堂目道家に、人間はいらない
「奈津様、こっちです!」
廊下の先から、コマが嬉しそうに手招きしている。
「待って、コマ。そんなに急いだら転ぶよ」
「大丈夫です!」
元気よく答えるコマにつられ、奈津の頬も緩んだ。
昨日、庭の奥に咲いている花を見せたいと言われていたのだ。
堂目道家へ来たばかりの頃は、屋敷の中を歩くだけでも緊張していた。
今でも鬼たちの視線に居心地の悪さはあるが、コマと一緒にいる時だけは肩の力を抜けるようになっていた。
「もうすぐです! 白くて、小さくて――」
「……随分と馴染んだものだな」
不意に聞こえた声に、奈津の足が止まった。
廊下の先に、二人の若い鬼が立っている。
どちらも堂目道家に仕える従者で、夜刀の下で動いている姿を何度か見かけたことがあった。
二人の冷たい視線が、真っ直ぐ奈津へ向けられる。
「人間風情が、ずうずうしい」
奈津の身体が強張った。
「客人として置かれているだけのくせに、まるで堂目道の一員にでもなったつもりか?」
「私は、そんなつもりでは……」
「なら、少しは身の程を弁えろ」
もう一人が、嘲るように口元を歪める。
「《癒し子》だか何だか知らんが……まさか、本当に紫鬼様の花嫁になれるとでも思っているのか?」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
自分がこの屋敷で歓迎されていないことは分かっていた。
女中たちも礼を失することこそないが、どこか一線を引いている。
あくまで、紫鬼の命で滞在を許された人間。
そう見られていることは、奈津にも伝わっていた。
「堂目道家は、鬼の中でも由緒ある誇り高き一族だ」
「他の妖族とすら、容易に血を交えてこなかった」
男が奈津を見下ろす。
「まして、汚らわしい人間の血を堂目道へ入れるなど――」
「やめてください!」
コマが、奈津を庇うように一歩前へ出た。
「コマ、お前には聞いていない」
「でも、奈津様はぼくを助けてくださったんです!」
コマは小さな身体で二人を睨み返した。
「それだけで、人間に絆されたのか?」
「それだけじゃありません!」
コマの声が廊下に響く。
「奈津様は、紫鬼様のことだって助けてくださっています!」
奈津は息を呑んだ。
「奈津様は……ぼくにとって、大切なお方です!」
迷いのない言葉だった。
こんなふうに誰かが自分の前へ立ち、庇ってくれたことがあっただろうか。
九条家では、責められても黙って耐えるしかなかった。
けれど今は、小さなコマが懸命に自分を守ろうとしてくれている。
「コマ……」
「人間なんぞに随分と懐いたものだな」
一人が吐き捨てる。
「夜刀様が見たら、さぞ――」
「――言葉を慎みなさい」
穏やかな声が、二人の言葉を遮った。
奈津が振り向く。
廊下の向こうから、九重が歩いてくるところだった。
「九重様……」
九重はいつもの微笑みを浮かべたまま、奈津たちのそばで足を止める。
「随分と聞き捨てならない話をしていましたね」
二人は一瞬たじろいだものの、片方が負けじと言い返す。
「我々は、堂目道家のことを思って申し上げているだけです」
「それで、紫鬼様がお決めになった方を侮辱したと?」
二人が押し黙る。
「ですが、この女は人間です」
「見れば分かりますよ」
九重の口元には、変わらず笑みがある。
「問題は、そこではありません」
細められていた瞳が開いた。
深緑の双眸が、二人を射抜く。
「紫鬼様がこの屋敷に置くとお決めになった方です。その方を侮ることは、紫鬼様のご判断を侮ることと同じですよ」
二人の顔が強張った。
「これ以上の無礼は許しません。下がりなさい」
「……っ」
二人は不満を押し殺すように口を結ぶと、九重へ一礼した。
そのまま奈津には目も向けず、足早に立ち去っていく。
角を曲がり、姿が見えなくなると、コマがすぐさま奈津を振り返った。
「奈津様、大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう、コマ」
「当然です!」
コマは胸を張る。
