お姉様が幸せになるなんて、許さない
あの夜から、数日が経った。
それから奈津は、紫鬼が穢れを引き受けて屋敷へ戻るたび、その身を浄めるようになっていた。
力を使う際には、九重や夜刀、コマの誰かが必ず付き添っている。
初めて紫鬼の穢れを浄めた夜は、立っていることさえできなくなるほど消耗した。
けれど何度か繰り返すうちに、奈津も少しずつ力の扱いに慣れてきた。
今では、力を使ったあとに倒れ込むようなこともない。
ただし、奈津が浄められるのは、紫鬼が新たに引き受けた穢れがほとんどだった。
長い年月をかけて身体の奥深くへ根づいたものには、未だ光が届かない。
紫鬼が抱える膨大な穢れは、今もその身に残り続けていた。
この日も奈津は、紫鬼の前に座っていた。
そっと差し出された手へ、自分の手を重ねる。
ずしりと重たい感覚が伝わってきた。
初めの頃なら、それだけで息が詰まりそうになっていた。
けれど今は、慌てない。
奈津は目を閉じる。
(少しでも……楽になりますように)
重ねた手のひらから、淡い光が溢れ出した。
柔らかな光が紫鬼を包み、その日新たに引き受けた穢れが、少しずつ薄れていく。
やがて光が収まった。
奈津は紫鬼の顔を窺う。
先ほどまで青白かった頬に、少しだけ血色が戻っている。
「……よかった」
ほっとして、思わず声が漏れた。
「お前」
「っ、はい」
不意に呼ばれ、奈津は顔を上げる。
紫鬼がこちらを見ていた。
「なぜ、そこまでする」
「……え?」
意味が分からず、奈津は目を瞬いた。
紫鬼は重ねていた手を引く。
「俺の穢れを浄めても、お前に得はない」
奈津は、黙って紫鬼を見つめた。
「それどころか、力を使えばお前自身が消耗する」
責めるような声音ではなかった。
本当に、理解できないのだろう。
「人間のお前が、鬼である俺にそこまでする理由が分からない」
奈津は、すぐには答えられなかった。
確かに、何か見返りがあるわけではない。
堂目道家に認めてもらうためでもない。
花嫁候補として置いてもらうためでもない。
ただ――。
視界の端に、コマの姿が入る。
少し離れた場所では、九重が二人を見守っていた。
この屋敷へ来るまで、奈津にとって妖は、どこか遠く、畏れるべき存在だった。
人より遥かに長く生き、強大な力を持つ者たち。
中でも高位の妖は、人間にとって容易に近づける存在ではない。
その一族へ嫁ぐことを、多くの娘たちが憧れとして語るほどに。
けれど奈津にとっては、憧れよりも畏れの方がずっと大きかった。
「私は……まだ、妖のことをほとんど知りません」
紫鬼は黙って聞いている。
「今だって、畏れを感じることはあります」
奈津は素直にそう告げた。
「でも……」
奈津はコマを見る。
異形化してなお、奈津を傷つけまいとした小さな妖。
そして、紫鬼を見る。
人間である奈津を見捨てなかった。
自ら傷つくことも厭わず、穢れに苦しむ者たちを救い続けている鬼。
「少なくとも、ここで出会った皆さんを、ただ畏れるだけの存在だとは思わなくなりました」
紫鬼の深紫の瞳が、奈津を捉える。
「それに、紫鬼様は私を助けてくださいました」
あの森で、死ぬために捨てられた奈津を、紫鬼は見捨てなかった。
「だからというだけでは、ないんです」
奈津は膝の上で手を握る。
うまく説明できない。
けれど、ひとつだけはっきりしていることがあった。
「私は――」
奈津は、まっすぐ紫鬼を見つめた。
「あなたに、これ以上苦しんでほしくないんです」
部屋の中が静まり返った。
コマも、九重も何も言わない。
紫鬼だけが奈津を見つめている。
その深紫の瞳には、どこか戸惑いにも似た色が浮かんでいた。
「……理解できないな」
それでも、その視線は奈津から逸れなかった。
「……そう、ですよね」
奈津は困ったように眉を下げた。
自分でも、なぜここまで気になるのか、すべてを言葉にできるわけではない。
けれど紫鬼は、それ以上問いただすことはなかった。
しばらく奈津を見つめたあと、短く告げる。
「もういい。今日は休め」
「……はい」
奈津は頭を下げ、立ち上がった。
部屋を出る直前、ふと紫鬼を見る。
彼は何も言わなかった。
ただ、奈津の姿をじっと目で追っていた。
◇
一方、同時刻――九条家。
綾乃が自室へ戻ろうとしていたところへ、聞き慣れた声が追いかけてきた。
「綾乃」
振り返ると、宗一がこちらへ歩いてくるところだった。
「宗一さん」
綾乃は、いつものように柔らかな笑みを浮かべる。
宗一も嬉しそうに表情を緩めると、すっかり恋人にでもなったつもりなのか、当然のように距離を詰めてきた。
腰へ回されかけた腕を、綾乃は笑顔のまま半歩横へずれてかわす。
伸ばされた手が空を切った。
「……綾乃?」
「ごめんなさい。少し疲れていて」
「ああ……そうか」
宗一は不満そうにしながらも、手を引いた。
けれど、その場を離れようとはしない。
「それより……奈津のことなんだが」
綾乃の笑みが、ほんの僅かに固まった。
数日前。
紫鬼に連れられ、奈津がこの家へ戻ってきた翌日。
父・正臣は、綾乃と宗一を呼び出した。
奈津が、二人に縛られて《結界の森》へ捨てられたと訴えている。
本当なのか、と。
もちろん、綾乃は否定した。
奈津は婚姻のことで思い詰め、混乱しているのだと。
自分たちは途中まで一緒にいただけだと。
宗一も、それに話を合わせた。
証拠はない。
父も二人の言葉を完全に信じた様子ではなかったが、それ以上追及することはなかった。
