奪ったものは、もういらない
祓い師の名家が一堂に会する席は、いつも以上のざわめきに包まれていた。
近頃、各地で妖の《異形化》が相次いでいる。
本来ならば長い年月をかけて蓄積していくはずの《穢れ》が、異常な速さで妖を蝕んでいるという報告も増えていた。
この日も、それについての情報交換が行われる予定だった。
けれど――。
「九条殿。先ほど耳にしたのですが……まさか、本当なのですか」
会が始まる前、正臣へ声をかけた男の顔には隠しきれない驚きが浮かんでいた。
「ご息女が、あの堂目道家へ迎えられているという話は」
その名が出た途端、離れたところにいた者たちまでこちらを振り返る。
「ええ」
正臣は待っていましたとばかりに口元を緩めた。
「長女の奈津が、紫鬼殿に見初められましてな」
「紫鬼殿……あの堂目道家当主が、人間の娘を?」
「それも、九条家のご息女を花嫁に……」
どよめきが広がった。
堂目道家当主の花嫁になる。
それは単なる婚姻ではない。九条家の立場さえ大きく変えかねない出来事だった。
「いやはや……九条殿。とんでもない縁を結ばれましたな」
「堂目道家の後ろ盾を得るとなれば、九条家に並ぶ家など、そう多くはありますまい」
「祓い師の家々の勢力図すら変わりかねませんぞ」
次々と向けられる羨望の眼差しに、正臣の胸が膨らんでいく。
「いや、まだ正式に祝言を挙げたわけではありませんが」
そう言いながら、その顔には得意げな色が滲んでいた。
少し離れた席で、綾乃は黙ってそのやり取りを聞いている。
膝の上の手が、きゅっと着物を掴んだ。
「堂目道家当主に選ばれるほどとは」
「九条家には、とんでもない娘御がいたものですな」
綾乃は微笑んだまま、唇の内側を噛む。
浄化の力すらないと思われていた奈津が、なぜ紫鬼に選ばれたのか。
正臣にも分からない。だが、もはや理由などどうでもよかった。
奈津が紫鬼の花嫁となれば、九条家は堂目道家と縁戚になる。
それだけで、これまで望んでも手にできなかった権威と後ろ盾が得られる。
「奈津も、ようやく九条家の娘として役に立ってくれました」
正臣が満足げに言うと、明美もさも当然のように笑みを浮かべた。
「本当に。あの子にも、思いがけない役目があったものですわ」
綾乃だけが、笑わなかった。
父も母も、この場の祓い師たちも。
まるで奈津が、九条家で一番価値のある娘であるかのように話している。
握り締めた爪が、掌へ食い込んだ。
「――皆様、お揃いですね」
穏やかな声が響いた。
ざわめいていた場が、すっと静まる。
一人の男が部屋へ入ってきた。
すらりとした体躯。整った身なりに、柔和な面差し。
人の身でありながら、その美貌にはどこか現世離れしたものがあった。
まるで妖と見紛うほど端整で、それでいて若き当主らしい威厳を纏っている。
一条蔵馬。
先代から家督を継いだばかりの、一条家の新当主だった。
祓い師の名門の中でも、一条家は特に大きな力を持つ。
その新当主である蔵馬は、人と妖の共存に理解を示す人物として、すでに祓い師たちの間でも知られ始めていた。
「お待たせし申し訳ありません」
蔵馬が席につく。
「本日は皆様に、少しお話ししたいことがあります」
その声音は柔らかい。けれど、一同の視線が自然と蔵馬へ集まった。
「すでに耳にされている方も多いでしょう。ここ最近、妖の《異形化》が各地で相次いでいます」
空気が変わる。
「これまでにも異形化そのものは存在していました。しかし、近頃の事例には不自然な点が多い」
蔵馬は卓上に置かれた何枚かの書状へ目を落とした。
「短期間で急激に穢れが蓄積したと思われる個体も確認されています」
