鬼の王に届いた光
眩い光が、夜の奥庭を照らし出した。
「……っ」
夜刀が目を見開く。
奈津の手から溢れ出した光が、紫鬼の身体を包み込んでいく。
白く、柔らかな光。
その光に触れた途端、紫鬼に纏わりついていた黒い穢れが、ゆらりと揺れた。
やがて、絡みついていた黒の一筋がほどけるように薄れ――消える。
まるで闇が朝日に溶かされていくように。
「これは……」
夜刀が呆然と呟く。
紫鬼もまた、驚いたように自らの手へ目を落としていた。
奈津には分かった。
(消えてる……)
今夜、紫鬼が新たに引き受けてきた穢れ。
まだ身体の奥深くへ根づいていなかったそれが、光に包まれ、少しずつ消えていく。
けれど――。
(まだ……)
その奥には、途方もない量の穢れが残っている。
長い年月をかけて蓄積したものまでは、光が届かない。
奈津はさらに力を込めようとした。
「……っ」
途端、全身から力が抜けそうになる。
それでも、手を離したくなかった。
あと少し、もう少しだけ――。
◇
その頃。屋敷の中を歩いていた九重が、不意に足を止めた。
閉ざされた障子の向こうが、白く明るんでいる。
「……この光は」
同じ頃、別の場所にいたコマも弾かれたように顔を上げた。
その瞳が大きく見開かれる。
「奈津様……!」
次の瞬間、コマは駆け出していた。
◇
やがて、光がゆっくりと収まっていく。
奈津は荒い息を繰り返した。
「はぁ……っ、は……」
身体が重い。
全身の力を使い果たしてしまったようだった。
それでも、奈津は紫鬼から手を離すより先に、その顔を見上げた。
先ほどまで青白かった顔に、僅かに血色が戻っている。
「紫鬼様……?」
紫鬼は答えない。
自らの身体に起きた変化を確かめるように、じっと手のひらを見つめている。
そこへ、慌ただしい足音が近づいてきた。
「紫鬼様!」
九重とコマが、奥庭へ駆け込んでくる。
九重は紫鬼を見るなり足を止めた。
普段ほとんど崩れることのない、その表情が変わる。
「紫鬼様……まさか」
「ああ」
紫鬼が短く答える。
「穢れが消えた」
九重が言葉を失った。
夜刀も、まだ信じられないものを見るように奈津を見ている。
「……本当に……?」
コマだけが、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり奈津様です!」
「……でも……」
奈津は紫鬼の手を見つめた。
確かに穢れは減った。けれど、すべてではない。
奥深くに沈んでいるものは、まだそこにある。
「……少ししか、消せませんでした」
その言葉に、紫鬼が奈津を見る。
「違う」
「え……?」
「少しでも消えたことなど、一度もない」
奈津は目を見開いた。
九重も、何も言わない。
ただ、いつも穏やかな微笑みを絶やさないその顔から、完全に笑みが消えていた。
夜刀もまた、信じられないものを見るように奈津を見つめている。
その反応だけで分かった。
今、自分がしたことが――彼らにとって、どれほどあり得ないことだったのか。
「……」
奈津は自分の手へ目を落とした。
ずっと、何の役にも立たないと思っていた手。
「よかった……」
安堵した途端、視界がぐらりと揺れた。
「奈津様?」
コマの声が遠く聞こえる。
身体に力が入らない。
「……っ」
膝から力が抜け、そのまま地面へ崩れ落ちる。
紫鬼の手が、咄嗟に奈津へ伸びた。
「奈津様!」
その時、眩い光が弾ける。
小柄な少年の姿が光に包まれ、その輪郭が大きく変わっていった。
次の瞬間。
奈津の身体を、ふわりと柔らかなものが受け止めた。
「……?」
薄く目を開ける。
淡い乳白色に、蜂蜜を溶かしたような柔らかな毛並み。
すぐそばには、見覚えのある琥珀色の瞳があった。
「……コマ?」
『はい!』
聞き慣れた声が返ってくる。
その姿は、大きな狛犬そのものだった。
『大丈夫です、奈津様。ぼくにつかまってください!』
「コマ……その姿……」
『こっちが本来の姿です!』
どこか誇らしげな声に、奈津の頬が緩む。
力の入らない身体を、コマの柔らかな背へ預ける。
「よかった……」
『え?』
「紫鬼様……少しでも、楽になったなら……」
コマがぱちりと目を瞬いた。
紫鬼も、奈津を見る。自分は立っていることさえできないというのに。
それでも奈津が気にしているのは、自分の身体ではなかった。
夜刀は何も言わない。
ただ、コマにもたれかかる奈津をじっと見つめていた。
自分が倒れるほど力を使っておきながら、真っ先に案じるのは紫鬼のこと。
夜刀の眉間に、僅かに皺が寄る。
その金の瞳には、これまでとは異なる色が浮かんでいた。
「今夜はここまでにいたしましょう」
九重が静かに告げる。
「癒し子様をお部屋へ」
『はい!』
コマが元気よく返事をする。
『奈津様、しっかりつかまっていてくださいね』
「……ありがとう、コマ」
奈津はその毛並みに頬を預けた。
コマがゆっくりと屋敷へ向かう。
夜刀は、その後ろ姿を黙って見送っていた。
ふと、傍らへ視線を向ける。
紫鬼もまた――。
遠ざかっていく奈津の背中を、じっと見つめていた。
◇
翌日、奈津が目を覚ましたのは、いつもよりずっと遅い時間だった。
障子の向こうはすっかり明るくなっている。
「……ん……」
