鬼の王の《花嫁候補》になりました
奈津は、紫鬼の言葉をすぐには理解できなかった。
花嫁。確かに、そう聞こえた。
「紫鬼様」
先に声を上げたのは九重だった。
細められていた目が、初めてはっきりと開かれる。
「……本気で仰っているのですか?」
「ああ」
紫鬼は眉ひとつ動かさない。
「堂目道家が花嫁を迎えるとなれば、ただ事ではございません。それが人間の娘ともなれば、なおさらです」
人間側にも、妖側にも知れ渡る。
それほど大きな意味を持つことなのだろう。
「分かっている」
紫鬼は短く答えた。
九重はしばしその真意を探るように紫鬼を見つめていたが、やがて静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
話が進んでいく速さに、奈津だけがまるでついていけない。
「あ、あの……」
ようやく声を絞り出した。
「花嫁というのは、本当に私が紫鬼様と……?」
「勘違いするな」
紫鬼は淡々と遮った。
「正確には、花嫁候補だ」
「……候補?」
思わず聞き返す。
「本当にお前を娶ると決めたわけではない」
なぜか、ほっとしたような、そうではないような。
奈津は自分でもよく分からない気持ちのまま、紫鬼を見つめた。
「お前の力が何なのか分かるまで、この屋敷に置く。そのために使う肩書きだ」
「肩書き……」
九重が奈津へ向き直る。
「堂目道家に人間の娘を置くとなれば、対外的にも相応の理由が必要になります。ですが《花嫁候補》であれば、あなたがこの屋敷に滞在する理由としては十分でしょう」
そこでようやく、奈津にも紫鬼の意図が分かった。
行くあてのない自分を、この屋敷に置いておくため。
紫鬼は奈津に、《花嫁候補》という居場所を与えようとしているのだ。
けれど――町で姿を見せただけで人だかりができるほどの堂目道家当主。
綾乃でさえ、その姿を見ただけで目の色を変えた相手だ。
その花嫁候補に、自分がなる。形だけとはいえ、あまりに現実味がなかった。
「嫌なら断れ」
奈津はハッと顔を上げた。
「無理にここへ置くつもりはない。だが、外へ出たあとの身の安全までは保証できん」
膝の上でそっと手を握る。ここを出て、行くあてはない。
それに、自分に宿っているかもしれない正体不明の力についても知りたかった。
「……お願いします」
奈津は深く頭を下げる。
「しばらく、ここに置いてください」
「なら決まりだ」
紫鬼は、それだけ言った。
◇
紫鬼との話を終えたあと、奈津は九重に案内され、屋敷の奥へと向かった。
「こちらをお使いください」
襖を開けられ、奈津は思わず足を止める。
そこは、先ほど目を覚ました部屋よりもさらに広く、立派な一室だった。
艶のある柱に、陽の光を柔らかく通す障子。
床の間には季節の花が活けられ、その向こうには手入れの行き届いた庭まで見える。
どう見ても、客人をもてなすための上等な部屋だ。
「あの……」
奈津は戸惑いながら九重を見る。
「本当に、私がこのお部屋を使ってもいいのでしょうか」
「もちろんです」
九重は当然のことのように答えた。
「紫鬼様の花嫁候補となられたお方を、粗末な部屋へお通しするわけにはまいりませんから」
「花嫁候補……」
改めて言われると、やはり落ち着かない。
「必要なものがございましたら、女中へお申しつけください」
「そんな……十分すぎるくらいです」
奈津は慌てて首を振る。
九条家では、そんなものを与えられることなどなかった。
まだ、どこか現実味がない。
「では、癒し子様」
「……え?」
聞き慣れない呼び方に、奈津は顔を上げた。
「いま、何と……」
「癒し子様、と」
九重は悪びれる様子もなく答える。
「ですが、まだ私が本当に癒し子なのか、決まったわけでは……」
「ええ。承知しております」
九重は柔らかく目を細めた。
「ですが、今のところはそのようにお呼びした方が分かりやすいでしょう。便宜上、ということで」
「便宜上……」
奈津は小さく繰り返した。
そういえば、自分はまだ誰にも名乗っていない。
昨夜から今まで、名前を尋ねられることもなかった。
(今、必要なのは……私の名前じゃないんだ)
彼らが確かめたいのは、自分に宿った力の正体。
本当に《癒し子》なのかどうかなのだろう。
「何かございましたか?」
「……いえ」
奈津は首を横に振る。
「何でもありません」
「では、私はこれで。まだお身体も本調子ではないでしょうから、どうぞご無理なさらず」
九重は一礼すると、部屋を後にした。
襖が閉じる。急に広くなった部屋で、奈津はひとり息を吐いた。
(癒し子様、か……)
自分には、どうにも似つかわしく思えない。
