紫鬼様を、助けたい
障子越しに差し込む朝日で、奈津は目を覚ました。
「失礼いたします」
ほどなくして、聞き覚えのある声がした。
見覚えのある女中が、着替えを手に部屋へ入ってくる。
九条家へ向かう日の支度を手伝ってくれた女中だ。
奈津は姿勢を正すと、自分から頭を下げた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
女中が、一瞬だけ奈津を見る。
「……はい」
返ってきたのは、やはり事務的な声だった。
着替えを手伝ってもらい、髪を整えてもらう。
「ありがとうございます」
支度を終えた女中へ頭を下げると、女中は一礼して部屋を出ていった。
奈津はいつものように、朝餉が運ばれてくるのを待った。
やがて別の女中が膳を運んできて、朝餉を終える。
食器まで片づけられると、部屋には再び奈津一人だけが残された。
今日もまた、することがない。
身の回りのことは、すべて女中たちがしてくれる。
客人なのだから何もしなくていいのだろう。
そう分かっていても、奈津にはどうにも落ち着かなかった。
九条家では、朝から晩まで働いていた。
何もしないで過ごすことの方が、かえって苦痛だった。
(せめて、何かお手伝いできないかな……)
しばらく考えた末、奈津は立ち上がった。
◇
屋敷の中を歩いていると、どこからか食欲をそそる匂いが漂ってきた。
匂いを辿っていくと、やがて広い炊事場へ行き着く。
中では何人もの女中たちが忙しなく動き回っていた。
大きな釜から湯気が立ちのぼり、包丁がまな板を叩く音が響いている。
奈津は入口から中を覗き込み、思い切って声をかけた。
「あの……」
数人の女中が振り返る。
奈津の姿を認めた途端、その表情が僅かに硬くなった。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
「……は?」
一人の女中が、あからさまに怪訝な顔をした。
「あ、料理でも、洗い物でも。私にできることでしたら……」
女中たちは顔を見合わせる。
やがて、年嵩の女中が前へ出た。
「必要ございません」
「でも、これだけお世話になっていますし……」
「紫鬼様より、あなた様には客人としてお過ごしいただくよう申しつけられております」
(……客人)
昨日、紫鬼は皆の前で奈津を《花嫁候補》だと告げた。
けれど、この屋敷の鬼たちにとっては、まだ突然入り込んできた人間の娘に過ぎないのだろう。
「どうぞ、お部屋へお戻りください」
丁寧な言葉だった。
けれど、その声音には明らかな距離があった。
「……分かりました」
奈津は小さく頭を下げ、炊事場を後にした。
けれど、部屋へ戻る途中。
廊下の先で、女中たちが洗濯物を畳んでいるのが目に入った。
(これなら……)
奈津はそちらへ向かう。
「あの、よろしければ私も――」
手を伸ばしかけた、その時。
「結構です」
洗濯物が、さっと奈津の手から遠ざけられる。
「お客人にしていただくことではございませんので」
また、その言葉だった。
「……すみません」
奈津は行き場を失った手を、そっと引っ込めた。
結局、何もできないまま部屋へ戻ることになった。
座布団の上へ座り、ぽつんと広い部屋を見渡す。
(何もしなくていいって言われても……)
どうしたらいいのか分からない。
九条家では、働いていることが当たり前だった。
役立たずの自分にできるのは、それくらいしかないと思っていたから。
何かをしていなければ、ここにいてはいけないような気さえしてしまう。
奈津は膝の上で手を握った。
その時、不意に昨日のことを思い出した。
紫鬼の中にあった、膨大な穢れ。
そして――コマの言葉。
『暗くて、苦しくて、誰の手も届かないところにいたぼくに……奈津様の光だけが届いたんです』
奈津は自分の手へ目を落とした。
(何が、違ったんだろう……)
答えは、まだ分からなかった。
◇
その夜、奈津は布団の中で目を開けていた。
昼間ほとんど身体を動かしていなかったせいだろうか。
なかなか眠気が訪れない。
静まり返った部屋で、ふと紫鬼のことを考える。
九重の話では、各地で穢れに呑まれそうな妖が出れば、紫鬼自らそのもとへ赴くことがあるという。
(今日も、どこかへ行っているのかな……)
また誰かの穢れを引き受けているのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
外から、微かな物音が聞こえた。
「……?」
奈津は身体を起こす。
耳を澄ませてみるが、それきり音はしない。
それでも、昨夜のことがあったせいか、妙に胸が騒いだ。
羽織を肩に掛け、そっと障子を開ける。
夜の屋敷はしんと静まり返っていた。
月明かりが、長い廊下を青白く照らしている。
奈津は足音を立てないよう、廊下へ出た。
すると――奥庭の方に、人影が見えた。
月明かりを受けて、白銀の髪が揺れる。
「……紫鬼様」
思わず声が零れた。
紫鬼だった。
どうやら、外から戻ってきたばかりらしい。
けれど、その姿を見た瞬間、胸がざわついた。
顔色が悪い。
これまで奈津が見てきた姿とは違い、足取りもどこか重たげだった。
(やっぱり……)
今日も、誰かの穢れを引き受けてきたのだろうか。
