異形の妖に、手を伸ばして
雨は、なおも激しく降り続いていた。
奈津は後ろ手に縛られたまま、ぬかるんだ森の中を必死に走っていた。
枝が頬を掠め、傷めた腹が揺れるたびに鋭く痛む。
それでも、立ち止まることだけはできなかった。
「はっ……は……っ」
背後から、低い唸り声が追ってくる。
暗闇の中に、いくつもの赤い目が浮かんでいた。
(追いつかれる……っ)
恐怖に喉が引きつった、その時。
前方の茂みが大きく揺れ、ばきりと太い枝が折れた。
ずしん、と重い何かが地面を踏みしめるたび、足元の泥が微かに震える。
奈津を追っていた妖たちが、一斉に動きを止めた。
怯えたように低く唸り、一匹が後ずさった次の瞬間、ほかの妖たちも次々と森の奥へ逃げていく。
「え……」
奈津が安堵しかけた、その時。
逃げていった妖たちとは反対側――深い闇の中に、二つの赤い光が灯った。
「……っ」
ゆっくりと、それが姿を現す。
最初に見えたのは、泥に沈むほど太い前脚だった。
黒ずんだ毛の隙間から瘤のような肉が覗き、関節はあり得ない方向へ歪んでいる。
辛うじて犬の類だとは分かるものの、頭部は異様に膨れ、裂けた口には鋭い牙が並んでいた。
さらに全身を、墨を流したような黒い穢れが這い回っている。
ずしり、と異形が一歩踏み出す。
巨大な身体が、不自然に軋んだ。
先ほどの妖たちは――これを恐れて逃げたのだ。
「ひ……」
奈津の膝が震えた。
異形の赤い目がぎょろりと奈津を捉え、腹の底まで響くような唸り声を上げる。
次の瞬間、異形は地面を蹴り、奈津めがけて飛びかかってきた。
「――っ!」
巨大な影が瞬く間に迫る。
奈津は咄嗟に身を縮め、固く目を閉じた。
このまま、喰われる――。
そう覚悟したのに、いつまで経っても牙が身体へ食い込むことはなかった。
「……?」
恐る恐る目を開ける。
異形は、奈津の喉元すれすれで動きを止めていた。
鋭い牙を剥き出しにしたまま、大きな身体を小刻みに震わせている。
「ぐ……ぅ……」
襲いかかろうとしては、何かに抗うように顔を逸らし、また奈津へ向き直る。
まるで、自分自身と戦っているようだった。
奈津は息を呑んだ。
昨夜の妖が脳裏をよぎる。
あの妖も、異形化する直前まで自らの腕を押さえ込み、誰かを傷つけまいとしていた。
けれど、目の前の妖はもう、人の面影すらほとんど残っていない。
本来なら、とっくに理性を失っているはずなのに。
(それでも……まだ、自分が残ってる?)
赤く濁った瞳が、苦しげに揺れる。
「私を……襲いたくないの?」
その問いに答えるように、異形の身体が大きく震えた。
黒い穢れが全身から滲み出し、そのたびに身体が痙攣する。
その時だった。
「コマ!」
鋭い声が、激しい雨音を切り裂いた。
異形がびくりと身を震わせる。
奈津も弾かれたように振り返った。
木々の間から、一人の男が現れる。
最初に目を奪われたのは、雨に濡れてなお月光のように映える白銀の髪だった。
墨色を基調とした上等な装束を纏い、すらりとした長身からは、この雨の森すら圧するような存在感が放たれている。
「……あ……」
奈津は息を呑んだ。
昼間、町で見かけた男だった。
人々がこぞって道を空け、綾乃が熱っぽい眼差しを向けていた、堂目道家当主。
紫鬼。
紫鬼が一歩踏み出しただけで、周囲に残っていた妖の気配がさらに遠ざかっていく。
まるで、この森にいるすべての妖が彼へ道を譲っているかのようだった。
「……コマ」
紫鬼が、もう一度その名を呼ぶ。
目の前の異形が、苦しげに喉を鳴らした。
「ぐ……ぅ……」
赤く濁った瞳が紫鬼を捉えた途端、その巨体が激しく震え始める。
まるで――その声を覚えているかのように。
紫鬼もまた、コマから目を逸らさない。
けれど、その顔に浮かんでいたのは安堵ではなかった。
「……遅かったか」
押し殺したような呟き。
その視線は、コマの全身を覆う黒い穢れへ向けられていた。
コマが一歩、紫鬼へ近づこうとした瞬間。
「ガァァアアッ!」
耳を劈く咆哮が響く。
黒い穢れが激しく蠢き、コマの身体が大きく仰け反った。
巨大な爪が地面へ食い込む。
紫鬼へ飛びかかろうとしている。
それなのに前へ進まず、身体の内側にある何かと争うように、四肢を震わせながら必死に踏みとどまっていた。
紫鬼の目が僅かに細められる。
「……もういい」
静かな声だった。
「十分だ」
コマの耳らしきものが、ぴくりと動く。
紫鬼が片手を上げると、森の空気が一変した。
「……っ!」
奈津は反射的に息を呑む。
紫鬼の身体から、凄まじい妖気が溢れ出した。