「ぼく、奈津様のこと大好きですから!」
「……!」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、奈津は目を瞬いた。
やがて、頬が自然と緩む。
「……ありがとう」
九重も、そんな二人を穏やかに見守っていた。
◇
「夜刀様」
呼び止められ、夜刀が足を止めた。
振り返った先にいたのは、昼間、奈津へ絡んでいた二人の若い鬼だった。
二人とも普段から夜刀の下で働くことが多く、彼をよく慕っている。
「何だ」
「少々、お話がございます」
「手短にしろ」
夜刀が面倒そうに言う。
二人は顔を見合わせると、声を潜めた。
「やはり、あの人間をこの屋敷に置いておくべきではありません」
夜刀の眉間に皺が寄る。
「堂目道の血に、人間を入れるなど認められません」
「まして、あの女を紫鬼様の花嫁候補にするなど……」
「それを俺に言ってどうすんだ」
二人が一瞬、言葉を失う。
「夜刀様も、あの人間を信用してはいないでしょう?」
その声音には、夜刀も同じ考えだと信じて疑わない響きがあった。
「紫鬼様のお側に人間を置くことを、夜刀様だって快く思ってはいないはずです」
少し前までなら、夜刀も同意していただろう。
けれどこの数日、奈津が何の見返りも求めず、紫鬼の穢れを浄める姿を何度も見ている。
「……紫鬼様がお決めになったことだ」
「え……?」
二人が顔を見合わせる。
「ですが、夜刀様――」
「俺が人間を信用するかどうかと、紫鬼様の命令は別だ」
夜刀は低く言い放った。
「それに――あいつが紫鬼様を害するつもりなら、とっくにやってる」
二人が押し黙る。
「くだらねぇこと考えてねぇで、自分の仕事に戻れ」
それだけ告げ、夜刀は二人の横を通り過ぎていった。
残された二人は、遠ざかる背中を見つめる。
「……夜刀様まで、あの人間を庇うのか」
「違う」
もう一人が、すぐに否定した。
「夜刀様は紫鬼様の側近だ。命に逆らえないだけだ」
「……そう、だよな」
「あれだけ人間を嫌っていた夜刀様が、あんな女を信用するはずがない」
そうでなければ、おかしい。
人間を嫌う夜刀の考えに共感してきたからこそ、二人は彼を慕っていたのだ。
「このままじゃ、あの人間はますます紫鬼様のお側へ入り込むぞ」
「……分かってる」
短い沈黙が落ちる。
やがて、一人が声を低くした。
「なら、俺たちがやるしかない」
「何をするつもりだ?」
「追い出せないなら――自分から出ていきたくなるようにすればいい」
◇
すっかり日が暮れ、屋敷が静けさに包まれた頃。
奈津は一人、長い廊下を歩いていた。
紫鬼は今日も、穢れを引き受けるため屋敷を出ている。
戻るのは、皆が寝静まった頃になるという。
(今日も、無事にお戻りになるといいけれど……)
戻ってきたら、また少しでも穢れを浄めたい。
そんなことを考えながら、自室へ向かっていた。
コマは九重に呼ばれており、今はそばにいない。
角を曲がったところで、背後から声をかけられた。
「癒し子様」
聞き覚えのある声に、奈津は足を止める。
振り返ると、そこにいたのは昼間、奈津へ侮蔑の言葉を投げつけた若い鬼の一人だった。
「……何でしょうか」
奈津の身体が強張る。
けれど男は、昼間とは打って変わって殊勝そうに頭を下げた。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
「え……?」
「少々、言い過ぎました。申し訳ございません」
あまりの変わりように、奈津は戸惑う。
「いえ……」
「お詫びと言っては何ですが、お見せしたいものがあるのです」
「私に、ですか?」
「はい。こちらへ」
男はそう言うと、廊下の奥へ歩き始めた。
奈津はその背中を見つめる。
昼間のことを思えば、ついていくべきではないのかもしれない。
それでも、謝りに来た相手を疑いきれず、奈津はそのあとを追った。
進むにつれ、人の気配がなくなっていく。
灯りも少なく、普段使われている場所とは明らかに様子が違っていた。
「……あの」
奈津は足を緩める。