奈津は思わず紫鬼のもとへ向かおうとした。
「何してやがる」
静まり返った夜の廊下に、低い声が割り込んだ。
「……っ!」
奈津はびくりと肩を揺らし、振り返る。
廊下の暗がりに、夜刀が立っていた。
長い黒髪。獣のような金の瞳。
その鋭い視線を向けられただけで、身体が強張る。
「や、夜刀様……」
「こんな時間に、人間がうろちょろしてんじゃねぇ」
「でも、紫鬼様が……」
「お前には関係ねぇ」
取りつく島もない声音だった。
奈津は怯みながらも、奥庭へ視線を戻した。
紫鬼は少し離れた場所から、こちらのやり取りを黙って見ている。
「今日も……穢れを引き受けたのですか?」
奈津は紫鬼へ問いかけた。
その言葉に、夜刀の眉間に深い皺が刻まれる。
「……お前、なんでそれを知ってる」
「九重様から、聞きました」
「九重が……?」
夜刀は忌々しげに舌打ちする。
それでも奈津は、紫鬼から目を離せなかった。
昨日触れた、あの穢れ。
あれにさらに新しい穢れが加わっているのだとしたら――。
奈津は意を決し、庭へ下りようとする。
だが、すぐさま夜刀がその行く手を塞いだ。
「近づくな」
奈津の足が止まる。
金の瞳が、鋭く奈津を睨んでいる。
怖い。初めて会った時、夜刀は迷うことなく奈津の喉元へ刃を突きつけた。
今だって、少しでも妙な真似をすれば何をされるか分からない。
それでも。奈津はぎゅっと手を握った。
「わ、私……諦めません」
「……は?」
夜刀が眉をひそめる。
声を震わせながらも、奈津は続けた。
「紫鬼様は、どうすることもできないから受け入れていると仰いました。でも……」
昨日聞いた声が蘇る。
『誰にも、どうすることのできないものだ』
『……俺はそれを受け入れている』
「苦しいことを、仕方がないって受け入れるしかないのは……」
奈津は一度唇を結んだ。
「とても辛いことだと、私は知っています」
夜刀が黙る。
ほんの一瞬だけ、金の瞳に戸惑いのようなものが浮かんだ気がした。
奈津は、その隙に一歩踏み出した。
「おい……!」
「夜刀」
静かな声が、夜の庭に響いた。
夜刀が振り返る。
「紫鬼様」
「構わん」
「ですが――」
「俺がいいと言っている」
夜刀は納得していない様子で奈津を見る。
それでも主の命令には逆らわず、渋々と脇へ退いた。
道が開く。
奈津は履物を取ることも忘れ、そのまま裸足で奥庭へ下りた。
足裏に触れる夜の冷たさにも構わず、紫鬼の元へ向かう。
月明かりの下、紫鬼の白い顔は昼間よりもさらに青ざめて見えた。
奈津はその前まで辿り着く。
紫鬼は、裸足で駆け寄ってきた奈津を呆れたように見下ろした。
「……諦めの悪いやつだ」
「すみません……」
「なぜ謝る」
「え?」
思わぬ言葉に、奈津は目を瞬いた。
けれど紫鬼はそれ以上何も言わない。
奈津は紫鬼の前に膝をついた。
そして、そっと手を伸ばす。
(今度こそ……)
指先が、紫鬼の手に触れる。
その瞬間――。
「……っ!」
身体の奥まで、一気に引きずり込まれるような感覚に襲われた。
奈津は息を詰める。
苦しい。胸を押し潰されるような圧迫感。
身体の芯まで凍りつくような冷たさ。
かと思えば、皮膚の内側を焼かれているような熱が走る。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
手足から力が抜け、意識まで暗い底へ堕ちていきそうになる。
「……っ、は……」
思わず手を離しかけて、奈津は踏みとどまった。
これは、奈津自身の苦しみではない。
(紫鬼様が……感じているもの……?)
昨日はただ、そこに膨大な穢れがあることしか分からなかった。
今は違う。
触れた手を通して、その穢れが紫鬼の身体をどれほど蝕んでいるのかまで伝わってくる。
しかも、終わらない。
一つの痛みに慣れる間もなく、また別の苦しさが押し寄せる。
逃げることも、吐き出すこともできない。
ただ身体の内側に抱えたまま、耐え続けるしかない。
(これを……ずっと……?)
奈津は息を呑んだ。
ほんのわずかな間触れているだけなのに、逃げ出したくなるほど苦しい。
それなのに紫鬼は、この苦しみを身体の内に抱えたまま生きている。
誰かを救うたび、更に新たな穢れを引き受けながら。
(この人は……ずっと一人で耐えてきたんだ)
「……っ」
その苦しさを、奈津は知っている。
仕方がないと諦めて、ただ耐えるしかない苦しさを。
(……嫌)
奈津は紫鬼の手を握り直す。
自分のことは、どうすることもできなかった。
けれど、もしこの手だけが――誰にも届かなかったこの人の苦しみに、届く可能性があるのなら。
コマの言葉が蘇る。
『暗くて、苦しくて、誰の手も届かないところにいたぼくに……奈津様の光だけが届いたんです』
(誰の手も、届かないところ……)
その時、奈津は気づいた。
あの夜、コマを救った時。
自分は力を使おうなどと考えていなかった。
ただ、助けたいと願っただけだった。
光が出るかどうかも。
自分が本当に《癒し子》なのかも。
今は、どうでもいい。
(助けたい)
奈津は紫鬼の手を、両手で包み込む。
(紫鬼様を、助けたい)
その瞬間――。
奈津の手のひらから、眩い光が溢れた。