見慣れ始めた天井が目に入り、しばらくぼんやりと見つめて――。
「……あれ?」
奈津は目を瞬いた。
(私、いつの間に……)
身体にはきちんと布団が掛けられている。
昨夜の記憶を辿る。
紫鬼の穢れを消して、急に身体から力が抜けて。
倒れそうになったところを、本来の姿になったコマが受け止めてくれた。
そこまでは覚えている。
『奈津様、しっかりつかまっていてくださいね』
コマの柔らかな毛並みに身体を預けて――。
(……そのあと、どうしたんだっけ)
部屋へ戻ってきたような気はする。
けれど、そこから先の記憶が曖昧だった。
どうやら布団へ入るなり、気を失うように眠ってしまったらしい。
「それほど、力を使っていたんだ……」
奈津は身体を起こす。
途端、全身に残る気だるさに気づいた。
熱はない。けれど、身体の芯から力が抜けてしまったような、妙な重さが残っている。
ぼんやりと自分の手を眺めていると、障子の向こうから声がした。
「奈津様。お目覚めでしょうか」
「は、はい!」
「失礼いたします」
障子が開き、九重が入ってくる。
その手には、小さな椀が載った盆があった。
「お身体はいかがですか?」
「少し身体が重いですけど……もう大丈夫です」
「そうですか」
九重は奈津の傍らへ腰を下ろし、盆を差し出した。
「葛湯です。まずはこちらを」
「ありがとうございます……」
受け取った椀から、ほのかな湯気が立ちのぼっている。
ひと口飲むと、優しい甘さと温かさが喉を通っていった。
「癒し子の力があなたのお身体へどれほどの負担をかけるのか、まだ我々にも分かりません」
九重は奈津の顔を見つめる。
「本日は、安静になさってください」
「でも、もうこれくらいなら――」
「安静に」
「……はい」
にこやかなのに、有無を言わせない。
奈津は大人しく頷いた。
九重が部屋を出ていったあとも、しばらくは言いつけ通り布団の上で過ごしていた。
「……」
落ち着かない。
身体はまだ気だるい。それでも、この程度なら奈津にとって休むほどのものには思えなかった。
九条家にいた頃も、具合が悪いからといって休むことはできなかった。
少しでも休んでいれば怠けていると言われた。
奈津にとっては、多少身体がつらくても動くことの方が当たり前だった。
こうして何もせず横になっている方が、むしろ居心地が悪い。
(それに……これだけお世話になっているのに)
でも昨日は、厨房でも洗濯場でも手伝いを断られてしまった。
(邪魔にならないことで、何か……)
奈津はしばらく考えた末、そっと布団を抜け出した。
◇
人の出入りがほとんどない、屋敷の端の廊下。
奈津は床に膝をつき、雑巾を動かしていた。
ここなら、忙しく働いている女中たちの邪魔にもならない。
誰かの仕事を奪ってしまうこともないだろう。
(これくらいなら……)
そう思って、廊下の隅まで丁寧に拭いていた時だった。
「……お前、何してやがる」
奈津の肩がびくりと跳ねた。
恐る恐る振り返る。
「や、夜刀様……」
夜刀の視線が奈津から、その手に握られた雑巾へ落ちる。
「そ、掃除を……」
「見りゃ分かる」
夜刀は眉間に皺を寄せた。
「お前、昨日ぶっ倒れたばっかだろ」
「でも、もう大丈夫です。少し身体が重いくらいで――」
「それで大丈夫じゃねぇのがお前らひ弱な人間だろうが」
「……え?」
奈津は思わず夜刀を見上げた。
まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。
「でも……これくらいなら、いつも動いていましたから」
「は?」
「熱がある時でも、家のことはしなければなりませんでしたし……」
奈津にとっては、ごく当たり前のことだった。
けれど夜刀は、理解できないものを見るように眉をひそめた。
「……お前、馬鹿なのか?」
「えっ」
「具合悪ぃなら寝てろ」
奈津は目を瞬いた。
具合が悪ければ、休む。
そんな当たり前のことを、自分は今まで誰かに言われたことがあっただろうか。
「……なんだよ」
「いえ……」
奈津は慌てて首を横に振った。
「なんでもありません」
夜刀は訝しげに奈津を見たあと、ふん、と鼻を鳴らした。
「とにかく、妙な真似だけはすんなよ」
「……はい」
「昨日のことで、お前を信用したわけじゃねぇからな」
「分かっています」
奈津が素直に頷くと、夜刀はしばらく黙っていた。
「……人間なんざ、すぐに裏切るからな」
吐き捨てるような声だった。
奈津は目を瞬く。
その言い方が、妙に引っかかった。
「夜刀様……?」
夜刀は、余計なことまで口にしたとでもいうように小さく舌打ちした。
そして、話を切るように奈津の手元へ視線を落とす。
「で、その雑巾はいつまで持ってんだ」
「あ……」
奈津は自分の手を見る。
「もう少しだけ、ここを――」
「寝てろっつってんだろ」
「……はい」
今度こそ奈津は雑巾を置いた。
夜刀はそれを見届けると、背を向ける。
「まったく……わけ分かんねぇ人間だな」
ぼそりと零して、そのまま歩き去っていった。
奈津は遠ざかる背中を見つめる。
『人間なんざ、すぐに裏切るからな』
その言葉だけが、耳に残った。
夜刀がなぜ、あれほど人間を信用していないのか。
奈津には、まだ分からなかった。




