今度は諦めたくない
「あなたを救うお手伝いを、私にさせてください」
奈津の声が、静かな執務室に響いた。
紫鬼は何も答えなかった。
その紫の瞳が、奈津をじっと見つめている。
長い沈黙に、奈津の指先が強張る。
やはり駄目なのだろうか、そう思いかけた時。
紫鬼が、文机から片手を離した。
その手を、奈津の方へ差し出す。
「……え」
奈津は一瞬、その意味が分からなかった。
けれど紫鬼は何も言わない。
ただ、試すのなら勝手にしろとでもいうように、こちらを見ている。
「……ありがとうございます」
奈津は小さく頭を下げた。
差し出された手を前に、そっと息を呑む。
昨夜は、夢中でその腕を掴んだ。
けれど今は、自分の意思で触れようとしている。
改めて目の前にすると、やはり怖かった。
人ならざる美しさを持つ、妖の長。
その気になれば、自分など一瞬で命を奪われるほどの力を持つ存在だ。
奈津は震えそうになる指先を、もう片方の手でぎゅっと握った。
その時、ふと気づく。
(……顔色が悪い)
朝、廊下で見かけた時には、昨夜のことなどなかったかのように見えた。
けれど、こうして近くで見れば分かる。
元より白い肌はさらに青ざめ、目元には微かな疲労が滲んでいる。
昨夜、立っていることすらままならないほど苦しんでいたのだ。
あれほどの穢れを抱えて、たった一晩で何事もなかったことになどできるはずがない。
それでも紫鬼は、誰にも弱った姿を見せることなく、こうして当主として仕事をしている。
奈津は意を決し、差し出された手へ自分の手を重ねた。
「……っ」
触れた瞬間。
ずしりと、身体の奥まで沈み込むような重さを感じた。
奈津は思わず息を詰める。
(なに……これ……)
昨夜とは違う。
あの時は、目に見える黒い穢れをどうにかしなければと、そればかり考えていた。
けれど今は――。
触れた指先から、何かが伝わってくる。
冷たい。重い。息が詰まりそうなほど、苦しい。
一つではない。
いくつもの異なるものが複雑に絡まり合い、どこからどこまでが一つなのかさえ分からなくなっている。
九重の言葉が蘇る。
紫鬼はこれまで、多くの妖から穢れを引き受けてきた。
(これが……全部……?)
誰かを救うたび、一つ、また一つ。
長い時間をかけて蓄積した穢れが、幾重にも絡まり合い、紫鬼の奥深くへ染みついている。
まるで――解くことのできない呪いのように。
奈津はぎゅっと紫鬼の手を握った。
(お願い……)
コマを救った時のことを思い出す。
あの時と同じように。
もう一度、この手から光が出てくれれば。
(消えて……)
奈津は強く願った。
(お願い……!)
けれど、何も起こらない。
手のひらから光が溢れることもなければ、紫鬼の中にある重苦しいものが薄れることもない。
「……どうして」
奈津の唇から、小さな声が零れた。
これでは昨夜と同じだ。
もっと強く願えばいいのだろうか。
もっと集中すれば、もっと、もう一度――。
そう思った時、紫鬼が静かに手を引いた。
奈津の手が、行き場を失う。
「紫鬼様……」
「もう十分だろう」
低い声が落ちた。
奈津は唇を噛む。
「でも、今……少しだけ、分かったんです」
紫鬼が奈津を見る。
「紫鬼様の中にある穢れを、感じました」
「……」
「いくつもの穢れが、絡まり合って……ずっと奥まで続いているような……」
うまく言葉にできない。
それでも、触れる前とは違う。
確かに何かを感じ取ることはできたのだ。
「だから、もう少し試せば――」
「無駄だ」
奈津の言葉を、紫鬼が遮った。
「……っ」
「それは、とうに俺の一部となっている」
紫鬼は淡々と告げる。
「誰にも、どうすることのできないものだ」
あまりにも静かな声だった。
怒っているわけでもない。
悲しんでいるようにも見えない。
