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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第二幕

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16/18

初めて、名前を呼ばれて

 柔らかな光が、閉じた瞼の向こうから差し込んでいた。


「……ん……」


 奈津はゆっくりと目を開ける。

 見慣れ始めた天井が視界に入った。

 身体には温かな布団が掛けられ、枕元には薬草のような淡い香りが漂っている。


「……ここ……」


 自分の部屋だ。

 そう気づくと同時に、昨夜の記憶が少しずつ蘇ってくる。

 地下水路へ落とされ、穢れに侵されながらも、どうにか屋敷へ戻った。

 そのあと、紫鬼の穢れを浄め――そこから先の記憶は途切れている。


 ただ、ひとつだけ。


『――奈津』


 意識を失う直前。

 確かに、自分の名を呼ばれた気がした。

 あれは、紫鬼の声だった。


(……でも)


 あの時は意識も朦朧としていた。

 もしかすると、夢だったのかもしれない。


 ぼんやりと考えていると、障子の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。


「奈津様!」


 勢いよく障子が開く。


「コマ……?」


「よかったぁ……!」


 コマは今にも泣き出しそうな顔で、枕元へ駆け寄った。


「全然起きないから、ぼく……っ」


「ごめんね。心配かけちゃったね」


 奈津が手を伸ばすと、コマはその手へ頬を寄せる。

 その温もりに、奈津の頬も緩んだ。


「もう、大丈夫だよ」


「本当ですか?」


「うん。まだ少し身体は痛いけど……」


「それを大丈夫とは言いませんよ」


 穏やかな声が割って入る。


「九重様」


 九重が部屋へ入ってきた。

 手には、湯気の立つ椀が載った盆を持っている。


「昨日の今日なのですから、まだ安静になさってください」


「でも……」


「掃除も、お手伝いも禁止です」


 先回りされ、奈津は目を瞬いた。


「……どうしてそれを?」


「夜刀から聞きましたよ。以前、私が安静にするよう申し上げたそばから、掃除をしていたそうですね」


 奈津は気まずそうに視線を落とす。

 その様子に、コマがくすくすと笑った。


「今回は大人しく休んでいてくださいね」


「……はい」


 九重は奈津へ椀を差し出す。


「まずはこちらを。身体を温める薬湯です」


「ありがとうございます」


 両手で受け取り、一口飲む。

 じんわりとした温かさが、冷えの残る身体へ染み込んでいった。

 そこで、ふと思い出す。


「……あの」


「はい」


「紫鬼様は……?」


 九重の表情が和らぐ。


「ご心配には及びません。昨夜、奈津様が浄めてくださったおかげで、今朝には随分と回復されました」


「……よかった」


 安堵の息が零れる。


 その時だった。廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった。

 奈津は顔を上げる。


「何か……あったのですか?」


 九重とコマが視線を交わした。

 その様子に、奈津の胸がざわつく。

 やがて九重が口を開く。


「昨夜、奈津様を地下水路へ落とした者たちについて、これから処分が下されます」


 奈津の指が止まった。


「……処分?」


「はい」


 あの二人の顔が脳裏に浮かぶ。

 冷たい水。身体の中へ入り込んでくる穢れ。遠のいていった意識。

 無意識に、奈津の手へ力が入った。


 ◇


 堂目道家の広間には、重苦しい空気が張りつめていた。

 屋敷に仕える鬼たちが集められ、誰もが口を閉ざして上座を見つめている。


 その中央。奈津を地下水路へ突き落とした二人の若い鬼が、床へ跪いていた。

 上座には紫鬼が座している。

 昨夜に比べれば顔色は戻っているものの、その表情には一切の温度がない。

 少し離れたところには、夜刀が立っていた。


 やがて、紫鬼が口を開く。


「……申し開きは」


 低い声が、広間に響く。

 二人の肩が震えた。


「も、申し訳ございません……!」


「殺すつもりなどなかったのです! ただ、あの人間を少し懲らしめれば、屋敷を出ていくのではないかと……!」


 紫鬼の瞳が、冷たく二人を見下ろす。


「殺すつもりがなければ許されると?」


「……っ」


「結果として、あれは命を落としかけた」


 怒鳴り声ではない。

 それなのに、広間にいる誰もが息を潜めている。


「あれは、俺がこの屋敷に置くと決めた者だ」


 二人の頭が、さらに低くなる。


「俺の許しなく手を出し、その命を危険に晒した。それだけで十分だ」


「紫鬼様……」


「己の狭量な感情だけで、勝手な真似をした。その意味が分からぬほど愚かでもあるまい」


「も、申し訳……」


「謝罪で済むことではない」


 紫鬼の周囲から、重い妖気が滲み出す。

 二人の顔から血の気が失せた。

 その時、夜刀が一歩前へ出る。


「紫鬼様」


 紫鬼の視線が向く。

 夜刀はその場へ膝をつき、頭を下げた。


「こいつらは俺の下で動いていた連中です。部下を抑えられなかったのは、俺の失態です」


「夜刀様……!」


 二人が顔を上げる。


「どんな処分でも受けます」


 紫鬼はしばらく夜刀を見据えていた。


「お前にも責はある」


「……はい」


「その処分は、後ほど別に下す」


 夜刀は黙って頭を下げた。

 紫鬼の視線が、再び二人へ戻る。


「だが、それでお前たちの罪が軽くなるわけではない」


 身動きひとつ取れない二人を、冷え切った眼差しで見下ろす。


