人間のお前を、俺は信用しない
冷たい切っ先が、奈津の喉元へ突きつけられている。
少しでも身じろぎすれば触れてしまいそうな距離に、奈津は息を詰めた。
「答えろ」
身体が強張る。
目の前にある刃から目を逸らすことさえできない。
「……わ、私は……」
「やめてください!」
小さな身体が、奈津の前へ飛び出した。
「コマ……!」
コマが両腕を広げ、奈津を庇うように立ちはだかる。
夜刀の眉間に皺が寄った。
「どけ」
「嫌です!」
「こいつは人間だぞ」
「だから何ですか!」
思いのほか強い返事に、夜刀の金の瞳が細められる。
「奈津様は、悪い人じゃありません!」
コマは一歩も退かない。
「ぼくを助けてくれた方です!」
「助けた?」
夜刀の視線が奈津へ向く。
「どういう意味だ」
「ぼくが異形化した時、奈津様が元に戻してくれたんです!」
「――待て」
夜刀の顔色が変わった。
大太刀の切っ先は奈津へ向けたまま、コマを見据える。
「お前の穢れは、そこまで進んでいなかったはずだ」
「……夜刀様がお留守の間に、急に悪くなって……」
「それで、異形化したのか」
「……はい」
「……あり得ねぇ。異形化した妖が元に戻るなんざ、聞いたこともねぇ」
「でも、本当なんです!」
コマは必死に訴える。
「奈津様が触れてくれたら、ぼくの中に溜まってた穢れが全部なくなって……気づいたら、元に戻ってたんです!」
夜刀の鋭い金の瞳が、ゆっくりと奈津へ戻る。
「……この人間が?」
「はい!」
夜刀は奈津を睨んだまま、何も言わない。
やがて、吐き捨てるように口を開いた。
「そんな都合のいい話、簡単に信じられるかよ」
「嘘じゃありません!」
「コマ」
「本当なんです!」
自分を庇うように必死になる小さな背中を、奈津は見つめた。
怖くないはずがない。
それでもコマは、自分と夜刀の間から動こうとしない。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
けれど、夜刀の大太刀は未だ下ろされなかった。
「何にせよ、こんな得体の知れねぇ人間を好き勝手に――」
「――刃を下ろせ、夜刀」
凛とした低い声が、廊下に響いた。
夜刀の動きが止まる。
奈津が振り向くと、少し離れたところに紫鬼が立っていた。
「紫鬼様」
夜刀は大太刀を構えたまま、紫鬼を見る。
「これはどういうことです。なんで人間がここにいるんですか」
「俺が置いた」
「……紫鬼様が?」
初めて、夜刀の顔に明らかな動揺が浮かんだ。
「ああ」
「コマを元に戻したって話も、本当なんですか」
「本当だ」
紫鬼は迷いなく答えた。
夜刀の視線が、再び奈津へ向く。
「……だったら、なおさら訳が分からねぇ」
「夜刀」
紫鬼の声音が低くなる。
「二度は言わん」
しばし、張り詰めた沈黙が続く。
やがて夜刀は舌打ちし、大太刀を下ろした。
奈津の喉元から刃が離れる。
夜刀は大太刀を背へ戻しながら、紫鬼へ向き直る。
「……理由をお聞きしても?」
「こいつには、癒し子の可能性がある」
「……癒し子?」
夜刀の目が見開かれた。
傍らでコマだけが、不思議そうに首を傾げている。
「本気で言ってんですか?」
「確定ではない。だが、異形化したコマを元に戻したのは事実だ」
夜刀はしばらく奈津を睨んでいた。
「……癒し子なんざ、昔話の中だけだと思ってましたけどね」
「俺もだ」
「だから、正体を確かめるまでここに置くと?」
「ああ」
夜刀は不満げに眉を寄せたものの、やがて大太刀を背へ戻した。
「……分かりました。紫鬼様がお決めになったことなら」
そして奈津を鋭く睨む。
「ただし、妙な真似をしたら容赦しねぇ」
「夜刀」
紫鬼の声が低く落ちる。
夜刀はちらりと紫鬼を見た。
「……分かってますよ」
そう言い残し、夜刀は奈津の横を通り過ぎていった。
その姿が廊下の向こうへ消えた途端、奈津の膝から力が抜けた。
「……っ」
その場にへたり込むように座り込み、浅く息を吐く。
「奈津様!」
コマが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!? どこか切られてませんか?」
「だ、大丈夫……」
奈津は震える手で喉元へ触れる。
刃は触れていない。
それでも、あの冷たい切っ先がまだそこにあるような気がした。
「ごめんなさい……」
コマの耳がしゅんと下がる。
「ぼくがもっと早く夜刀様が戻ってくるって気づいてたら……」
