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凄子はアンダーパスをくぐり、一度駅前に出るとスクランブル交差点を渡って、中央通りへ出る。そして北に向かってボロのペダルをこいだ。(ずっと前に、この辺の雑貨屋の前を通った時、たしかお香の匂いがしたはずだ)という記憶を頼りにここまで来てみた。
しばらく北上すると、凄子が記憶していた店が右側に見えた。近くまで寄ってみるとやはりお香の匂いが漂っている。
『Jasmine Fragrance 』という名前の看板が出ていた。凄子は間口の狭い店先に立つと、マス目状のガラスがはめられた木製のドアを押した。途端にお香の匂いが強くなる。
店内は間口の割りに奥行きがあって、左右の棚にはあらゆる雑貨や小物が陳列されている。(あたしは女だけど、こういう物には昔から縁がねえな)と思いながら、ぐるりと周囲を見回す。
店の奥に40代だと思われる女が、いそいそと動いているのが見えた、多分店主だろう。凄子に気づくと、いらっしゃいませーと愛想のいい笑顔を見せた。手にトレイを抱えていて、その上には金属製のアクセサリーがたくさん載っている。棚の上の模様替えでもするのだろうと凄子は視線を外し、匂いの元のお香を探して棚の上を物色した。
店主はガチャガチャ耳障りな音を立てていたが、しばらくするとトレイを持ったままこっちへ寄ってきた、そして凄子に会釈した途端、足元の段差に蹴つまづいて、あっ!という声を上げると、そのまま前のめりにぶっ倒れた。受け身もせずにうつ伏せに倒れるはずみで、手に持っていたトレイとアクセサリーが派手な音を立てて、あたり一面にぶちまけられる。
呆気に取られた凄子が店主を見つめていると、うぅ…と呻きながらうつ伏せから顔を上げる。店主は両方の鼻から血を滴らせながらこっちを見た。
凄子はその間抜けな顔を見て吹き出しそうになったが、かなり痛そうな表情なので笑いをこらえて、散らばった小物を拾ってやった。店主は鼻血を垂らしたまま、すみませんと言いながら、自分も拾いトレイに載せはじめる。
鼻血は唇をつたってアゴまで垂れているが、気づかない様子なので凄子は、
「ご主人、鼻血が出ているよ」
と声をかけた。笑いをこらえるのに必死だった。
すると店主は、え?鼻血?と言いながら鼻の下を触って、指についた血を見てようやく気づき、「あー、本当だ!」
と言うと、ひとりで笑いだした。何がおかしいのか、ずっと笑い続けている。鼻から下を赤く染めて笑っている光景は、少し異様だった。凄子は黙ったまましばらく様子を眺め、(この人、ちょっとおかしいんかや)と心配になる。
店主はカウンターのティッシュを両方の鼻に詰めて戻ってくると、
「なにかお探しですか?」
と間抜けな声で聞いてきた。凄子は、この店には何種類のお香をそろえているのか、そして背の高い若い男の客が来たことはないか、と尋ねてみる。すると店主は店の奥から品を持ってきて、伽羅だとか沈香だとか白檀だとか説明をはじめた。が、凄子にはなんの知識もないので、聞いてもよくわからない。
延々と説明をし終えた店主は最後に、背の高い若い男がお香を買いにきたという記憶はない、と答えた。
凄子は、鼻にティッシュを詰めたままの店主に礼を言うと、店を出てボロにまたがり走り出す。(うーん、簡単にはいかねえな)と舌打ちした。そして、(他にお香を扱っている店を電話帳で探してみるか)と街中をうろついて公衆電話を探すが、今どきは携帯の普及でなかなか見つからない。駅前まで行ってようやく見つけたが、電話帳は置いてなかった。
ため息をつくと、仕方なく自分の棲み家へと戻って行く。ボロを壁に立ててエレベーターに乗ると、佐々木のことを思い出した。(ジジイがなんかつかんでくりゃ面白えが、まあ初日だし期待するのはやめとこう)と部屋に戻った。
応接の棚に立ててあるタウンページを引っぱり出して検索してみる。『お香』で調べてみたが、『オートバイ部品・用品』のあとは、『置き薬』だった。次は『香』で調べてみる、『コインランドリー』のあとは、『公園』になっていた。
凄子は「うーん」と唸ると、しばらくあっちこっちと探す。ようやく『線香・薫香』というページで3店を見つけだしたが、店名を見るとどうやら『製造元』や『卸元』のような業種に感じられた。
それでも、(ダメで元々)と電話をかけてみる。しかし結果は、やはり手掛かりになりそうな情報はなかった。
凄子はタウンページをテーブルに放り出すと、ソファーに寝転ぶ。あおむけになったままセブンスターに火を点けると、携帯が鳴った。発信元を見ると『佐々木』だった。