「その命で、償え」


「……!」


 二人の顔が絶望に染まった。


「お、お待ちください……!」


「紫鬼様、どうかお慈悲を……!」


 紫鬼の表情は動かない。


「連れていけ」


 控えていた鬼たちが、二人へ近づく。


「待ってください……!」


 不意に響いた声に、広間の空気が止まる。

 一斉に向けられた視線の先――入口に、奈津が立っていた。


「奈津様!?」


 コマが目を見開く。

 その後ろから追ってきた九重が、困ったように息を吐いた。


「ですから、お休みになってくださいと……」


「すみません……」


 奈津はゆっくりと広間へ足を踏み入れる。

 まだ顔色は悪い。身体にも重さが残り、足元も覚束ない。

 紫鬼の眉間に皺が寄った。


「なぜ起きている」


「……声が聞こえて」


「部屋へ戻れ」


「でも――」


「昨日あれほどの状態になったばかりだろう」


 強い声音に、奈津の肩が揺れる。

 それでも、二人へ視線を向けた。


 目が合った瞬間、身体が強張る。


 冷たい水の感触が蘇った。

 死ぬのではないかと思うほど苦しく、怖かった。

 今だって、その恐怖が消えたわけではない。


 奈津は胸元で手を握った。


「その方たちへの罰を、なくしてほしいとは申しません」


 二人が弾かれたように顔を上げる。


「したことが許されることではないのも、分かっています」


 奈津は一度、息を整えた。


「でも……死罪だけは、お考え直しいただけませんか」


 広間がざわめく。

 夜刀が険しい顔で奈津を見つめる中、紫鬼だけは表情を変えなかった。

 ただ、その深紫の瞳が、奈津の真意を探るようにじっと向けられる。


「そいつらは、お前を殺しかけたんだぞ」


「……はい」


「それでも命を助けろと?」


 奈津は少しだけ間を置き、頷いた。


「はい」


「なぜだ」


 奈津は紫鬼を見つめた。


「……紫鬼様は、妖の皆様を守るために、ずっとご自分を犠牲にしてこられたのでしょう?」


 紫鬼は黙っている。


「どれほど苦しくても、誰かを救えるならと……その身に穢れを引き受けて」


 誰よりも、この屋敷にいる者たちを守ろうとしている——だからこそ。


「そんな紫鬼様が、ご自分で守ってきた方の命を奪うのは……きっと、お辛いと思うんです」


 紫鬼の瞳が揺れた。


「……俺が?」


「はい」


「お前を殺しかけた者だぞ」


「それでもです」


 奈津は迷わず答えた。


「この方たちを許したわけではありません」


 二人の若い鬼が息を呑む。


「怖かったことも、苦しかったことも忘れられません」


 奈津は、まっすぐ紫鬼を見上げた。


「それでも……私は、紫鬼様にも、これ以上苦しんでほしくありません」


 紫鬼が言葉を失った。

 広間もまた、静まり返る。


 妖を守るために、自ら傷つき続けてきた紫鬼。

 だからこそ今度は、その手で守ってきた命まで奪ってほしくなかった。


「……甘いな」


 紫鬼は奈津を見つめたまま、低く言葉を落とした。


「そう……かもしれません」


「その甘さが、いつかお前自身を殺すぞ」


 奈津は一瞬、言葉を詰まらせた。

 それでも、目を逸らさない。


 長い沈黙の後。

 紫鬼を取り巻いていた妖気が、ゆっくりと収まっていった。


「……分かった」


 奈津が顔を上げる。


「死罪は取り消す」


「……!」


 跪いていた二人も、信じられないように顔を上げた。

 奈津の表情に安堵が浮かぶ。

 けれど紫鬼は、冷たい眼差しを二人へ向けた。


「勘違いするな。罪を許したわけではない」


「……っ」


「今後、この屋敷への出入りを禁ずる。二度と俺の前へ姿を見せるな」


 二人が息を呑む。

 誇り高き堂目道家に仕える者にとって、その一員である資格を失うことは重い処分だった。


「異論は」


「……ございません」


 二人は深く頭を下げる。

 やがて、奈津へ向き直った。


「……癒し子様。申し訳、ございませんでした」


 奈津はすぐには答えなかった。

 二人を見つめたあと、ゆっくりと頷く。


「……もう、同じことはしないでください」


「はい……」


 二人は連れられ、広間をあとにした。

 奈津はその背中が見えなくなるまで見送る。

 その途端、膝から力が抜けかけた。


「奈津様!」


 コマが声を上げるより早く、倒れかけた奈津の腕を誰かが掴んだ。

 はっと顔を上げると、すぐそばに紫鬼がいる。


「だから、休んでいろと言った」


「……すみません」


「謝るくらいなら、最初から言うことを聞け」


「はい……」


 奈津が小さく肩を縮めると、紫鬼はその身体を支えたまま、九重へ視線を向けた。


「九重」


「はい」


「奈津を部屋へ」


「……!」


 奈津は思わず紫鬼を見上げた。

 今度は、聞き間違いではない。

 確かに紫鬼が、自分の名を呼んだ。


 その視線に気づいた紫鬼が、訝しげに眉を寄せる。


「何だ」


「……いえ」


 奈津は慌てて首を振った。

 何だか、胸の奥が妙に落ち着かない。


 昨夜、意識を失う直前に聞いた、あの声。

 あれも、きっと――。


「奈津」


「……っ」


 もう一度。確かに、紫鬼の声が自分の名を呼ぶ。


「ぼんやりするな。さっさと休め」


「……はい」


 奈津は胸元へ手を添えた。

 ただ、名前を呼ばれただけ。

 それなのに、胸の奥に小さな熱が残っている。


 九重に促され、奈津は広間をあとにする。

 その途中で、ほんの一度だけ振り返った。

 紫鬼はすでに上座へ戻っている。

 それでも、耳にはまだ、低く自分の名を呼ぶ声が残っていた。


 ――今度は、聞き間違いではなかった。

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