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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第一幕

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9/18

あなたを救うお手伝いを、私にさせてください

 奈津は、黒い靄に覆われた紫鬼を見つめた。


「もしかして……その穢れは」


「お前には関係ない」


 紫鬼が奈津の言葉を遮る。


「部屋へ戻れ」


「でも――」


 紫鬼は片手を地面につき、立ち上がろうとした。

 けれど、その身体がぐらりと傾く。


「紫鬼様!」


 考えるより先に身体が動いた。

 奈津は庭へ駆け下り、倒れかけた紫鬼を咄嗟に両腕で支える。


「触るな……!」


「でも、このままでは……」


「離れろ」


 そう言われても、奈津は手を離せなかった。

 すぐそばで、黒い穢れが蠢いている。


 コマの時と同じだ。

 あの夜は、ただ助けたいと願った。

 すると、身体の奥から眩い光が溢れ出した。


(だったら……)


 紫鬼を支える手に、そっと力を込める。


(お願い。この穢れを……消して)


 目を閉じ、強く願った。

 けれど――。


「……?」


 何も起こらない。

 あの夜のような光は現れず、紫鬼を覆う穢れも変わらずその身体にまとわりついている。


「どうして……」


 もう一度。今度は、さらに強く願う。


(お願い……消えて……!)


 それでも、何も変わらなかった。


「もういい」


 紫鬼の声が落ちる。


「待ってください。もう一度――」


「無理だ」


 胸が、ずきりと痛んだ。

 聞き慣れた言葉だった。


 ――お前には無理だ。


 何もできない。何の力もない。出来損ない。

 これまで何度も浴びせられてきた言葉が、頭の奥に蘇る。


「……でも」


 奈津は小さく首を振った。


「コマの時は……できたんです」


 なのに今は、何も起こらない。

 助けたいと思っているのに。

 この手は、何もしてくれない。


「どうして……?」


 奈津は自分の手を見つめた。


「どうして、助けられないの……?」


「手を離せ」


 低い声が落ちてくる。

 奈津が顔を上げると、紫鬼は苦痛を押し隠すようにこちらを見ていた。


「これは、お前が関わることじゃない」


「でも……」


 紫鬼は奈津の手を外し、ゆっくりと立ち上がった。

 その身体が一度、ふらつく。

 奈津は反射的に手を伸ばしかけた。


「来るな」


 伸ばしかけた手が止まる。

 紫鬼はそれ以上何も言わず、奈津へ背を向けた。

 足取りは、いつもよりずっと遅い。

 それでも、誰の手も借りるつもりはないと拒むように、一歩ずつ屋敷へ戻っていく。


 奈津は、その場から動けなかった。

 やがて白銀の髪が、夜の廊下の向こうへ消えていく。


 残された奈津は、もう一度自分の手のひらを見た。

 あの夜は、この手から確かに光が溢れた。

 なのに今は――何ひとつ、できなかった。


 ◇


 結局、ほとんど眠れず朝を迎えた。

 寝不足でどこか頭がぼんやりしたまま朝餉を終え、コマと廊下を歩いていた時だった。

 ふと、渡り廊下の先に白銀の髪が見えた。


「……紫鬼様」


 奈津は足を止める。

 紫鬼は数人の鬼を従え、屋敷の奥へ歩いていくところだった。

 額に角はなく、背筋も真っ直ぐ伸びている。

 昨夜のことなど、何ひとつなかったように見えた。


(あんなに、苦しそうだったのに……)


