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凄子は前かがみになった石橋の背後から、遠心力を生かした脚を繰り出す。水平に飛ぶそれが90度回転したあたりで、雪駄の足の甲が石橋の後頭部に直撃する。呻き声を上げた石橋は両手で腹部を押さえたままなので、受け身も取れずに自分の吐瀉物の上に倒れ込んだ。せっかくの一張羅のシャツも黒いスラックスもゲロまみれになって気絶する。
サラリーマンは石橋を避けようとして、飛びすさった拍子にまた尻もちをつき、目の前の激しい乱闘に腰を抜かして小便を漏らしている。くるりと一回転した凄子は、
「ふん、相変わらず口ほどにもねえ野郎だ」
とつぶやくと、懐からセブンスターを出して火を点けた。一度煙を吐くと、ギロリとサラリーマンを見据えた。
「おい、お前」
凄子が声をかけると、サラリーマンは弾かれたように背筋を硬直させ、
「は、はい」
と答える。
「どこのおっさんか知らねえが、お前みてえな間抜けを狙って、食いもんにするクズはいくらでもいるんだぜ」
凄子はくわえタバコのままつぶやく。途端にサラリーマンは、小便で濡れたスラックスを気にもせずに正座した。凄子の前で足を投げ出していることが失礼だと思ったのだろう。そしてかしこまった表情を作り、
「はい、申し訳ありませんでした」
と頭を下げる。
凄子は(こいつはきっと、会社でいつもこんな風に謝ってるヤツなんだろうな)といくらか蔑む気分になった、同時に情けない男だとも思う。そのまま黙ってタバコをふかしていると、サラリーマンは言いづらそうに、
「あの、…いくらお支払いしたらいいでしょうか?」
と媚びたような視線を送ってくる。
凄子は本当に馬鹿馬鹿しくなり、タバコを路上で踏みにじると、
「馬鹿野郎!銭が欲しくて助けたんじゃねえや、石橋の野郎に腹が立ったのと、てめえがみじめに見えたからだ。…家族がいるかいねえか知らねえが、あたしによこす銭があんならそっちに回してやれ!」
と喝を入れ、気絶したままの石橋を一瞥すると、
「…こいつが目を醒ます前にずらかれよ、じゃあな」
と吐き捨てて自転車の方向に戻っていく。背中に、
「すみません、ありがとうございました」
と震え声が聞こえる。
ますます目がさえてきた凄子は、自転車をこぎ出すと行きたい店が思い浮かんだ。(そうだ、スワンに行こう。・・・いいこと思いついたなあ)行き先が決まると凄子は浮かれて、また鼻歌まじりで自転車の速度を上げた。スワンは『ゴールデンタウン』という名のビルの中にある、じきにその建物が見えてきた。4階建てのテナントはすべてが飲み屋だ。
凄子はボロ自転車をビル入り口に乗り捨てると、エレベーターホールに向かう。前まで来るとちょうど扉が開いて、酔客が吐き出されてくるところだった。中年の男が3人、千鳥足で浮かれて出てきた。狭い廊下ですれ違う時にそのうちのひとりが赤ら顔をゆがめて、
「おい、おばちゃん」
とからかってきた。凄子は無言のまま酔客をギロリと睨みつけた、途端に男は、あ、と言うと、申し訳なさそうに小さく頭を下げて通りすぎていった。
エレベーターに乗り込むと最上階のボタンを押す、ハコの中は香水と酒の匂いが充満しているが、凄子の棲み家とちがってエレベーターは早いので、すぐに4階に到着する。扉が開いた先に『スワン』の紫地に白鳥の図柄を施した看板が点灯している。エレベーターの到着を知らせるアラームでもついているのか、凄子が廊下に下り立つとすぐに豪華な装飾ドアが開いた。
まるで宝塚のようなどぎつい化粧をした女が現れ、
「いらっしゃいませー、…あら?凄子お姉さまじゃない!嬉しいー!」
と野太い声が狂喜した。どぎつい化粧のホステスは女じゃなく、オカマなのだ。ひとり目のオカマが凄子に腕を絡めて、きつい香水の芳香を立てていると、次々に店からオカマが出てきた。
「あらっ!凄子お姉さまー!…ちょっとリンリン、あんたお姉さまをひとりじめしないでよ!」
とふたり目のオカマが、凄子に絡んでいるリンリンを突っつく。そいつも負けないぐらいの太い声だ。
「なによ!ランラン、あんたなんかにお姉さまはもったいないわよ!」
とリンリンはランランに舌を出してみせた。
凄子がその様子を笑いながら眺めていると、年嵩のオカマが出てきた。
「いらっしゃいませ、凄子さま」
と落ち着いた声であいさつをした、そのオカマもきつい化粧をしているが、頭はだいぶはげ上がっていた。その容姿はアンバランスというか滑稽だが、本人は真面目な顔をしているので迂闊に笑えない。
「よう、マダム。久しぶりに来てみたよ、あまりに眠れなかったもんでさあ」
凄子がそう言うとマダムは口元に手を添えて、
「ふふ、嬉しいわ」
とはにかんでみせた。
凄子はリンリンとランランに両腕を絡まれて店内に入る。いろんな銘柄の香水が入り混じった異様な匂いと、オカマ独特の嬌声が飛び交う店の中は、夜中だというのに大勢の客でにぎわっている。それぞれの席についているオカマは、数えてみれば20人はいるかもしれない。
さまざまな客層が陽気に談笑しているボックスを通りすぎ、凄子は一番奥のボックスに通された。特別客扱いされているようだ。




