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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第一幕

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8/18

鬼の王が背負うもの

 奈津は、襖の前で息を呑んだ。


「綾乃には、本当に強い浄化の力がございます」


 明美がすかさず口を添える。


「この子ほどの力を持つ娘は、そうおりません。奈津よりも、きっと紫鬼様のお役に立てるはずです」


「そうです、紫鬼様」


 綾乃も身を乗り出した。


「花嫁候補にするのであれば、私の方がふさわしいはずですわ」


 その顔には、揺るぎない自信が浮かんでいた。

 欲しいものは、最後には必ず手に入る。奈津には見慣れた表情だった。


 けれど紫鬼は、何も答えなかった。

 そのまま立ち上がると、綾乃たちには目もくれず、客間を横切ってくる。

 奈津は思わず身を固くした。


 やがて紫鬼は襖の前で足を止め、一気に開け放つ。


「……っ」


 視線がぶつかった。

 風呂敷を抱えた奈津を見ても、紫鬼は驚いた様子を見せない。

 ただ片手を差し出した。


「来い」


「……え?」


 奈津は戸惑いながらも、おずおずとその手を取る。

 大きな手に導かれるまま客間へ足を踏み入れると、奈津は紫鬼と肩を並べていた。


 紫鬼は奈津を隣に立たせたまま、綾乃へ静かな視線を向けた。


「俺が花嫁候補とするのは、ただ一人だ」


 その声音には、迷いも揺らぎもなかった。


「それ以外は必要ない」


「……っ」


 綾乃の顔から、すっと笑みが消えた。

 紫鬼はそれ以上、綾乃に言葉を向けなかった。

 奈津の抱える風呂敷へ目を落とす。


「準備は済んだか」


「……はい」


「なら、行くぞ」


 紫鬼は奈津の手を離し、そのまま何事もなかったように横を通り過ぎていった。


「九重」


「はい」


 呼ばれた九重も、何事もなかったように紫鬼のあとへ続いた。

 客間に残された綾乃たちへ、九重は丁寧に一礼する。


「それでは、失礼いたします」


 柔らかな物腰は変わらない。

 けれど、綾乃の申し出に触れることは一切なかった。


「お、お待ちください、紫鬼様……!」


 綾乃の声が背後から追いかけてくる。

 けれど紫鬼は、振り返りもしなかった。


 奈津は一度、客間を振り返った。

 綾乃は、信じられないものを見るようにその場に立ち尽くしている。

 奈津は風呂敷を抱き直し、紫鬼の背中を追った。


 ◇


 馬車が九条家を離れていく。

 窓の外を、見慣れた町並みがゆっくりと流れていった。


 奈津は膝の上の風呂敷に手を置く。


 あの家を出てきた。

 幼い頃から、ずっと暮らしてきた場所。

 苦しくても、辛くても、そこしか自分の居場所はないと思っていた。


 けれど今、不思議と寂しさはなかった。

 少しずつ遠ざかっていく屋敷を眺めながら、奈津はようやく深く息を吐く。

 行きと変わらず、向かいには紫鬼、その隣には九重が座っている。


 紫鬼は背筋を伸ばしたまま、静かに窓の外を眺めていた。

 腿の上に置かれた片手へ、ふと奈津の目が留まった。長い指と、広い手のひら。

 その手に触れた感触が、まだどこかに残っているような気がする。


『俺が花嫁候補とするのは、ただ一人だ』

 その言葉まで蘇ると、心のどこかがかすかに揺れた。


 奈津は何度か迷った末、口を開いた。


「……あの」


 紫鬼が目を向ける。


「先ほどは……ありがとうございました」


「何がだ」


 奈津は風呂敷の上で指を重ねた。


「その……いろいろと」


 うまく言葉にできず、視線を落とす。

 紫鬼はそんな奈津をしばらく見つめたあと、淡々と告げた。