「コマが謝ることじゃないわ」
「でも……」
「庇ってくれたでしょう?」
奈津はまだ震えの残る声で、それでも笑った。
「ありがとう」
「……はい」
下がっていた耳が、少しだけ持ち上がる。
そんな二人を、紫鬼は黙って見ていた。
やがて奈津へ向き直る。
「夜刀の言葉は気にするな」
「……え?」
「あれは人間を信用していない」
紫鬼は淡々と言う。
「長く生きる妖たちの間では、人と妖が争っていた頃のわだかまりが、今も完全には消えていない。中でもあれは、人間への不信が強い」
奈津は先ほどの夜刀の目を思い出した。
あの敵意は、奈津個人へ向けられたものではなかったのかもしれない。
「だが、俺の命令には背かん。妙な真似をしなければ、手を出すこともない」
「……はい」
安心した、とまでは言えない。
それでも少なくとも、紫鬼の言葉がある限り、夜刀がいきなり刃を向けてくることはないのだろう。
奈津はようやく、浅く息を吐いた。
◇
その日の夕刻。
屋敷の広間には、堂目道家に仕える主だった鬼たちが集められていた。
何のために呼び集められたのか分からないのだろう。あちこちで抑えた声が交わされている。
やがて、広間の襖が開いた。
最初に姿を現したのは紫鬼だった。
その後ろには九重と夜刀、そして――奈津。
「……人間?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
途端に、広間にざわめきが広がる。
「なぜ人間が……」
「まさか、昼間の……?」
一斉に向けられた視線に、奈津の身体が強張った。
好奇。警戒。戸惑い。
中には、露骨に眉をひそめる者もいる。
奈津は思わず足を止めかけた。
「行くぞ」
前を歩く紫鬼が振り返ることなく言う。
「……はい」
奈津は小さく返事をし、その後を追った。
紫鬼が上座につく。
九重はその斜め後ろへ控え、夜刀は反対側に腕を組んで立った。
奈津は九重に促され、上座から少し離れた位置へ腰を下ろす。
それだけで、再び小さなどよめきが起きた。
(……やっぱり、変なんだ)
人間の自分がここにいること自体が、この屋敷では異例なのだ。
奈津が居心地の悪さに膝の上で手を握った、その時。
「静まれ」
紫鬼の一言で、広間が静まり返った。
紫鬼は居並ぶ鬼たちを見渡す。
「今日から、この人間を屋敷に置く」
広間がざわめいた。
「こいつには《癒し子》の可能性がある。異形化したコマを元へ戻したのも事実だ」
「癒し子……?」
「まさか、あの昔話の……」
年嵩の鬼たちから、驚きの声が漏れる。
「力の正体を確かめるまで、堂目道家で預かる」
それだけでも十分な騒ぎだった。
けれど、紫鬼は続けた。
「それから――こいつは、俺の花嫁候補だ」
一瞬、広間が静まり返った。
「……花嫁候補!?」
次の瞬間、先ほどとは比べものにならないどよめきが起こる。
「紫鬼様が?」
「人間の娘を……?」
「堂目道家が花嫁を取るのか?」
奈津は思わず肩を縮める。
昼間、九重から聞いていた。
形だけの肩書きだとも分かっている。
それなのに、こうして大勢の前で告げられると、その言葉が急に重みを持ったように感じられた。
(本当に……私が)
堂目道家当主の、花嫁候補。
少し離れた場所にいた夜刀でさえ、さすがに驚きを隠せない様子で紫鬼を見ている。
「……紫鬼様」
夜刀が口を開く。
「そこまでするんですか」
「ああ」
紫鬼は迷いなく答えた。
「こいつをここに置く以上、必要な肩書きだ」
あくまで、それだけ。
奈津にも、夜刀にも、周囲の妖たちにもそう分かる言い方だった。
それでも——紫鬼が人間の娘を花嫁候補として公に認めた。
その事実そのものが、堂目道家にとっては大きいのだろう。
「今後、この人間への無用な干渉は禁ずる」
紫鬼は広間を見渡す。
「俺の許可なく手を出すな」
紫鬼が言い切ると、誰も異を唱えなかった。
「……承知いたしました」
やがて広間中の鬼たちが頭を垂れる。
奈津はただ、呆然とその光景を見つめていた。
たった一日で。
死ぬために捨てられた自分が、堂目道家当主の花嫁候補になってしまった。
あまりにも現実離れしていて、未だに自分のこととは思えなかった。
◇
集まっていた鬼たちが、やがて立て続けに広間を後にしていく。
その背中を見送りながら、奈津の胸にふとひとつの疑問が浮かんだ。
――今の自分は、いったいどういう扱いになっているのだろう。
この屋敷へ来てから、九条家が奈津を捜しているという話は一度も聞いていない。
