出来損ないの私は、妖の餌として捨てられた②
九条家へ戻る頃には、陽も傾き始めていた。
奈津が屋敷へ入ると、客間に見知った青年の姿があった。
「宗一さん……?」
正臣と向かい合っていた宗一が、奈津に気づいて顔を上げる。
「奈津」
その表情がふっと和らいだ。
「昨日は大丈夫だったか?」
「え?」
「妖に吹き飛ばされていただろう。肩を打っていたように見えた」
「あ……大丈夫です。少し痛むくらいで」
「そうか」
宗一は安堵したように息をついた。
「傷でも残ったら大変だ。無理はするなよ」
「……ありがとうございます」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
宗一だけは、昔から奈津に優しかった。
浄化の力がなくても。
出来損ないと呼ばれていても。
宗一だけは奈津を蔑むことなく接してくれた。
だからいつしか、奈津にとって彼は特別な存在になっていた。
「それで、今日宗一くんが来たのは――」
「僕から言わせてください」
宗一が正臣の言葉を遮り、奈津へ向き直る。
「奈津」
「……はい」
真っ直ぐ向けられた視線に、胸が高鳴った。
「僕と、結婚してくれませんか」
「……え?」
奈津は目を見開いた。
まさか、自分がそんな言葉を向けられる日が来るなんて思ってもいなかった。
「でも……私には、浄化の力がありません」
「分かってる」
宗一は迷いなく答えた。
「そんなものがなくてもいい。僕は、奈津がいいんだ」
――僕は、奈津がいい。
その言葉が、ずっと居場所を持てなかった奈津の心へ深く染み込んだ。
「……私で、いいんですか?」
「ああ。そう言ってるだろ」
宗一は優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、奈津の目に涙が滲んだ。
この人となら。
この家を出て、新しい人生を始められるかもしれない。
自分にも、ようやく居場所ができるのかもしれない。
「……はい」
奈津は震える声で答えた。
「私でよければ……よろしくお願いします」
「よかったわね、お姉様」
祝福するような、優しい声。
振り返ると、綾乃が微笑んでいる。
奈津はまだ知らなかった。
その笑顔の奥で、綾乃が何を思っていたのかを。
◇
九条家へ戻る頃には、陽も傾き始めていた。
奈津が屋敷へ入ると、客間に見知った青年の姿があった。
「宗一さん……?」
正臣と向かい合っていた宗一が、奈津に気づいて顔を上げる。
「奈津」
その表情がふっと和らいだ。
「昨日は大丈夫だったか?」
「え?」
「妖に吹き飛ばされていただろう。肩を打っていたように見えた」
「あ……大丈夫です。少し痛むくらいで」
「そうか」
宗一は安堵したように息をついた。
「傷でも残ったら大変だ。無理はするなよ」
「……ありがとうございます」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
宗一だけは、昔から奈津に優しかった。
浄化の力がなくても。
出来損ないと呼ばれていても。
宗一だけは奈津を蔑むことなく接してくれた。
だからいつしか、奈津にとって彼は特別な存在になっていた。
「それで、今日宗一くんが来たのは――」
「僕から言わせてください」
宗一が正臣の言葉を遮り、奈津へ向き直る。
「奈津」
「……はい」
真っ直ぐ向けられた視線に、胸が高鳴った。
「僕と、結婚してくれませんか」
「……え?」
奈津は目を見開いた。
まさか、自分がそんな言葉を向けられる日が来るなんて思ってもいなかった。
「でも……私には、浄化の力がありません」
「分かってる」
宗一は迷いなく答えた。
「そんなものがなくてもいい。僕は、奈津がいいんだ」
――僕は、奈津がいい。
その言葉が、ずっと居場所を持てなかった奈津の心へ深く染み込んだ。
「……私で、いいんですか?」
「ああ。そう言ってるだろ」
宗一は優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、奈津の目に涙が滲んだ。
この人となら。
この家を出て、新しい人生を始められるかもしれない。
自分にも、ようやく居場所ができるのかもしれない。
「……はい」
奈津は震える声で答えた。
「私でよければ……よろしくお願いします」
「よかったわね、お姉様」
祝福するような、優しい声。
振り返ると、綾乃が微笑んでいる。
奈津はまだ知らなかった。
その笑顔の奥で、綾乃が何を思っていたのかを。
◇
その日の夕刻から、空模様が急に崩れ始めた。
正臣と明美は以前から決まっていた用事で屋敷を空けており、激しくなった雨のため、宗一も九条家へ泊まることになった。
夜も更けた頃。
厠へ立った奈津は、自室へ戻る途中で足を止めた。
雨音に紛れて、微かな笑い声が聞こえる。
女の、押し殺したような声。
――綾乃?
