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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第二幕

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15/18

傷だらけでも、あなたのもとへ

 堂目道家の屋敷に、紫鬼が戻っていた。


「紫鬼様!」


 九重が駆け寄る。

 その表情が、紫鬼の姿を認めた途端に強張った。


「……紫鬼様」


 白銀の髪は乱れ、もともと青白い顔からは、さらに血の気が失せている。

 何より異様なのは、その身を覆う穢れだった。

 黒い靄が全身から立ちのぼり、抑え込むことすらできないのか、足元へ絶え間なく零れ落ちている。


 紫鬼が一歩、足を踏み出す。

 その身体が大きく揺れた。


「……っ」


 九重が咄嗟に腕を支える。


「触るな」


「そのお身体で何を仰います」


 紫鬼は九重の手を振り払おうとしたものの、その動きにもいつもの力はなかった。

 呼吸は浅く、額には薄く汗が滲んでいる。

 それでも何事もないかのように、背筋を伸ばそうとしていた。


「……随分とお早いお戻りで」


「……ああ」


 掠れた声で、紫鬼は短く答える。


「どれほど引き受けられたのです」


「大したことではない」


「そのお姿で言われましても、説得力がございませんよ」


 九重は小さく息を吐くと、すぐに周囲へ目を向けた。


「癒し子様を。急いでください」


「はい」


 そばに控えていた鬼が頭を下げ、奈津を呼びに向かう。

 その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。


「紫鬼様!」


 駆けてきたコマが、紫鬼の姿を見た途端に息を呑む。


「……そんな……」


 その後ろから、夜刀も姿を現した。


「紫鬼様……!」


 夜刀の表情が険しくなる。


 紫鬼は柱へ手をついた。

 その指先が、僅かに震えている。

 九重はそれを見逃さなかったが、何も言わなかった。

 今は、奈津を呼ぶのが先だ。


 ところが――。

 しばらくして戻ってきた鬼の顔には、困惑が浮かんでいた。


「九重様」


「癒し子様は?」


「それが……お部屋にいらっしゃいません」


 九重の表情が変わる。


「……いない?」


「はい。お部屋にも、その周辺にもお姿がなく……」


 紫鬼が僅かに顔を上げた。


「いつからいない」


「それが……」


 鬼が言葉に詰まる。


 いつの間にか、周囲には何人もの鬼が集まっていた。

 紫鬼が穢れを引き受けていることは知られていても、その直後の姿を目にする者は少ない。

 紫鬼が屋敷へ戻るのは、皆が寝静まった頃になることがほとんどで、いつも翌朝には、何事もなかったかのように当主として振る舞っているからだ。


 だからこそ。

 全身から黒い穢れを滲ませ、柱に身体を預ける紫鬼の姿に、鬼たちは息を呑んでいた。


「紫鬼様が、あんな……」


 誰かが呆然と呟く。


「九重様、紫鬼様は……」


「心配はいりません」


 九重はそう答えたものの、その表情からいつもの余裕は消えている。


「とにかく、癒し子様を探してください」


 その言葉に、周囲がざわめいた。


「……もしかすると、屋敷を出られたのではありませんか?」


 一人の若い鬼がおずおずと口を開く。

 昼間、奈津を嘲っていた二人のうちの一人だった。


「……今、何と?」


 九重の視線が向けられる。

 若い鬼は一瞬怯んだものの、続けた。


「所詮は人間です。紫鬼様をお救いすると口では言っていても、いざ責を負うとなれば怖気づいたのかもしれません」


 もう一人も焦ったように続ける。


「肝心な時に姿を消すような者を、紫鬼様のお側に置いておく必要など――」