家族が自分の行方を案じているかもしれないという期待も、とうに抱けなくなっていた。
綾乃が言っていた通りに事が進んでいるのなら、九条家ではもう、自分は死んだものとして扱われているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に小さな痛みが滲んだ。
けれど、それ以上に驚きはなかった。
「人間」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
紫鬼がじっと奈津を見ていた。
「明日、九条家へ行く」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「九条家に……?」
「お前が生きていることと、花嫁候補として堂目道家に置くことを伝える」
父や綾乃の顔が脳裏に浮かび、奈津の指先が冷たくなった。
「私も……行くんですか?」
「当然だ」
奈津の表情が強張る。
紫鬼はそれを見て、短く続けた。
「お前ひとりで戻すつもりはない」
「……え?」
「俺も行く」
奈津は目を見開いた。
◇
九条家へ向かう支度のため部屋へ戻ると、ほどなく鬼の女中が訪れた。
年は奈津よりいくらか上だろうか。
「こちらへお召し替えください」
広げられたのは、淡い藤色の着物だった。
銀糸で草花が刺繍された、奈津には見慣れないほど上等な品だ。
「……これを、私が?」
「紫鬼様より申しつかっております」
奈津は戸惑いながら着物を見つめた。
九条家では、綾乃には次々と新しい着物が与えられた一方、奈津が身につけるものは古びたものばかりだった。
まさかその家へ、こんな着物を着て戻ることになるとは思わなかった。
女中が奈津の背後へ回ろうとしたため、慌てて声をかける。
「自分でできますので……」
「お支度をお手伝いするよう申しつかっております」
女中の手際はよかった。着物を整え、帯を締め、髪を結っていく。
けれど、必要なこと以外は一言も話さない。
奈津が話しかけようと視線を向けても、女中は淡々と手を動かしているだけだった。
嫌がらせをされているわけではない。乱暴に扱われることもない。
ただ、紫鬼に命じられたから、奈津の世話をしている。
それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
(……当然だよね)
堂目道家では、これまで人間の娘を花嫁に迎えたことがないという。
突然やってきた自分が、すぐに受け入れられるはずもない。
「終わりました」
「ありがとうございます」
女中が退出すると、奈津は鏡の中の自分を見つめた。
淡い藤色の着物に、整えられた黒髪。
こんなふうに身なりを整えてもらうことには、まだ慣れない。
奈津はそっと袖口に触れた。
(これを……紫鬼様が)
ほどなくして、出発の支度が整ったと声をかけられた。
玄関へ向かうと、すでに紫鬼と九重が待っている。
「行くぞ」
「……はい」
奈津は紫鬼のあとを追い、屋敷の前に停められた馬車へ乗り込んだ。
向かう先は――九条家。
つい二日前、自分を死んだものとして扱った家だった。
◇
馬車の中では、向かいに紫鬼、その隣に九重が座っていた。
「紫鬼様は、普段から馬車をお使いになるのですか?」
奈津が尋ねると、九重が答える。
「いいえ。紫鬼様ほどのお方なら、ご自身で向かわれた方が遥かに早いので」
「では、今日は……」
「癒し子様もいらっしゃいますから」
奈津は申し訳なくなり、紫鬼を見る。
「私のために……すみません」
「これでいい」
返ってきたのは、短い返事のみだった。
それからしばらくして、馬車の速度がゆるやかに落ちていった。
奈津が窓の外へ目を向けると、やがて見覚えのある門が視界に入る。
九条家だ。その姿を認めた途端、指先からじわりと冷たさが広がった。
ほどなくして馬車が止まり、九重、紫鬼の順に外へ降りていく。
奈津もあとに続こうと腰を浮かせたものの、そこで足がすくんだ。
膝の上で握った手に、無意識のうちに力がこもる。
すると、馬車の外から紫鬼の声が届いた。
「行くぞ」
奈津は顔を上げた。
開いた扉の向こうで、紫鬼がこちらを見ている。
「……はい」
小さく息を吸い、奈津は震えそうになる足に力を込めて立ち上がった。
奈津は小さく息を吸い、震えそうになる足に力を込める。
そして――自分を出来損ないと呼んだ九条家へ。
奈津は、鬼の王と共に戻ってきた。




