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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第一幕

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12/20

鬼の王に届いた光

 眩い光が、夜の奥庭を照らし出した。


「……っ」


 夜刀が目を見開く。

 奈津の手から溢れ出した光が、紫鬼の身体を包み込んでいく。

 白く、柔らかな光。

 その光に触れた途端、紫鬼に纏わりついていた黒い穢れが、ゆらりと揺れた。


 やがて、絡みついていた黒の一筋がほどけるように薄れ――消える。

 まるで闇が朝日に溶かされていくように。


「これは……」


 夜刀が呆然と呟く。

 紫鬼もまた、驚いたように自らの手へ目を落としていた。

 奈津には分かった。


(消えてる……)


 今夜、紫鬼が新たに引き受けてきた穢れ。

 まだ身体の奥深くへ根づいていなかったそれが、光に包まれ、少しずつ消えていく。

 けれど――。


(まだ……)


 その奥には、途方もない量の穢れが残っている。

 長い年月をかけて蓄積したものまでは、光が届かない。

 奈津はさらに力を込めようとした。


「……っ」


 途端、全身から力が抜けそうになる。

 それでも、手を離したくなかった。


 あと少し、もう少しだけ――。


 ◇


 その頃。屋敷の中を歩いていた九重が、不意に足を止めた。

 閉ざされた障子の向こうが、白く明るんでいる。


「……この光は」


 同じ頃、別の場所にいたコマも弾かれたように顔を上げた。

 その瞳が大きく見開かれる。


「奈津様……!」

 次の瞬間、コマは駆け出していた。


 ◇


 やがて、光がゆっくりと収まっていく。

 奈津は荒い息を繰り返した。


「はぁ……っ、は……」


 身体が重い。

 全身の力を使い果たしてしまったようだった。

 それでも、奈津は紫鬼から手を離すより先に、その顔を見上げた。

 先ほどまで青白かった顔に、僅かに血色が戻っている。


「紫鬼様……?」


 紫鬼は答えない。

 自らの身体に起きた変化を確かめるように、じっと手のひらを見つめている。

 そこへ、慌ただしい足音が近づいてきた。


「紫鬼様!」


 九重とコマが、奥庭へ駆け込んでくる。

 九重は紫鬼を見るなり足を止めた。

 普段ほとんど崩れることのない、その表情が変わる。


「紫鬼様……まさか」


「ああ」


 紫鬼が短く答える。


「穢れが消えた」


 九重が言葉を失った。

 夜刀も、まだ信じられないものを見るように奈津を見ている。


「……本当に……?」


 コマだけが、ぱっと顔を輝かせた。


「やっぱり奈津様です!」


「……でも……」


 奈津は紫鬼の手を見つめた。

 確かに穢れは減った。けれど、すべてではない。

 奥深くに沈んでいるものは、まだそこにある。


「……少ししか、消せませんでした」


 その言葉に、紫鬼が奈津を見る。


「違う」


「え……?」


「少しでも消えたことなど、一度もない」


 奈津は目を見開いた。

 九重も、何も言わない。

 ただ、いつも穏やかな微笑みを絶やさないその顔から、完全に笑みが消えていた。


 夜刀もまた、信じられないものを見るように奈津を見つめている。

 その反応だけで分かった。

 今、自分がしたことが――彼らにとって、どれほどあり得ないことだったのか。


「……」


 奈津は自分の手へ目を落とした。

 ずっと、何の役にも立たないと思っていた手。


「よかった……」


 安堵した途端、視界がぐらりと揺れた。


「奈津様?」


 コマの声が遠く聞こえる。

 身体に力が入らない。


「……っ」


 膝から力が抜け、そのまま地面へ崩れ落ちる。

 紫鬼の手が、咄嗟に奈津へ伸びた。


「奈津様!」


 その時、眩い光が弾ける。

 小柄な少年の姿が光に包まれ、その輪郭が大きく変わっていった。


 次の瞬間。

 奈津の身体を、ふわりと柔らかなものが受け止めた。


「……?」


 薄く目を開ける。

 淡い乳白色に、蜂蜜を溶かしたような柔らかな毛並み。

 すぐそばには、見覚えのある琥珀色の瞳があった。


「……コマ?」


『はい!』


 聞き慣れた声が返ってくる。

 その姿は、大きな狛犬そのものだった。


『大丈夫です、奈津様。ぼくにつかまってください!』


「コマ……その姿……」


『こっちが本来の姿です!』


 どこか誇らしげな声に、奈津の頬が緩む。

 力の入らない身体を、コマの柔らかな背へ預ける。


「よかった……」


『え?』


「紫鬼様……少しでも、楽になったなら……」


 コマがぱちりと目を瞬いた。


 紫鬼も、奈津を見る。自分は立っていることさえできないというのに。

 それでも奈津が気にしているのは、自分の身体ではなかった。


 夜刀は何も言わない。

 ただ、コマにもたれかかる奈津をじっと見つめていた。

 自分が倒れるほど力を使っておきながら、真っ先に案じるのは紫鬼のこと。

 夜刀の眉間に、僅かに皺が寄る。

 その金の瞳には、これまでとは異なる色が浮かんでいた。


「今夜はここまでにいたしましょう」


 九重が静かに告げる。


「癒し子様をお部屋へ」


『はい!』


 コマが元気よく返事をする。


『奈津様、しっかりつかまっていてくださいね』


「……ありがとう、コマ」


 奈津はその毛並みに頬を預けた。

 コマがゆっくりと屋敷へ向かう。


 夜刀は、その後ろ姿を黙って見送っていた。

 ふと、傍らへ視線を向ける。


 紫鬼もまた――。

 遠ざかっていく奈津の背中を、じっと見つめていた。


 ◇


 翌日、奈津が目を覚ましたのは、いつもよりずっと遅い時間だった。

 障子の向こうはすっかり明るくなっている。


「……ん……」


 見慣れ始めた天井が目に入り、しばらくぼんやりと見つめて――。


「……あれ?」


 奈津は目を瞬いた。


(私、いつの間に……)