目には見えないはずの力が、肌を刺すほど濃く辺りを満たしていく。
白銀の髪がふわりと浮き上がり、その隙間から二本の漆黒の角が姿を現した。
「……鬼」
奈津の唇から、掠れた声が零れる。
妖の中でも、頂点に立つ種族。
やがて紫鬼の掌へ紫色の光が集まり、一本の刃を形作っていく。
その切っ先が、コマへ向けられた。
「……何を……」
「これ以上、苦しませるくらいなら」
紫鬼はコマだけを見つめていた。
「俺が終わらせる」
「待って!」
気づけば、奈津は叫んでいた。
紫鬼の腕が止まる。
深い紫の瞳が、初めて奈津を正面から捉えた。
「……何だ」
冷たい声に、奈津の喉が詰まる。
「この子は、まだ……」
「下がれ」
「でも――」
「近づくな。喰われるぞ」
淡々とした口調だった。
奈津を心配しているというより、当然の事実を告げているだけのようにも聞こえる。
それでも、奈津は首を横に振った。
「この子、さっき私を襲おうとしました。でも、途中で止まったんです」
奈津は喉元へ手をやる。
「この子自身が……私を襲わないように」
紫鬼は何も答えなかった。
ただ、刃を握る指に僅かに力がこもる。
「だったら、まだ助けられるんじゃ――」
「だからこそだ」
「……え?」
「まだ自分が残っているうちに、終わらせる」
紫鬼の瞳がコマへ戻る。
「ここまで穢れに呑まれた妖は、浄化の力でも元には戻せない」
低い声が雨の中へ落ちた。
それは、奈津も知っていた。
昨夜もそうだった。
ほんの少し前まで理性を残していた妖が、完全に異形化した途端、もう浄化では戻せないと告げられた。
そして奈津は、何もできないまま、その命が絶たれるのを見ていることしかできなかった。
奈津はコマを見る。
真っ黒な穢れに覆われ、原形さえ失いかけた姿。
昨夜の妖よりも、ずっとひどい。
それでもこの妖は、自分を襲うのを止めた。
もう戻れない。
(本当に……?)
穢れに覆われてしまったら、その者自身まで消えてしまったことになるのだろうか。
その時、胸の奥に沈んでいた遠い記憶が、不意に蘇った。
◇
まだ佐代子が生きていた頃、奈津は一度、結界の森について尋ねたことがある。
『奈津。結界の森には、決して近づいてはいけませんよ』
穢れに呑まれ、理性を失った妖たちがいる場所。
幼い奈津は、佐代子の袖をぎゅっと掴んだ。
『……そこにいる妖は、みんな悪い妖なの?』
佐代子は静かに首を横に振った。
『いいえ。穢れに呑まれて、本当の心を見失ってしまっているだけよ』
そう言って、奈津の頭を優しく撫でる。
『覚えておいて、奈津。穢れと、その者自身を同じものだと思ってはいけません』
◇
「……違う」
奈津の唇から、無意識に言葉が零れた。
紫鬼がこちらを見る。
「何?」
「この子と……この黒いものは、違います」
禍々しい穢れの奥には、まだ。
先ほど自分を襲うことを必死に堪えた、この妖自身がいる。
佐代子の言葉が、奈津の中に残っていた。
(……まだ、助けられる)
根拠など何もない。
それでも、不思議なほど強くそう思えた。
「これが……穢れなんですよね」
紫鬼の瞳が僅かに揺れる。
奈津は一歩、コマへ近づいた。
「近づくな」
即座に低い声が飛ぶ。
けれど、足は止まらなかった。
「戻れ」
今度は、はっきりとした警告だった。
それでも、一歩。
さらに一歩と進む。
紫鬼の目が鋭く細められた。
「死にたいのか」
「……死にたくなんて、ありません」
声は情けないほど震えていた。
死にたくない。
つい先ほどまで、本気で生きたいと願って逃げていたのだから。
「でも……この子を、このまま死なせたくないんです」
紫鬼は僅かに眉を寄せた。
「人間のお前に、何ができる」
「……分かりません」
奈津は唇を噛む。
「私には、浄化の力さえありませんから」
これまで一度だって、何か特別な力を感じたことはない。
だからこそ、自分には何もできないのだと、ずっと思ってきた。
それでも、胸の奥に芽生えた感覚だけは消えなかった。
怖い。
近づけば、今度こそ襲われるかもしれない。
それでも――この子は、自分を殺さなかった。
あの一瞬を信じたかった。
「何ができるかは、分かりません。でも……」
奈津は震える息を吐いた。
「何もしないまま、諦めたくないんです」
この子が、自分を傷つけまいと抗ってくれたのなら。
奈津も、この子をここで諦めたくなかった。
助けたい。
ただ、強くそう思った。
白い雨の帳が、森の中を幾重にも落ちていく。
紫鬼はしばらく奈津を見つめていた。
何を考えているのかは分からない。
やがて、紫色の光が奈津の視界を鋭く横切った。
「……っ!」