「奈津様は――!」


 コマが声を上げかけた、その時。


「黙れ」


 低い声が落ちた。

 ざわめきが、一瞬で消える。


 紫鬼がゆっくりと顔を上げた。

 顔色は青白く、立っていることすら辛いはずなのに、その深紫の瞳だけは鋭さを失っていない。


「あれは、そんなことで投げ出す女ではない」


「……っ」


 二人の若い鬼が息を呑む。


 九重も紫鬼を見る。

 この数日、紫鬼は奈津が何度も自分の穢れに触れる姿を見てきた。

 どれほど苦しさを感じ取ろうと、自ら手を離したことは一度もない。


「屋敷の者をすべて動かせ」


「紫鬼様、ですがお身体が――」


「俺のことはいい」


 紫鬼の声が低くなる。


「――必ず見つけ出せ」


「奈津様……!」


 真っ先に動いたのはコマだった。

 いても立ってもいられないように身を翻し、そのまま廊下の向こうへ駆けていく。


「ぼく、探してきます!」


 九重もすぐに周囲へ指示を飛ばした。


「屋敷の内外を手分けして探してください。見つけ次第、すぐに知らせるように」


「はい!」


 鬼たちが一斉に散っていく。


 その中で、夜刀だけは動かなかった。

 視線の先にいるのは、昼間奈津を追い出すよう進言してきた二人の若い鬼。

 他の者たちが慌ただしく動き始める中、二人だけが落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。

 夜刀の目が細められた。


「……お前ら」


 二人の肩が跳ねる。


「何か知ってんな?」


「な、何を……」


「とぼけんな」


 夜刀が一歩詰め寄る。


「お前ら、あいつに何しやがった」


「……っ」


 その反応だけで十分だった。

 夜刀は一人の胸倉を掴み上げる。


「どこだ」


「……」


「どこにやった」


 低い声に、二人の顔から血の気が引いていく。


「ち、地下水路です……!」


 夜刀の表情が消えた。


「……地下水路?」


「た、ただ少し懲らしめようとしただけで……! 大した害もない場所ですし――」


「馬鹿野郎!」


 怒声が響き渡った。

 びり、と空気が震えるほどの妖気が夜刀から噴き上がる。

 二人が怯えたように身を竦めた。


「あそこは穢れが溜まる場所だぞ! 鬼ならまだしも、人間が落ちたらどうなるかも分かんねぇのか!」


「そ、そんな……」


「俺たちは、そこまでとは……」


 夜刀の表情が険しくなる。


「知らなかったで済むと思ってんのか」


 低い声に、二人が息を呑む。

 夜刀は掴んでいた鬼を乱暴に突き放した。


「そこ動くな。後で話は聞く」


 吐き捨てるなり、地下水路へ向かって駆け出した。


 ◇


「奈津様!」


 同じ頃、コマも屋敷中を駆け回っていた。


「奈津様ー!」


 部屋にもいない。

 厨房にも、洗濯場にもいない。

 奈津が行きそうな場所を、思いつく限り探した。


「どこにいるんですか……」


 コマは足を止め、すん、と鼻を鳴らして奈津の匂いを探す。

 人間である奈津の匂いなら、鬼ばかりの屋敷の中では見つけやすいはずだった。


 けれど――。


「……分からない」


 何度確かめても、いつもの匂いをうまく捉えられない。


「奈津様……」


 胸に不安が募る。

 それでも諦めず廊下を駆けていた、その時。


「……あれ?」


 コマが足を止めた。

 床に、小さな染みが落ちている。

 しゃがみ込み、覗き込む。


「水……?」


 その先にも一滴。

 さらに向こうにも、ぽつりと落ちていた。

 まるで、ずぶ濡れの誰かが歩いたあとに残されたように。

 コマの琥珀色の瞳が大きく見開かれる。


「……奈津様?」


 水滴は、廊下の奥へと続いていた。


「奈津様!」


 コマは弾かれたように駆け出した。


 ◇


 夜刀は地下水路へ向かっていた。


(くそ……!)


