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あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~  作者: 都築七美
第二幕

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17/18

ただひとつ、安らげる場所

「失礼いたします」


 聞き慣れた声とともに、障子が開いた。

 入ってきたのは、いつも朝の支度を手伝ってくれる女中だった。

 奈津は身体を起こすと、いつものように頭を下げる。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 これまでは、返ってくるのは短い返事だけだった。

 視線が重なっても、すぐに逸らされる。

 紫鬼に命じられたから世話をしている――そんな距離を、奈津も感じていた。


 けれど今日は、女中は奈津の顔をきちんと見てから、丁寧に頭を下げた。


「……おはようございます、癒し子様」


「……!」


 奈津は目を瞬いた。

 女中は手にしていた衣を広げながら、これまでより柔らかな声で尋ねる。


「お身体の具合は、もうよろしいのですか?」


「はい。もう、ほとんど大丈夫です」


 地下水路で負った傷も、数日休んだことで随分とよくなっていた。

 まだところどころに鈍い痛みは残っているものの、日常生活に支障があるほどではない。


「そうですか」


 女中の表情が和らぐ。


「それは、何よりでございます」


「……ありがとうございます」


 ほんの短いやり取りだった。

 それでも奈津の胸には、温かなものが広がった。


 支度を終えて部屋を出てからも、すれ違う鬼たちから「癒し子様」と声をかけられた。

 中には、身体を気遣ってくれる者までいる。


 以前なら、鬼たちは人間である奈津を警戒し、遠巻きに見ていることが多かった。


 けれど今は違う。

 向けられる視線から、以前のような棘が消えている。

 まだどこかぎこちなさは残っているものの、それでも奈津を気遣ってくれていることは伝わった。


(……少しだけ、受け入れてもらえたのかな)