 身体にはきちんと布団が掛けられている。


 昨夜の記憶を辿る。

 紫鬼の穢れを消して、急に身体から力が抜けて。

 倒れそうになったところを、本来の姿になったコマが受け止めてくれた。

 そこまでは覚えている。


『奈津様、しっかりつかまっていてくださいね』


 コマの柔らかな毛並みに身体を預けて――。


(……そのあと、どうしたんだっけ)


 部屋へ戻ってきたような気はする。

 けれど、そこから先の記憶が曖昧だった。

 どうやら布団へ入るなり、気を失うように眠ってしまったらしい。


「それほど、力を使っていたんだ……」


 奈津は身体を起こす。

 途端、全身に残る気だるさに気づいた。

 熱はない。けれど、身体の芯から力が抜けてしまったような、妙な重さが残っている。

 ぼんやりと自分の手を眺めていると、障子の向こうから声がした。


「奈津様。お目覚めでしょうか」


「は、はい!」


「失礼いたします」


 障子が開き、九重が入ってくる。

 その手には、小さな椀が載った盆があった。


「お身体はいかがですか?」


「少し身体が重いですけど……もう大丈夫です」


「そうですか」


 九重は奈津の傍らへ腰を下ろし、盆を差し出した。


「葛湯です。まずはこちらを」


「ありがとうございます……」


 受け取った椀から、ほのかな湯気が立ちのぼっている。

 ひと口飲むと、優しい甘さと温かさが喉を通っていった。


「癒し子の力があなたのお身体へどれほどの負担をかけるのか、まだ我々にも分かりません」


 九重は奈津の顔を見つめる。


「本日は、安静になさってください」


「でも、もうこれくらいなら――」


「安静に」


「……はい」


 にこやかなのに、有無を言わせない。

 奈津は大人しく頷いた。

 九重が部屋を出ていったあとも、しばらくは言いつけ通り布団の上で過ごしていた。


「……」


 落ち着かない。

 身体はまだ気だるい。それでも、この程度なら奈津にとって休むほどのものには思えなかった。

 九条家にいた頃も、具合が悪いからといって休むことはできなかった。

 少しでも休んでいれば怠けていると言われた。

 奈津にとっては、多少身体がつらくても動くことの方が当たり前だった。

 こうして何もせず横になっている方が、むしろ居心地が悪い。


(それに……これだけお世話になっているのに)


 でも昨日は、厨房でも洗濯場でも手伝いを断られてしまった。


(邪魔にならないことで、何か……)


 奈津はしばらく考えた末、そっと布団を抜け出した。


 ◇


 人の出入りがほとんどない、屋敷の端の廊下。

 奈津は床に膝をつき、雑巾を動かしていた。

 ここなら、忙しく働いている女中たちの邪魔にもならない。

 誰かの仕事を奪ってしまうこともないだろう。


(これくらいなら……)


 そう思って、廊下の隅まで丁寧に拭いていた時だった。


「……お前、何してやがる」


 奈津の肩がびくりと跳ねた。

 恐る恐る振り返る。


「や、夜刀様……」


 夜刀の視線が奈津から、その手に握られた雑巾へ落ちる。


「そ、掃除を……」


「見りゃ分かる」


 夜刀は眉間に皺を寄せた。


「お前、昨日ぶっ倒れたばっかだろ」


「でも、もう大丈夫です。少し身体が重いくらいで――」


「それで大丈夫じゃねぇのがお前らひ弱な人間だろうが」


「……え?」


 奈津は思わず夜刀を見上げた。

 まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。


「でも……これくらいなら、いつも動いていましたから」


「は?」


「熱がある時でも、家のことはしなければなりませんでしたし……」


 奈津にとっては、ごく当たり前のことだった。

 けれど夜刀は、理解できないものを見るように眉をひそめた。


「……お前、馬鹿なのか?」


「えっ」


「具合悪ぃなら寝てろ」


 奈津は目を瞬いた。

 具合が悪ければ、休む。

 そんな当たり前のことを、自分は今まで誰かに言われたことがあっただろうか。


「……なんだよ」


「いえ……」


 奈津は慌てて首を横に振った。


「なんでもありません」


 夜刀は訝しげに奈津を見たあと、ふん、と鼻を鳴らした。


「とにかく、妙な真似だけはすんなよ」


「……はい」


「昨日のことで、お前を信用したわけじゃねぇからな」


「分かっています」


 奈津が素直に頷くと、夜刀はしばらく黙っていた。


「……人間なんざ、すぐに裏切るからな」


 吐き捨てるような声だった。

 奈津は目を瞬く。

 その言い方が、妙に引っかかった。


「夜刀様……?」


 夜刀は、余計なことまで口にしたとでもいうように小さく舌打ちした。

 そして、話を切るように奈津の手元へ視線を落とす。


「で、その雑巾はいつまで持ってんだ」


「あ……」


 奈津は自分の手を見る。


「もう少しだけ、ここを――」


「寝てろっつってんだろ」


「……はい」


 今度こそ奈津は雑巾を置いた。

 夜刀はそれを見届けると、背を向ける。


「まったく……わけ分かんねぇ人間だな」


 ぼそりと零して、そのまま歩き去っていった。

 奈津は遠ざかる背中を見つめる。


『人間なんざ、すぐに裏切るからな』


 その言葉だけが、耳に残った。

 夜刀がなぜ、あれほど人間を信用していないのか。

 奈津には、まだ分からなかった。

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