 奈津は遠ざかっていく白銀の髪を、しばらく見つめていた。


 ◇


 昼を少し過ぎた頃。

 奈津の部屋を訪れたのは、九重だった。


「癒し子様。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「はい」


 案内された一室で、奈津は九重と座卓を挟んで向かい合った。

 ほどなく女中が茶と菓子を運んでくる。

 女中が退出するのを待ってから、九重が口を開いた。


「コマを救われた時のことについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか」


「……はい」


「以前、気づけば手から光が溢れていたと仰っていましたね。その直前に、何か普段とは違う感覚はございませんでしたか?」


「感覚……」


 奈津は、あの夜を思い返す。

 異形化し、暴れていたコマ。


 けれど、触れた時――。


「……苦しかった、気がします」


 九重の閉じられていた目が、僅かに開く。


「癒し子様が?」


「いえ。私ではなくて……コマが」


 自分でも、うまく説明できない。


「触れた時に、コマがすごく苦しんでいるような……そんなものが伝わってきた気がしたんです」


「それから?」


「助けたいと思って……そうしたら、光が」


 奈津は自分の手のひらを見る。

 何の変哲もない、見慣れた手。

 ずっと、自分には何の力もないと思っていた。

 けれど、この手は一度だけ、コマを救った。


「……でも」


 奈津の声が小さくなる。


「昨夜は、できませんでした」


 九重の口元に浮かんでいた笑みが、薄れた。


「昨夜?」


 奈津は少し迷ったあと、口を開く。


「庭で、紫鬼様を見かけたんです」


 九重は驚かなかった。


「ひどく苦しんでいらっしゃいました。身体中を、ものすごい量の穢れが覆っていて……」


 奈津は少し迷ってから、尋ねる。


「あれは……他の妖から引き受けたものなんですか?」


 九重はすぐには答えなかった。

 やがて、小さく息を吐く。


「……ええ」


「やっぱり……」


「紫鬼様には、他者の穢れを自らへ移す力がございます」


 奈津の目が見開かれる。


「穢れを……自分の身体に?」


「ええ」


「でも、どうしてそんなことを……?」


 九重は湯呑みへ一度視線を落とした。


「浄化を受けられる妖ばかりではありませんから」


 奈津が眉を寄せると、九重は続けた。


「浄化の力を持つ人間の娘は数が少ない。そのため、どうしても高位の妖から優先して浄化が行われます」


 奈津は、なるほどと小さく頷いた。


「力の弱い妖ほど、浄化の機会を得られないことも多いのです」


「では……そのまま穢れを溜め込めば」


「やがて自らでは処理しきれなくなり、異形化する者も現れます」


 コマの姿が脳裏をよぎった。


「だから……紫鬼様が?」


「ええ」


 九重は頷く。


「各地で、自らでは穢れを抑えきれなくなった者が出れば、堂目道家へ報せが届きます」

「異形化する前であれば、あの方が穢れの一部を引き受けることで、進行を食い止められることがあります」


 奈津は息を呑んだ。

 脳裏に、昨夜のおびただしい穢れが蘇った。


「でも……」


 奈津は思わず身を乗り出した。


「紫鬼様ほどのお方なら、浄化を受けることもできますよね?」


 九重の表情が曇る。


「もちろん、受けております」


「え?」


「これまで何人もの浄化の力を持つ娘に、紫鬼様の穢れを浄めてもらいました」


 九重は一度、目を伏せた。


「ですが――引き受けた穢れだけは、一度として消えたことがございません」


「……一度も?」


「はい」


 奈津は言葉を失った。


「他者から紫鬼様へ移された穢れは、通常とは性質が変わってしまうようなのです。詳しい理由は、私どもにも分かっておりません」

「どれほど強い浄化の力でも、届きませんでした」


 昨夜の光景が、鮮明に蘇る。

 黒い穢れに覆われ、庭先で片膝をついていた紫鬼。


「じゃあ……紫鬼様は、ずっと……あの苦しみを?」


 九重は、しばらく黙っていた。


「……私が知る限り、ずっとです」


 奈津は息を詰めた。