 あそこに溜まる穢れは、鬼にとっては大したものではない。

 だが、人間は違う。

 どれほどの間、水に浸かっていたのか。


 夜刀はさらに足を速める。


「夜刀様!」


 廊下の先から、コマが駆けてきた。


「コマ?」


「こっちです!」


 コマが焦った様子で床を指差す。


「水が……地下水路の方から、ずっと続いてるんです!」


 夜刀が目を落とした。

 ぽつり、ぽつりと残された水滴。

 確かに、地下水路のある方角から続いてきている。


「……あいつか」


 二人は水滴を辿って駆け出した。

 そして、角を曲がった先で――。


「……!」


 夜刀の足が止まる。


「奈津様!」


 コマの悲鳴にも似た声が響いた。

 壁に手をつき、覚束ない足取りで歩いてくる人影があった。


 全身ずぶ濡れだった。

 長い黒髪は頬や首筋に張りつき、着物からは歩くたびに水が滴っている。

 手も膝も傷だらけで、顔からは血の気が失せていた。


 それでも奈津は、自分の足でここまで戻ってきていた。


「奈津様!」


 コマが駆け寄る。

 その声に、奈津がゆっくりと顔を上げた。


「……コマ……?」


 続いて、その後ろにいる夜刀へ目を向ける。


「夜刀、様……」


 二人の姿を認めた途端、張り詰めていた糸が切れたように身体が傾いた。


「おい!」


 夜刀が咄嗟に踏み込み、その身体を受け止める。

 腕に伝わってきた冷たさに、夜刀の顔色が変わった。


「冷てぇ……」


 人間の身体とは思えないほど、冷え切っている。


「奈津様……!」


 コマが泣きそうな顔で奈津を覗き込む。


「お前……一人でここまで来たのか?」


 奈津は答えようとしたものの、激しく咳き込んだ。


「げほっ……けほ……!」


「もういい。喋んな」


 夜刀は奈津の身体を支え直す。


「コマ、九重を呼んでこい」


「はい!」


「……待って、ください」


 弱々しい声が、二人を止めた。


「何だ」


 奈津の手が、夜刀の袖を掴む。


「紫鬼様は……」


 夜刀の表情が僅かに強張る。


「もう……お戻りですか?」


「……ああ」


 奈津の瞳が揺れた。


「だったら……行かなくちゃ……」


 夜刀の腕から離れようとする。


「おい」


「紫鬼様の、ところへ……」


 けれど足に力が入らず、身体が再び傾く。

 夜刀が支え直した。


「馬鹿言ってんじゃねぇ」


 夜刀の声が荒くなる。


「自分がどんな状態か分かってんのか。穢れにやられて、まともに立ててもいねぇだろ」


「でも……」


「でもじゃねぇ。まず自分のこと考えろ」


「そうです!」


 コマも必死に訴える。


「奈津様、今は休んでください。紫鬼様だって、こんな奈津様を見たら――」


 奈津は唇を噛んだ。


「……紫鬼様は、大丈夫なのですか?」


 夜刀は答えなかった。

 コマも言葉を詰まらせる。

 その沈黙だけで、奈津には十分だった。


「……やっぱり」


「おい」


「連れていってください」


「は?」


「紫鬼様のところへ」


 夜刀の眉間に深い皺が刻まれる。


「……自分がこんな目に遭ってまで、まだ紫鬼様の心配かよ」


 奈津は一瞬、言葉に詰まった。


「……今日も、誰かを助けるために穢れを引き受けたんですよね」


 夜刀が黙る。


「だったら……放っておけません」


 掠れた声で、奈津は続けた。


「紫鬼様が苦しんでいるのに、私なら少しでも楽にしてあげられるのに……何もしないなんて、できません」


 奈津は夜刀を見上げる。

 その瞳には、迷いがなかった。


「お願いします。紫鬼様のところへ、連れていってください」


 夜刀は何も言わず、奈津を見つめた。

 その表情に、これまでにはなかった戸惑いが浮かぶ。

 自分が傷つき、まともに立つことさえできないというのに、奈津が案じているのは紫鬼のことばかりだった。


「……ほんっと、わけ分かんねぇ人間だな」


 夜刀が、絞り出すように零す。

 それ以上の言葉は、出てこなかった。


