返してください!この通りです!」

 涼子の仕草が想像できるだけに、凄子の胸はさらに痛んだ。

 「カネナンテイラネエヨ、オレハカネナンテドウデモイイ。ハハハ…」

 とことんなめ腐った態度だった、いかに冷酷な性格かが窺い知れた。

 「そんな!お願いです!言うことははんでも聞きますから、娘は返してください!」

 「ウルセエ!…ソレカライットクイガ、ケイサツニシラセタラムスメノイノチハネエカラナ。ジャアナ」

 涼子の願いもむなしく電話は切れ、ツーという音だけが続いていた。

 


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