 そう思うと、胸の奥がくすぐったい。

 ここへ来たばかりの頃には、考えもしなかったことだった。


「おい」


 不意に声をかけられ、奈津が振り返る。

 廊下の向こうから、夜刀が歩いてきた。


「夜刀様。おはようございます」


「ああ」


 夜刀は奈津をひと目見ると、眉を寄せる。


「もう出歩いてんのか」


「はい。身体もだいぶよくなりましたから」


「治った気になって動き回んなよ」


 ぶっきらぼうな言い方だったが、気遣ってくれているのだと分かる。

 奈津が小さく笑った、その時。


「つーか、その『夜刀様』っての、そろそろやめろ」


「え?」


「お前が言うと、なんか気色悪ぃ」


「ええ……?」


 あまりの言われように、奈津は困惑する。


「奈津」


「……?」


「俺はそう呼ぶ。だからお前もそうしろ」


 奈津は目を丸くした。


「呼び捨て、ですか……?」


「ほら」


 促され、奈津は戸惑いながら口を開く。


「……や、夜刀」


「何だ、その片言(カタコト)」


「慣れていないんですから、仕方ないじゃないですか……!」


 夜刀が小さく鼻を鳴らす。


「そのうち慣れんだろ」


 そう言って、さっさと歩いていってしまう。

 奈津はその背中を見送りながら、無意識に口元を緩めた。


「……夜刀、か」


 まだ少しだけ、慣れない。

 それでも、以前よりずっと近くなったような気がした。


 ◇


「よいしょ……」


 奈津は廊下の隅で、大きな箱を抱え上げた。

 中には、女中たちが運んでいた反物が入っている。


「癒し子様!?」


 女中が慌てて駆け寄ってくる。


「何をなさっているのですか!」


「これくらいなら、私にも運べますから」


「いけません。まだご無理をなさっては――」


「もう十分休みましたし、本当に大丈夫です」


 奈津はそう言って笑った。

 九重からは、しばらく無理をしないよう念を押されている。

 けれど身体はもう随分と軽くなっていた。

 それに、何もせずに過ごすのは、やはりどうにも落ち着かない。


「これを、どこへ運べば――」


 一歩踏み出した、その時だった。


「あ……っ」


 足元がふらつく。

 抱えていた箱が傾き、奈津の身体も大きくよろめいた。


 倒れる――。

 そう思った瞬間、強い腕が身体を支えた。


「……何をしている」


 低い声が、すぐそばから落ちてくる。

 奈津は恐る恐る顔を上げた。


「紫鬼様……」


 紫鬼が奈津の身体を片腕で支えながら、険しい顔でこちらを見ていた。


「これは、その……」


「見れば分かる」


 紫鬼は奈津が抱えていた箱を取り上げ、女中へ渡した。


「なぜお前が運んでいる」


「もう身体もよくなりましたし、私にも何かできればと思って……」


 奈津が身体を離そうとした瞬間。


「……痛っ」


 足首に鋭い痛みが走った。

 顔を歪めた奈津に、紫鬼の視線がすぐ足元へ落ちる。


「足を挫いたな」


「これくらいなら、大丈夫です」


 紫鬼は黙って奈津を見る。


「お前の『大丈夫』は信用しない」


「でも――」

 言い終わるより早く、身体がふわりと浮いた。

 奈津は目を見開く。

 紫鬼の腕に、抱き上げられていた。


「し、紫鬼様!?」


「騒ぐな」


「でも、自分で歩けます!」


「今、足を挫いたばかりだろう」


「それは……」


「暴れるな」


 低く言われ、奈津はぴたりと動きを止めた。

 周囲にいた女中たちも、驚いたようにこちらを見ている。

 けれど紫鬼は気にした様子もなく、そのまま廊下を歩き始めた。


「あ、あの……どちらへ?」


「少し付き合え」


「……?」


 奈津は訳も分からないまま、紫鬼の腕の中で目を瞬く。

 しばらくして、紫鬼が口を開いた。


「九重から聞いた」


「何をですか?」


「放っておくと、すぐに働こうとするとな」


 奈津の顔が引きつる。


「……九重様……」


「夜刀も似たようなことを言っていた」


 ますます居心地が悪くなり、奈津は小さくなる。

 紫鬼がそんな奈津を一瞥した。


「お前は、休むということができないのか」


 思いがけない問いだった。

 奈津は少し考えてから、視線を落とす。


「……何もしていないと、落ち着かないんです」


「なぜだ」


「昔から、そうだったので」


 奈津は自分の手へ目を落とした。


「私には、浄化の力がないと思われていました。だから……せめてそれ以外のことで、役に立たなくてはいけないと思っていたんです」


 九条家でも、ずっとそう言われてきた。

 何もできないのなら、せめて働けと。


「何かやることを探して、動いているのが当たり前だったんです」


 奈津は自嘲するように笑う。


「だから、何もしなくていいと言われると……どうしていいのか分からなくて」


 紫鬼は何も言わなかった。

 やがて、奈津を抱いたまま一つの部屋へ入る。


 そこは、紫鬼の執務室だった。

 文机には書状が積まれ、筆や硯が整然と並んでいる。

 紫鬼は奈津を座布団の上へ下ろした。


「紫鬼様?」


「そこにいろ」


「……はい?」


 紫鬼は何事もなかったかのように文机の前へ座り、書状を手に取った。

 奈津は呆然とその姿を見つめる。


「あの……」


「何だ」


「私は、何をすればいいのでしょうか」


「何もしなくていい」


「でも……」


 紫鬼が書状から顔を上げる。


「何かしていないと落ち着かないと言ったな」


「……はい」


「なら、これからはここにいろ」


「……ここに?」


「ああ」


「でも、それでは何の役にも……」


「ここにいる。それがお前の役目だ」


 奈津は目を瞬いた。


「……いるだけで、よいのですか?」


「俺がそう決めた」


 それ以上、反論を許す気はないらしい。

 紫鬼は再び書状へ視線を戻した。


 奈津はしばらく呆然としていたが、やがて諦めたように座り直す。


(……本当に、いるだけでいいのかな)


 何もしなくていい。

 そんな時間を、奈津はほとんど知らない。


 最初はどうにも落ち着かず、何度も周囲へ視線を彷徨わせていた。

 けれど、紫鬼は黙々と仕事を続けている。

 やがて奈津も、近くに置かれていた書物を一冊手に取った。


 紙をめくる音。

 筆が紙の上を滑る音。

 庭の木々が風に揺れる気配。


 穏やかな時間が流れていく。

 不思議と、居心地は悪くなかった。


 どれほど経っただろう。

 紫鬼もひと通り仕事を終えたのか、残った書状を手に、奈津の近くへ腰を下ろしていた。

 奈津も特に気に留めず、再び書物へ目を落とす。


 その時。

 こつん、と肩に重みがかかった。


「……え?」


 奈津の身体が強張る。

 さらりとした白銀の髪が、肩へ流れ落ちていた。


「紫鬼様……?」


 返事がない。

 恐る恐る横を見る。

 長い睫毛が伏せられている。


「……眠ってる?」


 紫鬼は奈津の肩に頭を預けたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。

 いつも鋭い深紫の瞳は閉じられ、眉間にも皺がない。

 普段とはまるで違う、穏やかな寝顔だった。


(どうしよう……)


 起こした方がいいのだろうか。

 けれど、あまりにも安らかに眠っている。


 奈津は動くこともできず、そのまま肩を貸していた。


 ◇


「紫鬼様ー!」


 しばらくして、廊下からコマの声が聞こえた。


「九重様が――」


 勢いよく障子が開く。

 その後ろには夜刀もいた。


「紫鬼様、ちょっと――」


 二人が同時に動きを止める。

 奈津は慌てて口元へ人差し指を立てた。


「しーっ……」


 コマの琥珀色の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。

 夜刀も、信じられないものを見るように固まっていた。

 やがて夜刀が声を潜める。


「……寝てんのか?」


 奈津は小さく頷いた。


「はい。少し前から……」


「……嘘だろ」


「え?」


 あまりの反応に、奈津は首を傾げる。


「そんなに珍しいの?」


 コマと夜刀が顔を見合わせた。


「珍しいどころじゃないです……」


 コマが小声で答える。


「紫鬼様、ずっとよく眠れていないんです」


「……え?」


「穢れのせいで身体が痛んだり、苦しくなったりして……眠っても、すぐに目を覚ましてしまうことが多くて」


 奈津は肩に頭を預ける紫鬼を見る。

 穏やかな寝息。

 苦しげな様子はない。


「それに」


 夜刀が続ける。


「紫鬼様が誰かの前で、こんな無防備に寝るなんて見たことねぇ」


 奈津は思わず、肩に寄りかかる紫鬼へ目を落とした。


「俺らの前でもな」


 奈津の胸が、どくりと鳴った。


「どうして……」


 思わず声が零れる。

 するとコマが、嬉しそうに笑った。


「奈津様がいるからじゃないですか?」


「え……?」


「きっと、安心するんです」


「私が……?」


 奈津はもう一度、紫鬼を見る。

 白銀の髪が、自分の肩へ触れている。

 規則正しい寝息が、すぐそばから聞こえる。


 自分のそばだから、安心して眠れている。

 本当に、そんなことがあるのだろうか。


 そう意識した途端、肩に感じる重みも、すぐそばにある横顔も、急に気になり始めた。

 奈津の胸が、また妙に騒がしくなる。

 昨日、初めて自分の名を呼ばれた時のように。


 けれど、その胸の高鳴りが何を意味するのか――奈津にはまだ、分からなかった。

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