「引き受けた穢れは、少しずつあの方のお身体を蝕んでおります」


「そんな……」


「紫鬼様ほど強大な妖力を持つお方だからこそ、あれほどの穢れを抱えながら自我を保っていられるのです」


 思わず、口をついて出る。


「どうして、そこまで……」


 その言葉に、九重は困ったように目を伏せた。


「あの方は、救えるものを見捨てることがおできにならないのですよ」

「ご自身がどれほど傷つこうとも、それで一つの命が救えるのなら、迷わず手を差し伸べてしまわれる」


 九重の口元に、苦い笑みが浮かぶ。


「……昔から、そういうお方です」


 奈津は、何も言えなかった。


 森で出会った夜。

 人間である奈津を、紫鬼は見捨てなかった。


 そして奈津だけではない。

 あの人はずっと、自ら傷つきながら多くの命を救ってきたのだ。


「九重様」


「はい」


「もし私が、本当に《癒し子》なら……」


 奈津は自分の手を見る。


「紫鬼様の穢れも、消すことができるのでしょうか」


 九重の口元から、微笑みが消えた。


「……分かりません」


 九重は静かに続けた。


「《癒し子》は、古い記録に残るのみ。その力のすべてを、私どもも知っているわけではございませんので」


「そう……ですか」


 できる保証はない。

 そもそも、自分が本当に《癒し子》なのかさえ分からない。

 それでも、コマを救えたのは、確かだった。

 奈津は手のひらを見つめる。


(もっと、この力のことを知りたい)


 誰かに認めてもらうためではない。

 誰かを――救えるようになるために。


「九重様」


 奈津は顔を上げた。


「お願いがあります」


 ◇


 九重に連れられて向かったのは、屋敷の奥にある紫鬼の執務室だった。

 障子の前まで来ると、奈津の足が僅かに止まる。


 昨夜「来るな」と拒絶され、去っていった背中を思い出す。

 それでも、ここまで来たのだ。


「紫鬼様」


 九重が障子の向こうへ声をかける。


「癒し子様がお話ししたいことがあるそうです」


 少しの間を置いて、低い声が返ってきた。


「……入れ」


 九重が障子を開く。

 部屋の奥では、紫鬼が文机に向かっていた。

 傍らには書状がいくつも積まれている。


 奈津が入ってくると、紫鬼は筆を置いた。


「何の用だ」


「……あの」


 奈津は緊張で強張る指先を握る。


 昨夜、あれほど苦しんでいたというのに。

 今は何事もなかったように、堂目道家の当主としてここにいる。


「九重様から、聞きました」


「何をだ」


「紫鬼様が、穢れに苦しむ妖たちの穢れを引き受けていることです」


 紫鬼の目が、九重へ向いた。


「九重」


「癒し子の可能性がある以上、知っていただく必要があると判断いたしました」


 九重はいつもの柔らかな表情のまま答える。

 紫鬼はそれ以上何も言わず、奈津へ視線を戻した。


「それで?」


 奈津は一度、唇を結ぶ。


「私に……もう一度、試させていただけませんか」


「何を」


「紫鬼様の穢れを、消せないか」


 紫鬼の眉間に、僅かな皺が寄った。


「必要ない」


 予想していた言葉だった。

 それでも、奈津は引かなかった。


「でも――」


「昨夜、できなかっただろう」


「……はい」


 できなかった。

 どれほど願っても、光は現れなかった。


「それでも、コマを助けることはできました」


 紫鬼は黙っている。


「どうしてできたのかも、どうすればもう一度使えるのかも、まだ分かりません」


 奈津は自分の手を見る。


「でも……だからって、最初から諦めたくないんです」


 紫鬼の深紫の瞳が、奈津を捉える。

 それでも奈津は目を逸らさなかった。


「もし私にも、誰かを救える力があるなら……ちゃんと使えるようになりたいんです」


 紫鬼は何も答えない。


「それに、私も紫鬼様に助けていただきました」


 あの森で捨てられた奈津を、紫鬼は見捨てなかった。


「だから今度は――」


 奈津は、まっすぐ紫鬼を見つめた。


「あなたを救うお手伝いを、私にさせてください」

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