ただ一言。
――堂目道家にこれ以上目をつけられるような真似はするな。
そう釘を刺されただけだった。
「奈津……僕たちのこと、堂目道家当主にどこまで話したんだ?」
宗一の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「さあ?」
綾乃は首を傾げる。
「お父様の前では、森へ連れていかれたことまで話していたでしょう?」
「だから聞いてるんだよ」
宗一が苛立ったように声を低くする。
「あの方に全部知られたら、僕だってただじゃ済まない」
綾乃は、内心で冷めた目を向けた。
今さら、何を怯えているのだろう。
あの時、自らの手で奈津を捨てると決めたくせに。
「大丈夫よ」
綾乃はにこりと笑う。
「今のところ、堂目道家から何か言ってきたわけでもないでしょう?」
「……そうだけど」
「でしたら、そんなに怯える必要はないわ」
優しく宥めるように言うと、宗一はようやく少し肩の力を抜いた。
「……綾乃は強いな」
「そうかしら?」
「ああ」
宗一は、今度こそ親しげに距離を詰める。
「それに僕は、綾乃のためにここまでしたんだ。奈津との婚約も捨てた。森のことだって、綾乃に手を貸した」
まるで、自分が大きな犠牲を払ったとでも言いたげだった。
「だから……そろそろ、僕たちのこともちゃんと考えてくれてるんだよな?」
「私たちのこと?」
「綾乃のところには、今も妖から縁談が来てるんだろ? でも、全部断ってるって聞いた」
宗一の顔に、妙な自信が浮かぶ。
「僕がいるから、他の妖からの縁談も断ってくれているんだろう?」
綾乃は一瞬、言葉を失った。
よくもまあ、そこまで都合よく考えられるものだ。
けれど、表情には出さない。
「……ふふ」
口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「どうでしょうね?」
「綾乃」
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
綾乃は宗一の胸元へそっと手を添え、それ以上近づかないよう押しとどめた。
「私はまだ、いろいろと考えたいの」
「……分かったよ」
宗一は納得しきれない様子だったが、やがて頷いた。
「……分かった。けど、俺は待ってるから」
宗一はそう言い残し、名残惜しそうに部屋を出ていった。
綾乃は笑顔で見送る。
そして、襖が閉じた瞬間。
「……何を勘違いしてるのかしら」
吐き捨てるように呟く。
自分が宗一のために縁談を断っている?
冗談ではない。
宗一そのものが欲しかったわけではない。
奈津から奪いたかっただけだ。
今では、恋人面でまとわりついてくることすら煩わしい。
(そろそろ、どうやって切ろうかしら)
「綾乃」
襖の向こうから、明美の声がした。
「入るわよ」
「お母様?」
明美が、一通の書状を手に部屋へ入ってくる。
その顔はどこか上機嫌だった。
「また縁談のお話が来たの」
「……また?」
綾乃は露骨に顔をしかめる。
「今度はかなり格の高いお家よ。お相手も申し分ない方だそうなの」
明美は嬉しそうに書状を差し出した。
「すぐに決めなくてもいいのだから、お話だけでも聞いてみたら?」
「嫌よ」
綾乃は、書状を見ることすらしなかった。
「でも綾乃。これまでのお話より、ずっと――」
「嫌だと言っているでしょう?」
明美が口を閉ざす。
綾乃の指先が、膝の上で強く握られた。
どれほど位が高かろうと。
どれほど条件のいい相手だろうと。
そんなものは、もう意味がない。
だって――奈津が。
あの、何の力もない出来損ないだったはずの奈津が。
妖の中でも頂点に立つ鬼。
堂目道家当主・紫鬼の《花嫁候補》なのだから。
「どうして私が……」
綾乃の声が震える。
「奈津より格下の相手で、満足しなくちゃいけないの?」
「綾乃……?」
明美が戸惑ったように娘を見る。
「私の方が、ずっと上なのに」
浄化の力も。容姿も。父からの評価も。
ずっと、自分の方が上だった。
奈津は、自分より下にいるのが当たり前だった。
それなのに。
「なんで……」
綾乃は立ち上がった。
次の瞬間。
手近にあった花瓶を掴み、床へ叩きつける。
甲高い音とともに、陶器が砕け散った。
「きゃっ……綾乃!」
「なんで奈津なのよ!」
卓上のものを腕で薙ぎ払う。
「私の方が、ずっと価値があるのに!」
「綾乃、落ち着いて!」
「うるさい!
綾乃は手近にあった香水瓶を掴むと、鏡へ力いっぱい投げつけた。
ガシャン――!
鏡が砕け、細かな破片が鏡台の上へ散る。
肩で息をしながら、綾乃はひび割れた鏡の中の自分を睨んだ。
亀裂によって、顔がいくつにも歪んで映っている。
けれど綾乃の目には、その向こうに奈津の姿が見えるようだった。
以前とは打って変わって上等な着物をまとい、紫鬼の隣に立つ奈津。
「……なんで」
綾乃の唇がわななく。
「……なんで、お姉様なのよ……」
自分の方が、ずっと優れている。
浄化の力も、容姿も、家からの評価も。
ずっと、そうだった。
奈津は自分より下にいて、自分が欲しいと思ったものを奪われる側だった。
それが当然だったのに。
今は――奈津の方が、自分より遥かに上のものを手にしている。
「許さない……」
綾乃は、ひび割れた鏡を睨みつけた。
「お姉様が、私より幸せになるなんて――」
指先が震える。
「絶対に、許さない」




