捨てられた私を拾ったのは、鬼の王でした
奈津は、ゆっくりと瞼を開いた。
最初に目に入ったのは、見覚えのない木目の天井だった。
障子の向こうから淡い朝の光が差し込み、部屋を薄く照らしている。
「……ここは……?」
掠れた声が零れる。
身体を起こそうと力を入れた途端、下腹部に鈍い痛みが走った。
「っ……」
奈津は咄嗟に腹を押さえる。
それをきっかけに、昨夜の記憶が一気に蘇った。
宗一と綾乃に、結界の森へ捨てられたこと。
妖に追われたこと。
黒い穢れに覆われ、見る影もない姿へ変わり果てた妖。
そして――白銀の髪と、深い紫の瞳。
『何者だ』
最後に聞いた、あの低い声。
(私……助かったんだ)
ぼんやりと周囲を見回した時、すぐ傍から小さな寝息が聞こえた。
「……?」
顔を向けた奈津は、目を見開く。
布団の傍らに、小さな子どもが丸くなって眠っていた。
濡れて乱れていた髪は綺麗に整えられ、その隙間から犬のような耳が覗いている。
身体を包むように、ふさふさとした尾が丸まっていた。
「……コマ」
昨夜、紫鬼がそう呼んでいた。
あの巨大で禍々しい姿からは、想像もできないほど幼い寝顔。
胸が、規則正しく上下している。
「……よかった」
安堵の息が零れた。
あの光が何だったのか、奈津自身にも分からない。
それでも、この子が生きていることが嬉しかった。
ぴくり、とコマの耳が動く。
「……ん……」
ゆっくりと瞼が持ち上がった。
昨夜のような血の色ではない。
淡い琥珀色の瞳が奈津を捉え――大きく見開かれる。
「目が覚めたんですね……!」
コマが勢いよく身を起こす。
「よかった……! 本当によかった……!」
ぱっと顔を輝かせたのも束の間、コマの表情が曇る。
小さな手を畳につき、深く頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「え……?」
「ぼく、あなたを……た、食べようとしたんです」
その肩が震えていた。
「本当に、ごめんなさい……」
「頭を上げて」
奈津は慌てて声をかける。
けれど、コマは中々顔を上げない。
奈津は少し迷ってから、続けた。
「でも、食べなかったでしょう?」
「……え?」
ようやく、コマが顔を上げる。
「あの時、あなたの牙はここまで来ていたのに、止まってくれた」
奈津は自分の喉元へ指を添えた。
あの時の恐怖は、今でもはっきりと覚えている。
その証拠のように、指先が微かに震えた。
「……あなた自身は、私を傷つけたくなかったんでしょう?」
「……っ」
琥珀色の瞳が揺れる。
「だから、もう謝らなくていいの」
「でも……」
「それより」
奈津はコマの身体を見つめた。
「もう、苦しくない?」
「ぼくの……心配をしてるんですか?」
「ええ。昨日、とても苦しそうだったから」
コマはぽかんと奈津を見つめ、それから小さく首を振った。
「……もう、どこも痛くないです」
奈津はほっと笑った。
「よかった」
コマが黙り込む。
琥珀色の瞳がじわりと潤んだ。
その時、襖の向こうから落ち着いた低い声がした。
「失礼いたします」
襖が開き、一人の男が入ってくる。
焦茶の長い髪を低い位置でゆるく束ねた、端正な顔立ちの男だった。
穏やかに細められた目元とは裏腹に、その立ち姿には隙がなく、自然と人を従わせるような威厳がある。
見た目は人間とそう変わらないのに、奈津には一目で分かった。
――妖だ。
男は奈津の前で、丁寧に一礼した。
「九重と申します。お加減はいかがですか?」
「九重……様」
「まだ、お身体は痛みますか?」
「……お腹が、少し」
奈津はそっと腹部へ手を添えた。
「腹部にひどい痣があると聞いております。かなり強く打たれたようですね」
その言葉に、奈津の指先が強張った。
宗一に蹴られた瞬間が蘇る。
『お姉様、もう子どもを授かるのは難しいかもしれないんですって』
そして、綾乃の楽しげな声まで。
奈津はそれ以上考えないよう、視線を落とした。
そこでようやく、自分が見覚えのない寝間着を着ていることに気づく。
その視線に気づいた九重が口を開いた。
「昨夜のお召し物は雨と泥で随分と汚れておりましたので、女中に頼んで着替えさせています。勝手をして申し訳ありません」
「い、いえ……そんな」
むしろ、礼を言うべきなのはこちらだ。
「ありがとうございます」
九重は傍らに置いた盆から椀を取り、奈津へ差し出した。
「こちらをどうぞ。薬湯です」
「薬湯……?」
「人間にも効くはずです。少々苦いですが」
奈津は、差し出された椀をじっと見つめた。
淡い褐色の液体から、薬草の匂いが立ち上っている。
手を伸ばしかけて、少しだけ躊躇う。
すると、傍らのコマが身を乗り出した。
「九重様の薬湯は、よく効くんですよ!」
「……そうなの?」