「コマ、先に戻れ。紫鬼様と九重に、見つけたって伝えろ」


「分かりました!」


 コマは頷いたものの、心配そうに奈津を見る。


「奈津様……」


「だい、じょうぶ。心配してくれて、ありがとう」


「……すぐ戻りますから!」


 コマはそう言い残し、駆け出した。


「乗れ」


 夜刀が奈津へ背を向け、その場にしゃがみ込む。


「……え?」


「紫鬼様んとこ行くんだろ」


 奈津が目を見開く。


「その足じゃ、いつ着くか分かんねぇ。さっさと乗れ」


「……はい」


 奈津はおずおずと、夜刀の背へ身体を預けた。


「ありがとうございます、夜刀様」


「……礼はいい」


 夜刀は奈津の腕を自分の肩へ回させ、その脚をしっかりと抱える。


「力入んなくてもいい。落とさねぇ」


「……はい」


 夜刀は奈津を背負って立ち上がった。

 濡れた着物越しに伝わる冷たさに、眉を寄せる。

 背中に感じる呼吸も、ひどく弱い。


 夜刀は奈津を支える腕に力を込め、紫鬼のもとへ急いだ。


 ◇


 その頃、紫鬼は自室へと運ばれていた。


 脇息に身体を預け、浅い呼吸を繰り返している。

 横になるよう九重に再三言われても、頑として聞かなかった。

 全身から滲む黒い穢れは、未だ収まる気配がない。


「紫鬼様!」


 そこへ、コマが勢いよく駆け込んできた。

 傍らに控えていた九重が振り返る。


「コマ。癒し子様は?」


「見つかりました!」


 その言葉に、張り詰めていた空気が緩む。

 しかし、コマの表情は晴れなかった。


「でも……奈津様、すごく弱ってて……」


「何?」


 九重の顔色が変わる。

 紫鬼もゆっくりと顔を上げた。


「どういうことだ」


「全身びしょ濡れで、怪我もしてて……夜刀様が今、こちらへ連れてきてくださっています」


 その時。

 廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。


「どけ!」


 夜刀の声が響く。

 勢いよく障子が開いた。


「紫鬼様」


 現れた夜刀の背には、奈津がいた。


「……!」


 九重が息を呑む。

 紫鬼の深紫の瞳も、大きく見開かれた。


 奈津の黒髪は濡れて頬に張りつき、着物も水を吸って身体へまとわりついている。

 手や膝には擦り傷があり、顔にはほとんど血の気がなかった。


「癒し子様……!」


 九重が駆け寄る。


「一体、何があったのです」


「地下水路に落とされてた」


 夜刀が低く答える。


「穢れにもやられてる」


「地下水路に……?」


 九重の声から、いつもの穏やかさが消えた。


「急いで湯の準備を。身体を温めて――」


 九重が周囲へ指示を飛ばす。

 その中で奈津は、夜刀の背から紫鬼へ視線を向けた。

 そして初めて、今の紫鬼の姿をまともに目にする。


「……っ」


 奈津の顔が強張った。

 全身に纏わりつく黒い穢れ。

 白銀の髪の隙間から覗く顔は青白く、脇息へ身体を預けていなければ、座っていることすら難しそうだった。


「そんな……」


 奈津の指先が震える。


「癒し子様、今はあなたの治療が先です」


 九重が奈津へ手を伸ばす。


「……待ってください」


「ですが」


「紫鬼様を、先に」


 その場が静まり返った。

 紫鬼の眉間に皺が寄る。


「人間」


 奈津が顔を上げる。


「今のお前に力を使わせるつもりはない」


「でも……」


「自分の姿を見ろ」


 弱っているにもかかわらず、拒絶だけははっきりしていた。


「その状態で俺の穢れに触れれば、どうなるか分からん」


 奈津は唇を結ぶ。


「それでも……」


「やめろ」


 紫鬼が言い切る。

 けれど奈津は、視線を逸らさなかった。


「紫鬼様も、苦しいのでしょう?」


「俺はいい」


「よくありません」


 思いのほか強い声が出た。

 紫鬼が僅かに目を見開く。


「今までずっと、そうやって我慢してきたのでしょう?」


 紫鬼は唇を引き結んだ。


「誰かを救うたびに、ご自分だけが苦しんで」


 九重が僅かに目を伏せる。