「……俺はそれを受け入れている」
あまりにも静かな言い方だった。
まるで、とうに諦めているような――。
「話はそれだけか」
「……はい」
「ならば下がれ」
「……失礼いたします」
奈津は頭を下げ、立ち上がった。
障子の前まで歩き、一度だけ振り返る。
紫鬼はすでに奈津から視線を外し、再び文机へ向かっていた。
まるで、今のことなど最初からなかったかのように。
奈津は何も言えないまま、執務室を後にした。
◇
(また、できなかった……)
廊下を歩きながら、奈津は自分の手を見つめた。
昨夜とは少し違った。
今度は確かに、紫鬼の中にあるものを感じた。
途方もないほどの穢れ。
いくつもの苦しみが絡まり合い、深く根づいている。
それなのに、この手から光は出なかった。
(やっぱり……私には)
本当に癒し子の力などあるのだろうか。
コマを助けられたのは、たまたまだったのではないか。
一度きりの、何かの間違いだったのでは――。
「奈津様ー!」
聞き慣れた声に、奈津は顔を上げた。
廊下の向こうから、コマがぱたぱたと駆けてくる。
「奈津様! 探してたんです!」
「私を?」
「はい! お庭に綺麗な花が咲いてて――」
そこまで言ったところで、コマがぴたりと止まった。
じっと奈津の顔を見上げる。
「……奈津様?」
「なに?」
「なんだか、元気がないです」
奈津は目を瞬いた。
「……そんなに分かる?」
「分かります!」
迷いのない即答に、思わず小さく笑う。
「ふふ……そっか」
けれど、その笑みも長くは続かなかった。
「何かあったんですか?」
奈津は少し迷ってから、コマの前にしゃがんだ。
「ねえ、コマ」
「はい」
「私……どうしてあの時、あなたを助けられたんだろう」
コマがきょとんと目を丸くする。
「紫鬼様にも、同じことができないか試してみたの」
「紫鬼様に?」
「うん。でも……何も起きなかった」
奈津はゆっくりと手を握る。
「昨日も今日も、どれだけ願っても光は出なくて……」
口にしているうちに、胸の奥に押し込めていた不安が膨らんでいく。
「私、本当に癒し子なのかな……」
「奈津様……」
「あなたを助けられたのも、たまたまだったのかもしれない」
「違います!」
思いがけないほど強い声に、奈津は顔を上げた。
コマが真剣な顔でこちらを見ている。
「ぼくは、確かに奈津様に助けてもらいました」
「コマ……」
「あの時のこと、ちゃんと覚えてます」
コマは胸元を、小さな手でぎゅっと握った。
「真っ暗で……すごく苦しかったんです」
コマは胸元を、小さな手で握った。
「身体も自分のものじゃなくなっていくみたいで……あのまま、ぼくじゃなくなっちゃうんだって思いました」
奈津は黙って耳を傾ける。
「誰の声も聞こえなくて、ずっと一人で暗いところに落ちていくみたいだったんです」
コマが顔を上げた。
「でも、奈津様の光だけは届きました」
「私の……?」
「はい。すごく、あったかかったです」
コマはふわりと笑った。
「あの時の感覚を、ぼくは一生忘れません」
奈津はしばらく何も言えなかった。
やがて、ゆっくりと自分の手を見る。
――誰の手も届かないところ。
その言葉が、不思議と胸に残った。
先ほど触れた、紫鬼の中の穢れを思い出す。
あまりにも深く。
あまりにも複雑に絡まり合っていたもの。
『誰にも、どうすることのできないものだ』
紫鬼の言葉が蘇る。
(……誰の手も、届かない)
奈津はそっと手を握った。
まだ、何が違うのかは分からない。
どうすれば、あの光をもう一度出せるのかも。
それでも――。
「……ありがとう、コマ」
「はい!」
沈んでいた心に、温かなものが灯る。
できないと決めつけてしまうには、まだ早い。
(もう少しだけ……やってみよう)
今度は、自分から諦めたくなかった。