「ああでも言わなければ、あの女は引かなかっただろう」


「……そう、ですよね」


 奈津は小さく頷いた。

 分かっていたはずなのに、胸の奥に淡い翳りが落ちる。


「だが」


 その声に顔を上げる。


「お前以外を花嫁候補にするつもりがないのは事実だ」


「……え」


 奈津は目を瞬いた。

 その隣で、九重が穏やかに笑みを深める。


「紫鬼様は、嘘がお嫌いですから」


「九重」


「これは失礼いたしました」


 悪びれた様子もなく微笑む九重を見て、奈津はますますどうしていいのか分からなくなる。

 たまらず窓の外へ顔を向けたものの、頬に集まった熱は、しばらく引いてくれそうになかった。

 馬車はそのまま、堂目道家へと走っていった。


 ◇


 堂目道家へ戻る頃には、空はすっかり暮れていた。

 馬車を降り、屋敷へ向かおうとしたところで、


「奈津様ー!」


 聞き慣れた声とともに、小さな影が駆けてくる。


「コマ?」


「おかえりなさい!」


 奈津の前まで来ると、コマは嬉しそうに顔をほころばせた。

 その言葉に、奈津は一瞬だけ目を瞬く。


「……ただいま」


 そう返すと、コマの耳がぴんと立った。


「はい!」


 弾んだ返事に、奈津もつられて頬を緩める。

 やがて紫鬼や九重と別れ、奈津が自室へ戻ると、コマもそのあとをついてきた。


「奈津様、ぼくもお荷物のお片づけを手伝います!」


「ありがとう。そんなに多くないから、すぐ終わると思うけど」


 風呂敷を開きながら答える。

 するとコマは、嬉しそうに荷物を覗き込んだあと、ふと思い出したように顔を上げた。


「これから奈津様は、ずっとここにいるんですよね?」


「え?」


「だって、紫鬼様のお嫁さんになるんでしょう?」


「ち、違うの」


 奈津は慌てて首を振った。


「あくまで仮のお話だから……」


「そうなんですか?」


 コマは残念そうに耳を垂らす。

 その様子に苦笑しながら、奈津はふと尋ねた。


「そういえば……コマは、紫鬼様ととても親しいのね」


「あっ」


 今度は耳が勢いよく立った。


「奈津様には、まだ言ってませんでしたね」


「?」


「ぼく、紫鬼様の使役獣なんです」


「使役獣……?」


 初めて聞く言葉だった。


「はい。主と契りを結んで仕える、獣妖のことです」


「契り……」


「といっても、無理やり従わされるわけじゃないですよ。お互いが望んで結ぶものなんです」


 コマはどこか誇らしげに胸を張った。


「ぼくも、自分から紫鬼様にお願いしたんです」


「自分から?」


「はい。紫鬼様は、ぼくの命の恩人ですから」


 そう話すコマの表情が、ふっと柔らかくなる。


「ずっと昔、行くところがなかったぼくを拾ってくださったんです。それから、ずっと紫鬼様のおそばにいます」


「そうだったのね……」


 奈津は頷き――そこで、ひとつ疑問が浮かんだ。

 それほど近くにいたのなら。


「それなら、どうして浄化を受けなかったの?」


「え?」


「堂目道家から要請すれば、浄化をお願いすることもできたでしょう?」


 完全に異形化してしまう前なら、まだ助けられたはずだ。

 コマの耳が、少しだけ下がる。


「……ぼくも、自分はまだ大丈夫だと思ってたんです」


「どういうこと?」


「穢れを溜めすぎないようにって、前から言われてました。でも、ぼくはそんなに溜め込んでないつもりで……」


 コマは自分の手元へ目を落とした。


「なのに、何かおかしいって気づいた頃には、びっくりするくらい早く穢れに呑まれ始めたんです」


「そんなに急に……?」


「はい。浄化をお願いしても、もう間に合わないんじゃないかって思うくらい」


 奈津は眉を寄せた。

 穢れは、本来なら少しずつ蓄積し、身体や心を蝕んでいくもの。

 少なくとも、奈津はそう教わってきた。


(そんなに急激に、異形化が進むことなんてあるの……?)