「はい! すっごく苦いですけど!」
「コマ」
九重に名前を呼ばれ、コマが慌てて付け足す。
「でも、本当によく効きます!」
その必死な様子に、奈津は思わず小さく笑った。
それから、今度こそ椀を受け取る。
「……いただきます」
恐る恐る口をつける。
「……っ」
舌に広がった強い苦味に、眉が寄った。
コマが心配そうに顔を覗き込む。
「……が、頑張ってください。あと少しです!」
その一生懸命な励ましに口元を緩ませ、奈津は薬湯を最後まで飲み干した。
苦味のあとから、じんわりとした温かさが喉を通り、冷えていた身体の奥へ染み込んでいく。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
九重は穏やかに微笑んだ。
奈津は椀を両手で包みながら、改めて周囲を見回す。
(……そういえば)
目を覚ましてから慌ただしくて、肝心なことをまだ何も聞いていなかった。
「あの……九重様」
「はい」
「ここは、どこなのでしょうか」
「堂目道家のお屋敷でございます」
奈津の手が止まった。
「堂目道家……?」
堂目道家。妖の頂点に君臨する鬼の一族の中でも、ひときわ強大な力を持つ名家として知られている。
(ここが……紫鬼様のお屋敷)
改めてその事実を実感し、胸が強張った。
「紫鬼様が……私をここへ?」
「ええ」
「どうして……」
九重は目を細める。
「それは、ご本人からお聞きになった方がよろしいでしょう」
「……え?」
「紫鬼様がお待ちです」
奈津の指先に力が入った。
「昨夜のことについて、いくつかお聞きしたいことがあるそうです」
昨夜は意識する余裕もなかったが、改めて堂目道家当主のもとへ向かうと思うと、心臓が大きく脈打つ。
それでも、知りたかった。
あの光は、何だったのか。どうして自分に、あんなことができたのか。
奈津は小さく息を吸った。
「……分かりました」
「ぼくも行きます!」
すぐさまコマが立ち上がる。
「あなたは休んでいなさい」
「でも……!」
「この方がお目覚めになるまで、ここにいたいと随分と無理をしたでしょう」
コマの耳が、ぺたりと下がる。
「……う」
「今は安静に」
「……はい」
尾まで分かりやすく垂れ下がった。
思わず奈津の口元が緩む。
「……またあとでね」
下がっていた耳が、ぱっと持ち上がった。
「はい!」
ふさふさの尾まで嬉しそうに揺れる。
その姿を見ていると、奈津の胸にも、ほんの少し温かなものが灯った。
◇
九重に付き添われ、奈津は長い廊下を歩いていく。
磨き上げられた板張りの廊下の向こうには、朝露に濡れた庭が広がっていた。
昨夜の雨が嘘のように、木々の葉が陽の光を受けて瑞々しく輝いている。
石灯籠の傍では、庭師らしい男が伸びた枝を丁寧に剪定していた。
廊下では女中たちが盆や洗濯物を手に行き交い、少し離れた門の傍には、警護を務めているらしい者たちの姿もある。
一見すれば、人間の屋敷とそう変わらない。
けれど、すれ違った女中の額からは小さな角が覗いていた。
庭師にも、警護の者にも、形こそ違えど角が生えている。
ここにいるのは、皆――鬼なのだ。
「……あれが?」
「紫鬼様がお連れになったという人間か」
「なぜ、人間などを……」
抑えた囁き声が聞こえ、奈津はびくりと肩を強張らせた。
すれ違う者たちが、次々とこちらを振り返る。
好奇の目。警戒するような目。
中には、露骨に不快そうな表情を浮かべる者もいた。
奈津は居心地の悪さに、視線を伏せる。
堂目道家は、これまで人間の娘を花嫁として迎えたことがない。
強い浄化の力を持つ娘との縁を望む妖は多いが、この家だけは人間との婚姻を必要としてこなかったと聞いている。
そんな屋敷に突然、人間の奈津が連れてこられたのだ。
(……歓迎されていない)
それだけは、嫌でも分かった。
すると、少し前を歩いていた九重が足を緩める。
「お気になさらず」
「……え?」
「皆、人間がこの屋敷にいることに慣れていないだけです」
柔らかな口調だった。
「少なくとも、私がお連れしている間にあなたへ危害を加える者はいません」
「……はい」
奈津は小さく頷いた。安心したとは、とても言えない。
それでも九重の言葉に縋るように、奈津は顔を上げ、その後をついていった。
◇
「紫鬼様。奈津様をお連れしました」
「入れ」
低い声が返ってくる。
九重が襖を開く。
部屋の奥に、紫鬼が座っていた。
昨夜見た漆黒の角も、紫色の刃もない。
白銀の髪をさらりと下ろし、墨色の装束を纏っている。
それでも、部屋へ一歩踏み入れただけで、奈津の背筋は自然と伸びた。
纏う空気そのものが、ほかの妖とは明らかに違っていた。
奈津は少し離れたところへ腰を下ろし、深く頭を下げる。
「あの……昨夜は、助けていただきありがとうございました」