頬を撫でるように風が抜ける。
ぼとり、と手首を締めつけていた縄が泥の上へ落ちた。
「……え?」
自由になった両手を見て、奈津は紫鬼を振り返る。
紫鬼は何も言わない。
ただ、手にした紫の刃を下ろしていた。
止めはしない。
けれど、コマが奈津へ襲いかかれば、その時は迷わず斬るつもりなのだろう。
奈津は再び、コマへ向き直った。
赤く濁った瞳。
剥き出しの牙。
「でも……あなた、苦しいんでしょう?」
赤い瞳が、僅かに揺れた。
奈津はコマの前へ膝をつく。
「大丈夫」
今度は、自分自身にも言い聞かせるように。
「私は、あなたを傷つけないから」
そして、震える指先が黒く濡れた毛へ触れた。
「……っ!」
胸の奥で、何かが弾けた。
次の瞬間。
眩い光が、奈津の身体から溢れ出す。
「――!」
背後で、紫鬼が初めて息を呑んだ。
淡く柔らかな光が、雨の森を満たしていく。
包み込むように温かな光。
「なに……これ……」
奈津自身にも分からない。
けれどコマへ触れた瞬間から、不思議と感じ取れた。
苦しみ。
痛み。
恐怖。
そして、そのすべてに絡みつく、冷たく黒いもの。
(これが……穢れ)
そのさらに奥に、今にも消えそうになりながら、それでも確かに残っているものがあった。
穢れに覆われ、小さく身を縮めて震えている。
――まだ、ここにいる。
奈津は目を閉じた。
(お願い)
やり方など知らない。
浄化の力など、自分にはないはずだった。
それでも願うことは、ただひとつ。
(この子を――助けたい)
コマの身体を覆っていた黒い穢れが、大きく波打った。
「ガァァアアッ!」
凄まじい咆哮に身体が震える。
それでも奈津は手を離さなかった。
「コマ!」
背後から紫鬼の声が飛ぶ。
黒い穢れが、逃げ場を探すようにコマの全身を激しく這い回る。
やがて、一筋。また一筋。
黒いものだけが、皮膚から浮かび上がり始めた。
「……!」
まるで、そこにあるべきではないものだけを、奈津の光が見分けているかのように。
穢れはコマの身体から引き剥がされ、淡い光の中で霧のように消えていく。
それに伴い、異様に膨れ上がっていた四肢が縮み、牙も爪も、歪んでいた輪郭も少しずつ本来の形へ戻っていった。
残る穢れは、胸元にしがみつく最後の黒い塊だけ。
「お願い……」
奈津はコマへ触れた手に力を込める。
「この子から、離れて……!」
その願いに応えるように、淡い光がひときわ強く輝いた。
最後の穢れが、ゆっくりとコマの身体から浮かび上がる。
やがてそれは、ふっと光の中へ溶けるように消えた。
同時に、雨が止んだ。
森を満たしていた雨音が嘘のように消え、辺りに静寂が落ちる。
奈津は眩しさに目を閉じた。
やがて光が収まり、恐る恐る瞼を開く。
雲の切れ間から、淡い月明かりが差し込んでいた。
そして、その光の下には――。
「……え」
奈津は息を呑んだ。
そこに、あの巨大な異形の姿はなかった。
泥の中に横たわっていたのは、小さな子どもの姿をした妖だった。
目を閉じた幼い顔に、濡れた髪の間から覗く犬のような耳。
ふさふさの尾も、今は力なく地面へ垂れている。
あれほど禍々しい姿に変わり果てていたとは思えないほど、幼くあどけない姿だった。
「……コマ」
紫鬼の声が、静かな森に落ちる。
すぐさまその傍らへ膝をつき、もう一度名を呼んだ。
「コマ」
頬へ触れる指先が、僅かに震えていた。
「……し、き……さま……」
コマの唇が、微かに動く。
「……!」
紫鬼の深紫の瞳が揺れた。
(……生きてる)
奈津も傍らからその姿を見つめた。
異形化していた身体は、完全に元へ戻っている。
「……よかった」
安堵した途端、視界が大きく揺れた。
腹の傷はずきずきと痛み、手足にはもうほとんど力が残っていない。
それに加え、先ほどまで身体の内側を満たしていた光が一気に失われたような、強い倦怠感が押し寄せる。
「……っ」
足から力が抜け、奈津の身体が傾いた。
地面へ倒れ込む――そう思った瞬間、目の前に影が差す。
次の瞬間、奈津の身体は逞しい腕にしっかりと支えられていた。
奈津はぼんやりと紫鬼を見上げる。
昼間は、自分とは決して縁のない存在だと思っていた人。
夜を溶かしたように深い紫の瞳に、自分の顔が映っている。
恐ろしい。
なのに――なぜか、逃げたいとは思わなかった。
その瞳には驚愕と警戒、そして理解できないものを目の当たりにしたような色が宿っていた。
「……お前」
紫鬼の腕に、僅かに力がこもる。
「何者だ」
その問いに答えることもできないまま、奈津の意識は再び深い闇へと沈んでいった。