 疑問は残った。

 けれど、今はそれよりも気になることがある。


「それならなおさら、紫鬼様を頼ろうとは思わなかった?」


「……できなかったんです」


「どうして?」


 コマの小さな手が、着物の裾をぎゅっと握る。


「怖かったから」


 その声は、先ほどまでとは違っていた。


「穢れがひどくなってから、お腹が空いて仕方なくなったんです。どれだけ食べても違うっていうか……もっと別のものが欲しいって、ずっと頭の中で言われてるみたいで」


 奈津は息を呑んだ。

 森で見た、異形化したコマの姿が蘇る。


「だんだん、自分が自分じゃなくなっていくみたいでした」


「コマ……」


「もし完全に異形化したら、紫鬼様や九重様たちを襲っちゃうかもしれない。それが怖くて……」


 だから、助けを求めるのではなく、誰にも告げず屋敷を離れた。

 大切な者たちを傷つけないために。


「それに……」


 コマがさらに声を落とした。


「紫鬼様には、知られたくなかったんです」


「どうして?」


「だって、知られたら……」


 コマは一度口を噤む。

 そして、ぽつりと零した。


「紫鬼様、またぼくの穢れまで引き受けちゃうから」


「……引き受ける?」


「あっ!」


 コマがはっとして、両手で口を覆った。


「い、今のは紫鬼様には内緒にしてください!」


「え?」


「お願いします、奈津様!」


 勢いよく頭を下げられ、奈津は戸惑う。


「わ、分かったから。頭を上げて」


「絶対ですよ?」


「うん」


 奈津が頷くと、コマはようやく顔を上げた。


 けれど、奈津の頭には、その言葉が残った。


(穢れを……引き受ける?)


 どういう意味なのか尋ねても、コマは困ったように耳を伏せるばかりだった。


 ◇


 その夜、奈津はなかなか寝つけずにいた。

 見知らぬ部屋だからだろうか。

 身体は疲れているはずなのに、目を閉じても眠りは訪れない。


『紫鬼様、またぼくの穢れまで引き受けちゃうから』


 昼間のコマの言葉が、何度も頭に浮かんだ。

 穢れを引き受けるとは、どういうことなのだろう。


 喉の渇きを覚え、奈津は身体を起こした。

 水を飲もうと水差しへ手を伸ばすが、中は空だった。


(……どこかでもらえるかな)


 少し迷った末、羽織を肩に掛けて部屋を出た。


 昼間とは打って変わり、屋敷は静まり返っていた。

 月明かりだけが長い廊下を青白く照らしている。

 水をもらえる場所を探して歩いていると、いつの間にか見覚えのない廊下まで来ていた。


(こっちじゃなかったのかな……)


 引き返そうとした、その時。


「……っ、は……」


 微かな音が聞こえた。


「……?」


 誰かの、苦しげな息遣い。

 奈津は耳を澄ませる。

 廊下の先。庭の方からだ。

 恐る恐る近づいていき――奈津は息を呑んだ。


 月明かりの下で、白銀の髪が揺れている。


「……紫鬼様?」


 奈津は息を呑んだ。

 紫鬼が、庭先で片膝をついている。


 けれど、いつもの姿ではない。

 額から伸びているのは、二本の漆黒の角。

 そして、その身体には――。


「……穢れ」


 黒い靄のようなものが、全身へ幾重にも絡みついていた。

 昨夜、コマの身体を蝕んでいたものと同じ。

 けれど、その量は比べものにならない。

 まるで紫鬼の身体を呑み込もうとするように、おびただしい穢れが蠢いている。


 奈津が一歩踏み出すと、紫鬼がゆっくりと顔を上げた。

 これまで奈津の前では崩れることのなかった表情が、今は苦痛に歪んでいる。

 額には汗が滲み、呼吸も荒い。


「……何をしている」


 いつもの低い声にも、僅かな掠れが混じっていた。


「その、身体……」


「来るな」


 奈津の足が止まった。


「でも……」


「部屋へ戻れ」


 有無を言わせない声音だった。

 奈津は一歩、後ずさる。


 怖い。

 普段は隠されている漆黒の角。全身を覆う穢れ。

 そして、肌を刺すような濃い妖気。


「まさか……」


 昼間のコマの言葉と、目の前の光景が重なった。

 ――これが、《穢れを引き受ける》ということなのだろうか。

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