「礼は要らない」
紫鬼は淡々と答えた。
「昨夜のことを、覚えているか」
「……はい」
「なら、話は早い」
深い紫の瞳が奈津を射抜く。
「お前は、何をした?」
「……え?」
「コマを元へ戻した、あの力だ」
奈津は膝の上で指を握る。
「……分かりません」
紫鬼の眉が動いた。
「分からない?」
「はい。本当に……自分でも何が起きたのか」
奈津は自分の手のひらへ目を落とした。
昨夜。ここから溢れ出した、淡く温かな光。
「あの子を助けたいと思って……触れたら、突然」
「浄化の力は?」
奈津は顔を上げた。
「ありません。少なくとも、これまで一度も現れたことはありません」
紫鬼の視線が細くなる。
「お前は、どこの家の者だ」
「九条家です」
その名を聞き、九重の表情が変わった。
「九条……祓い師の家ですね」
「はい」
奈津は小さく頷く。
「妹には、とても強い浄化の力があります。でも、私は……何も」
言葉にすると、昔から胸の奥にあった痛みがまた疼いた。
紫鬼は奈津を見つめたあと、九重へ視線を向ける。
「九重」
「はい」
九重が奈津へ向き直った。
「昨夜、コマの身体から穢れが完全に消えておりました」
「……完全に?」
「ええ」
先ほどまでの柔らかな笑みが、九重の顔から消える。
「それだけではありません。昨夜のコマは、完全に異形化していたと伺っております。
あそこまで異形化が進んだ妖が、本来の姿へ戻るなど、通常ではあり得ません」
それは、人間の間でも常識として知られていることだった。
異形化した妖は――二度と元には戻らない。
「どれほど強い浄化の力を持つ者であっても、です」
奈津の胸が、どくりと鳴った。
「でも……コマは」
「戻った」
紫鬼が言い切る。
「お前が触れて、元の姿に」
奈津は言葉を失った。
九重が言葉を継ぐ。
「古い記録に、似た力について記されたものがあります」
「……似た力?」
「ええ。穢れに呑まれた妖そのものを傷つけることなく、その身を蝕む穢れだけを取り除く力です」
奈津の指先が震えた。
昨夜、自分が確かに感じたもの。
穢れの奥に、まだ残っていたコマ自身。
「その力を持つ者は――《癒し子》と呼ばれていたそうです」
「……癒し子」
奈津は、その言葉を小さく繰り返した。
初めて聞く言葉だった。
「ただし」
紫鬼が口を開く。
「お前がそうだと決まったわけではない」
「……はい」
「記録そのものが古い。実際にその力を見た者も、今はほとんど残っていない」
紫鬼は奈津を見る。
「だが、普通の浄化ではなかった。それだけは確かだ」
奈津は再び、自分の手を見る。
自分には何もない。そう思って生きてきた。
(そんな私に……?)
まだ、信じられない。
「それより」
紫鬼の声で、奈津は顔を上げた。
「なぜ、お前は結界の森にいた」
「……っ」
身体が強張る。
やはり、聞かれると思っていた。
「自ら入ったわけではないな」
奈津は息を詰めた。
紫鬼の目が、奈津の手首へ向く。
縄で擦れた赤い痕が、まだ残っていた。
「……はい」
思い出したくはなかった。
けれど、ここまで助けてもらっておきながら、何も話さないわけにはいかなかった。
「……捨てられました」
紫鬼はしばらく奈津を見つめた。
「誰に」
「妹と……婚約者に」
九重の表情が、そこで初めて険しくなった。
「妖に喰われれば、跡形も残らないから……そうすれば、都合がいいと」
それ以上、上手く言葉にならなかった。
部屋に沈黙が満ちる。
紫鬼は何も言わない。
怒っているのか、呆れているのか、その表情からは読み取れなかった。
やがて、短く問う。
「帰る場所は」
奈津の肩が揺れた。
「……ありません」
九条家へ戻ったところで、父が自分より綾乃を庇うことは目に見えていた。
宗一の元へなど、戻れるはずもない。
「もう、どこにも」
声にした途端、胸の奥がひどく冷えた。
俯いた奈津へ、紫鬼の声が落ちる。
「なら、しばらくここにいろ」
「え?」
奈津は思わず顔を上げた。
紫鬼は変わらぬ表情でこちらを見ている。
「コマを戻した力が何なのか、確認する必要がある」
紫鬼は淡々と続ける。
「正体も分からないまま、外へ出すつもりはない」
「ここに……いても、いいんですか?」
紫の瞳が、まっすぐ奈津を捉える。
「今はな」
ただ、それだけだった。
それでも、誰にも必要とされず、最後には妖の餌として捨てられた奈津には――十分すぎる言葉だった。
「ですが、紫鬼様」
九重が、そこで口を挟んだ。
「人間の娘を、対外的な理由もなくこの屋敷へ置いておくわけにはまいりません」
「なら、理由を作ればいい」
紫鬼は即座に答えた。
「理由……?」
奈津が目を瞬く。
紫鬼は、何でもないことのように告げた。
「お前は、俺の花嫁だ」
「…………え?」