「原因は分かっているのですか?」
誰かが尋ねると、蔵馬は小さく首を振った。
「残念ながら、まだ」
「ならば、妖同士の問題では?」
別の祓い師が言う。
「我々が深入りする必要があるのでしょうか」
蔵馬は責めるでもなく、その男へ視線を向けた。
「これほど異形化が相次いでいる以上、双方で情報を共有し、原因を探る必要があるでしょう」
蔵馬はそこで、正臣へ目を向けた。
「幸い、堂目道家とも話し合う機会を作れそうです」
「堂目道家と?」
正臣が身を乗り出す。
「ええ。《異形化の異常増加に関する情報共有》という名目で、こちらから正式に協議を申し入れるつもりです」
「数日ほど堂目道家へ滞在し、異形化した妖の状況や、穢れの発生について直接確認させていただければと考えています」
堂目道家の名に、再び場がざわついた。
人間側が一方的に立ち入れるような相手ではない。
「もちろん、こちらが一方的に何かを調査するという話ではありません」
皆の懸念を察したように、蔵馬が付け加える。
「あくまで対等な立場で、互いが持つ情報を共有するための場です」
「なるほど……」
「堂目道家ほどの一族が協力してくれるなら、心強い」
賛同の声が上がる中、正臣も満足げに頷いた。
奈津が堂目道家にいる今なら、九条家の存在感を示す絶好の機会にもなる。
そんな正臣の前で、蔵馬がふと綾乃へ視線を向けた。
「それから、九条殿」
「はい」
「綾乃殿は、非常に優れた浄化の力をお持ちだと聞いております」
綾乃がぱっと顔を上げた。
「まあ……」
「若くしてこれほどの力を持つ方は、そう多くありません。今回の協議にも、お力を貸していただければ心強い」
一条家当主から直々に認められ、綾乃の頬がわずかに緩む。
「私でよろしければ、もちろん」
「ありがとうございます」
蔵馬は柔らかく微笑んだ。
「堂目道家にはお姉上の奈津殿もいらっしゃいますし、綾乃殿にとっても滞在しやすいでしょう」
「……お姉様」
綾乃の笑みが、一瞬だけ固まった。
しかしすぐに、いつもの愛らしい表情へ戻る。
「そうですわね。姉にも久しぶりに会えますし、私も楽しみですわ」
その言葉を聞きながら、正臣はますます気をよくしていた。
奈津は堂目道家当主の花嫁候補。
綾乃は一条家当主からも認められるほどの浄化の使い手。
二人の娘によって、九条家の名はさらに高まる。
すべてが思い通りに進んでいるように思えた。
◇
「――どういうことだ!」
数日後。
九条家の一室に、正臣の怒声が響いた。
机の上には、堂目道家から届いた返書が置かれている。
「あなた……?」
明美が不安げに顔を覗き込む。
「何と書いてあるのです?」
「援助の件は、すべて断ると」
「え?」
明美が目を見開いた。
奈津が堂目道家へ迎えられて以降、正臣は何度か先方へ話を持ちかけていた。
金銭的な援助、取引上の便宜、九条家への庇護。
奈津が花嫁になるのなら、その程度は当然得られるものだと考えていた。
だが――。
「『奈津を迎えることと、九条家を庇護することは別だ』だと?」
返書には、奈津を出来損ないと蔑み、最後には結界の外へ捨てた家へ何かを与えるつもりはないとまで記されていた。
奈津が望むなら、九条家との縁も断たせる、と。
「縁を断つ……?」
明美の顔色が変わる。
「そんなことをされたら、私たちと堂目道家の繋がりはどうなるのです?」
「だから言っている!」
正臣は苛立たしげに返書を机へ叩きつけた。
「それでは、こちらには何の利もないではないか!」
すでに周囲には、九条家が堂目道家と縁戚になると吹聴してしまった。
あれほど羨望を向けられたのだ。