「でも、今は私がいます」


 奈津は震える手を伸ばした。

 けれど、その手は紫鬼には届かない。

 今の奈津には、あと数歩を歩く力さえ残っていなかった。


「私にできることがあるのなら、させてください」


 紫鬼は黙ったまま、その手を見つめる。

 傷だらけで、震えている手。

 それでも奈津は、引っ込めようとしなかった。


 長い沈黙のあと。

 紫鬼が脇息から身体を起こした。


「紫鬼様」


 九重の制止も構わず、紫鬼は立ち上がった。

 一歩踏み出すたびに身体が揺れる。

 それでもふらつく足を止めず、奈津の前まで辿り着いた。


「……本当に」


 紫鬼が低く呟いた。


「理解できない人間だ」


 そして、自ら奈津の手を取った。


 その瞬間――眩い光が弾けた。


「……っ!」


 奈津の身体が大きく震える。

 これまでとは比べものにならないほど強い光が、二人の繋いだ手から溢れ出した。

 白い光は瞬く間に紫鬼の腕を伝い、その全身を包み込んでいく。


「これは……」


 九重が目を見開く。


 紫鬼の身体に纏わりついていた黒い穢れが、光に触れた途端、激しく揺らめいた。

 幾重にも絡みついていた黒が、一筋ずつほどけていく。

 今夜新たに引き受けた穢れが、白い光の中へ溶けるように消えていった。


 けれど――。


「……っ、ぅ……」


 奈津の喉から苦しげな声が漏れる。

 胸の奥が焼けるように熱い。

 地下水路で身体へ入り込んだ穢れが、内側から暴れ回っているようだった。


 息を吸うたびに肺が軋む。

 それでも奈津は、紫鬼の手を離さなかった。


「人間」


 紫鬼が眉を寄せる。

 奈津の顔から、みるみる血の気が失われていく。


「もういい。手を離せ」


「まだ……です……」


「十分だ」


 奈津には分かる。

 今日、紫鬼が引き受けた穢れが、まだ残っている。


 あと少し。

 もう少しだけ――。


「やめろ」


 紫鬼の声が強くなる。


「これ以上は許さない」


 奈津は小さく首を振った。


「……大丈夫、です」


「嘘を言うな」


 間髪を入れず返ってきた。

 その声には、これまで聞いたことのない焦りが滲んでいる。


「紫鬼様こそ……」


 奈津は掠れた声で言う。


「いつも、大丈夫ではないのに……大丈夫なふりをしているではありませんか」


 紫鬼の瞳が揺れた。


 奈津は目を閉じる。

 そして、残された力を振り絞った。


 白い光が一際強く輝く。

 紫鬼の全身を覆っていた黒い穢れが、光の中で激しく揺らめいた。


 やがて――ふっと、光が収まる。


 静寂が戻った。


 紫鬼がゆっくりと息を吐く。

 先ほどまで浅かった呼吸が、明らかに落ち着いていた。

 青白かった顔にも、僅かに血色が戻っている。

 今夜新たに引き受けた穢れは、ほとんど消えていた。


「紫鬼様……」


 九重の声に、安堵が滲む。

 奈津もぼんやりと紫鬼を見上げた。

 先ほどまで苦痛に歪んでいた顔が、少しだけ穏やかになっている。


「……よかった……」


 奈津の唇に、微かな笑みが浮かぶ。


「紫鬼様……楽に、なった……?」


「おい」


 紫鬼の表情が変わった。

 奈津の身体から、完全に力が抜ける。


「奈津様!」


 コマの声が響く。

 夜刀が咄嗟に手を伸ばす。


 けれど、それより早く。

 紫鬼が奈津の身体を抱き留めていた。

 奈津の頬が、紫鬼の胸元へ触れる。


「人間」


 頭上から声がする。

 けれど、返事をする力がない。


 奈津は重たい瞼を僅かに持ち上げた。

 ぼやけた視界の向こうに、白銀の髪と深紫の瞳が見える。

 その瞳には、これまで見たことのない焦りが滲んでいた。


(紫鬼様……)


 瞼が落ちる。


「――奈津」


 低い声が、耳に届いた。

 遠のく意識の中で、確かに自分の名を聞いた。


 今、紫鬼様が――。

 そう思ったところで、奈津の意識は深い闇へ落ちていった。

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