「どちらへ行くのですか?」
男は答えない。
胸に不安が広がり、奈津が立ち止まった、その時。
背後から足音が聞こえた。
「――ここまで来れば十分だろ」
「……え?」
振り返る。
そこに立っていたのは、昼間のもう一人の若い鬼だった。
いつの間にか、二人に挟まれている。
奈津は息を呑んだ。
先を歩いていた男が振り返る。
先ほどまでの殊勝な表情は、もうなかった。
「本当に、ついてくるとはな」
奈津の顔が強張る。
「……最初から、謝るつもりなどなかったのですか」
「当たり前だろ」
背後の鬼が鼻で笑った。
「少し痛い目に遭わせれば、お前もここから出ていきたくなると思ってな」
「……何を」
奈津が一歩、後ろへ下がる。
その踵が、何もない空間を踏みかけた。
「……っ」
振り返ると、その先には地下へ続く暗い石段があった。
奈津の顔から血の気が引く。
「待ってください。こんなことをして――」
「少し頭を冷やしてこい」
男が鼻で笑う。
「ここに居続けたいなんて、もう思わなくなるだろ」
男が奈津へ近づいてくる。
奈津は咄嗟に身を翻そうとした。
その瞬間。
背中に強い衝撃が走った。
「……っ!」
足元が消える。
奈津の身体は、そのまま暗い石段へ投げ出された。
咄嗟に手を伸ばすが、何にも届かない。
肩を打ち、腕を擦り、何度も身体を石へ打ちつけながら転がり落ちていく。
やがて石段が途切れた。
次の瞬間――。
冷たい水が、全身を呑み込んだ。
「……っ、げほ……!」
濡れた髪が頬に張りつき、水を吸った着物が重く身体にまとわりつく。
足を伸ばすと、どうにか爪先が底へついた。
水は胸元ほどまでだが、地下の冷水はみるみる身体から熱を奪っていく。
「はぁ……っ、は……」
奈津は震える手で、近くの石壁へ縋る。
身体中が痛い。
特に石段へ打ちつけた肩と腕が、じくじくと疼いていた。
それでも、ここから出なければ。
壁へ手をつき、身体を起こそうとした時だった。
「……っ」
足元から、ぞわりと嫌な感覚が這い上がってくる。
冷たさとは違う。
黒い泥が、皮膚の内側へ染み込んでくるような感覚だった。
(これ……)
知っている。
紫鬼に触れた時に感じるものと、よく似ている。
(穢れ……?)
この水に、穢れが澱んでいる。
そう気づいた途端、強い吐き気が込み上げた。
「う……っ」
奈津は口元を押さえる。
頭が重い。
息まで苦しくなっていく。
紫鬼の中にある穢れに触れた時とは、まるで違った。
あの時は、紫鬼の内側にあるものを奈津の力が感じ取っていただけだ。
けれど今は――。
水に混じった穢れが、直接身体を蝕んでいる。
「……っ」
視界が揺れる。
その時、頭上から声が落ちてきた。
「……これで少しは懲りるだろ」
「ああ。この程度なら大したことにはならない」
奈津が顔を上げる。
遥か上の石段に、二人の姿があった。
「行くぞ」
「待っ……」
声を出そうとしても、喉がうまく動かなかった。
二人の足音が遠ざかっていく。
「っ……は……」
石壁へ縋ったまま、荒い息を繰り返す。
(ここから……出ないと……)
水の中にいるだけで、身体がどんどん重くなっていく。
奈津は震える足に力を込め、どうにか立ち上がった。
石壁を伝いながら、石段の方へ進もうとする。
その時だった。
「……っ!」
下腹部に鋭い痛みが走る。
奈津は咄嗟に腹を押さえた。
宗一に蹴られて以来、まだ時折疼いていた場所だ。
転落の衝撃と、冷え切った身体。
そこへ穢れまで入り込んだせいだろうか。
治まりかけていた痛みが、再び強く脈打ち始める。
「ぅ……っ」
膝から力が抜けた。
奈津はその場へ崩れ落ちる。
水が大きく跳ね、冷え切った身体をさらに濡らした。
(駄目……)
ここで倒れてはいけない。
ここから出なければ。
今夜も紫鬼は、誰かの穢れを引き受けて帰ってくる。
きっとまた、苦しんでいる。
(私が……行かなくちゃ……)
そう思うのに、身体が言うことをきかない。
奈津の瞼が、ゆっくりと落ちていく。
やがて――。
冷たい水の音さえ、遠ざかっていった。