しばらくすると、廊下の向こうからぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「失礼します!」
襖が開き、コマが勢いよく顔を覗かせる。
奈津の姿を見つけるなり、ぱっと表情を明るくした。
「聞きました! しばらくここにいてくださるんですよね!」
「うん。そういうことになったの」
「よかったぁ……!」
コマの耳がぴんと立ち、ふさふさの尾が嬉しそうに揺れる。
「ぼく、まだ助けてもらったご恩も返せてませんから」
「そんな、恩だなんて……」
コマは何か言いたげに奈津を見上げた。
ふいに、その耳がぴんと立つ。
「あっ!」
「どうしたの?」
「ぼく、まだあなたのお名前を聞いてませんでした!」
奈津は一瞬きょとんとして、それから柔らかく笑った。
「奈津よ。九条奈津」
「九条奈津……」
コマは確かめるように繰り返してから、ぱっと顔を輝かせた。
「奈津様!」
「そんな、様なんてつけなくても」
「嫌です」
思いのほかきっぱり返され、奈津は目を丸くする。
「奈津様は、ぼくを助けてくれた方ですから」
「でも……」
「ぼくが、そう呼びたいんです」
真っ直ぐな琥珀色の瞳に見つめられ、奈津は頬を緩めた。
「……分かった」
「はい、奈津様!」
「それなら……私も、コマって呼んでいい?」
「もちろんです!」
嬉しそうに尾を揺らすコマを見て、奈津も自然と頬が緩んだ。
名前を呼び合う。ただそれだけのことが、なんだか少し嬉しかった。
しばらくすると、奈津のもとへ昼餉が運ばれてきた。
目の前に置かれた膳を見て、奈津は瞬きをする。
炊きたての白米。湯気の立つ汁物。
香ばしく焼かれた魚に、よく味の染みていそうな煮物。
取り立てて豪勢な料理というわけではない。
それでも奈津は、中々箸を取ることができなかった。
「……これは」
「奈津様のお昼ごはんですよ」
傍に座っていたコマが、不思議そうに答える。
「全部……私が食べていいの?」
「もちろんです」
コマはさらに首を傾げた。
「だって、奈津様のお膳ですから」
「私の……」
奈津は目の前の膳を見つめる。
九条家では、綾乃が何より優先された。
奈津に与えられるのは薄い粥や残り物ばかりで、罰として食事そのものを抜かれる日も珍しくない。
ときには綾乃が笑いながら、「お恵み」と称して食べ残しを寄越すことさえあった。
自分のためだけに用意された温かな食事を、当たり前のように口にできたのは、一体いつまでだっただろう。
「……いただきます」
奈津は箸を取り、煮物をひとつ口へ運んだ。
柔らかく煮えた大根から、じんわりと温かな出汁が広がる。
「……おいしい」
ぽたり、と膝の上に雫が落ちた。
「奈津様?」
コマが奈津の顔を覗き込む。
「どうしたんですか!? お腹が痛いんですか?」
「違うの」
奈津は慌てて目元を拭った。
けれど、次から次へと涙が溢れてくる。
「ごめんなさい。なんでもないの。ただ……」
もう一度、目の前の膳を見る。
「温かくて……おいしいなって」
たったそれだけのことなのに、涙が止まらなかった。
コマはしばらく奈津を見つめていた。
やがて、何かを決意したように大きく頷く。
「じゃあ、いっぱい食べてください!」
「え?」
「奈津様、すごく細いですから。いっぱい食べて、元気になってください!」
奈津は目元を拭いながら、少し笑った。
「……ありがとう」
もう一度、箸を取る。
温かな食事が、身体の奥までゆっくり染み込んでいくようだった。
◇
食事を終えると、コマが「お屋敷を案内します!」と張り切って奈津を連れ出した。
長い廊下を歩きながら、あれが中庭で、向こうには皆が集まる広間があるのだと、ひとつひとつ教えてくれる。
先ほどまで向けられる視線に身を縮めていた奈津も、楽しそうに話すコマにつられ、いつしか少しだけ肩の力が抜けていた。
そんな時だった。廊下の先が、ふいに騒がしくなる。
「夜刀様がお戻りになったぞ」
行き交う鬼たちの声に、奈津は足を止めた。
「夜刀様?」
隣を見れば、コマの耳がぴくりと動く。
「九重様と同じ、紫鬼様の側近のおひとりです。しばらくお屋敷を留守にされていたんです」
「そうなのね」
奈津が何気なく廊下の先へ目を向けた、その時。
「――人間くせぇな」
低い声が響いた。
廊下の向こうから、一人の男がこちらへ歩いてくる。
長い黒髪に、獣を思わせる鋭い金の瞳。
背には、その身の丈に迫るほどの大太刀。
男――夜刀の金の瞳が、奈津を捉えた。
「……人間」
空気が変わった。
灰黒の鬼角が額から姿を現す。
その片方は、半ばから欠けていた。
次の瞬間、白刃が閃く。
奈津には、夜刀が大太刀へ手をかけたことすら分からなかった。
気づけば、冷たい切っ先が喉元へ突きつけられている。
「なぜ人間がここにいる」