今さら「奈津が嫁ぐだけで、九条家には何の恩恵もない」などと言えるはずがない。
「まったく……奈津も奈津だ」
正臣が吐き捨てる。
「少しくらいこちらのために話を通せばいいものを」
「本当に」
明美も不満げに眉を寄せた。
「誰のおかげでここまで育ったと思っているのかしら」
廊下の向こうから足音が近づき、ほどなくして障子が開く。
現れたのは、綾乃だった。
「どうかなさいました?」
正臣は深く息を吐いた。
「堂目道家の件だ」
「お姉様の?」
「まったく、使えん娘だ」
吐き捨てる正臣を見て、綾乃は静かに目を細めた。
「そういえば」
綾乃は何でもないことのように口を開く。
「もうすぐ、堂目道家へ伺うのでしたわね」
「ああ」
正臣の表情がわずかに明るくなる。
「一条家の蔵馬殿が、お前を高く評価してくださっている。しっかり役目を果たしてこい」
「もちろんですわ」
綾乃はにこりと微笑んだ。
「綾乃」
その時、女中に案内されて宗一が姿を現した。
「宗一様」
「話がある」
真剣な表情をする宗一を見て、綾乃はほんの少しだけ眉を動かした。
「お父様、お母様。少し席を外しますね」
そう告げると、宗一を連れて部屋を出た。
◇
廊下を進み、人の気配が遠のいたところで綾乃が足を止める。
「それで、お話とは?」
「最近、僕を避けてるだろ」
宗一が険しい顔で問いかける。
綾乃は小さく息を吐いた。
「……ちょうどよかったですわ」
「何が?」
綾乃は振り返り、いつものように微笑む。
まるで、不要になった飾りを片づけるような気軽さで。
「宗一様。もう、私たちの関係は終わりにしましょう」
宗一の表情が凍りついた。
「何を言ってるんだ」
「そのままの意味ですわ」
「待てよ」
宗一が綾乃へ一歩近づく。
「奈津との婚約まで破棄したのは、お前と一緒になるためだろう!」
「だって――」
綾乃は、いつもの愛らしい笑みを浮かべた。
「もう、いらないもの」
宗一が言葉を失った。
綾乃はそれ以上何も言わず、彼の横をすり抜けた。
その胸に浮かんでいたのは、宗一ではない。
堂目道紫鬼。
そして、その隣にいる奈津だった。
綾乃の唇から、笑みが消える。
(どうして――お姉様なの?)
今度、堂目道家へ行けば。
自分の目で確かめることができる。
奈津が、そこでどんな顔をしているのか。
紫鬼が、なぜ奈津を選んだのかを。
しばらくして綾乃が振り返った時には、宗一の姿はもうなかった。
綾乃はそれを気に留めることもなく、正臣たちのいる部屋へ戻った。
「お話は終わったの?」
明美に尋ねられ、綾乃は何でもないことのように頷く。
「ええ。もう済みましたわ」
それ以上、宗一について語ることもなく、綾乃が腰を下ろした。
正臣は、机の上の返書を睨んだままだった。
指先が苛立たしげに机を叩く。
「……このままではまずい」
低く漏らした、その時だった。
「――でしたら、その縁をより確かなものになさればよい」
突然、聞き覚えのない声が響いた。
「……っ!?」
三人が一斉に振り返る。
障子の向こうに、見知らぬ男が立っていた。
「何者だ!」
正臣が勢いよく立ち上がる。
「どうやってここへ入った!」
明美が青ざめ、綾乃も警戒するように男を見つめる。
それでも男は動じる様子もなく、薄く笑った。
「そう警戒なさらずとも。あなた方に害をなすつもりはございません」
「ならば、何の用だ」
男は、机の上に置かれた堂目道家からの返書へ目をやった。
「せっかく開かれた、堂目道家への道です。その好機を、みすみす逃すこともないでしょう」
正臣の表情が変わったのを確かめるように、男は懐へ手を差し入れた。
「でしたら――お力になれるものがございます」