声は、綾乃の部屋から聞こえていた。
襖が僅かに開いている。
「宗一様ったら……」
甘えるような声に、奈津の胸がざわついた。
そっと隙間へ目を向け――息を呑む。
宗一が、綾乃の腰を抱き寄せていた。
綾乃の白い腕が、宗一の首へ絡んでいる。
「昼間、お姉様に結婚を申し込んだばかりなのに」
「……仕方ないだろ」
「ふふ。じゃあ、やめる?」
「それはできない」
「どうして?」
綾乃が試すように問う。
宗一は一瞬黙り込んだ。
「……分かってるだろ」
その言葉の意味を、奈津が考えるより早く。
綾乃が背伸びをして、宗一の唇へ自分の唇を重ねた。
「……っ」
奈津の喉から、掠れた息が漏れる。
その小さな音に、宗一が振り向いた。
「奈津……?」
綾乃も奈津を見た。
一瞬だけ目を見開いたあと、その口元へゆっくりと笑みが浮かぶ。
「あら、お姉様」
ほんの数刻前、自分へ結婚してほしいと言った人が。
今は、妹を抱いている。
「……綾乃のことが、お好きなんですね」
声にした途端、胸がひどく痛んだ。
けれど同時に、心のどこかで「やっぱり」と呟く自分もいた。
綾乃は昔から、奈津の持つものを何でも欲しがった。
今回も、それが宗一だっただけなのかもしれない。
「でしたら……私は身を引きます」
宗一が眉を寄せる。
「奈津?」
「綾乃のことがお好きなら、私と結婚する必要はありません」
奈津は震えそうになる声を押さえた。
「婚約は、なかったことにしてください」
その瞬間。
宗一の表情から、狼狽が消えた。
「……は?」
それまで一度も聞いたことのない低い声に、奈津の肩が震える。
「今、なんて言った?」
「こ、婚約を……解消してくださいと」
「勝手なことを言うな」
奈津は目を見開いた。
「僕がお前のために、いくら結納金を払ったと思ってる」
「……結納金?」
「出来損ないのお前なんかのために、久世家がどれだけ無理をしたと思ってるんだ」
――出来損ない。
胸の奥で、何かが崩れた。
宗一だけは。
この人だけは、自分をそんな風に見ていないと思っていたのに。
「……だったら、どうして私に結婚を……?」
宗一は苛立ったように息を吐いた。
「綾乃を僕がもらえるわけがないだろ」
「……え?」
「今の久世家じゃ、綾乃ほどの娘を嫁にもらえる格じゃない。だから、お前にしたんだ」
奈津の顔から血の気が引いた。
「お前なら九条家も手放す。お前を通して九条家と縁を結べれば、それで十分だった」
「そんな……」
「まさか、自分自身にあれだけの結納金を払う価値があるとでも思ってたのか?」
奈津は震える指を握りしめた。
「……それなら、なおさら婚約はなかったことにしてください」
宗一のこめかみが、ぴくりと引きつる。
「勝手なことを言うな」
宗一がこちらへ歩み寄る。
その目を見た瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
今まで知っていた優しい顔とは、まるで別人だった。
奈津は咄嗟に踵を返す。
「待て」
腕を強く掴まれた。
「離してください……!」
「お前は黙って僕の妻になればいいんだ」
「嫌です……!」
奈津は必死に振りほどこうとした。
「私は、あなたとは結婚しません!」
宗一の顔が歪む。
「出来損ないが、僕に逆らうな!」
強く突き飛ばされ、奈津の身体が畳へ倒れ込んだ。
咄嗟に身を起こそうとした、その時。
腹部へ鈍い衝撃が走った。
「――っ!」
息が止まる。
下腹部の奥から、焼けるような痛みが広がった。
奈津は腹を押さえ、その場に蹲る。
「宗一、様……」
震えながら顔を上げると、宗一が冷たい目で奈津を見下ろしていた。
「誰のおかげで、お前みたいな女に嫁ぎ先ができたと思ってる」
――この人は、自分を救ってくれる人などではなかった。
最初から、一度だって。
「ふふ……」
小さな笑い声に、奈津は視線を向けた。
綾乃は止めようともせず、楽しそうに笑っている。
奈津が大切なものを奪われるたび、何度も見てきた顔だった。
腹の奥が痛む。
雨音が遠ざかっていき、奈津の意識は闇へ沈んだ。
◇
がたん。
身体が大きく揺れた。
「……ぅ……」
腹が痛い。
頭も重い。
何より、身体が一定の間隔で揺れている。
(……馬車?)
奈津ははっと目を開けた。
暗い車内。湿った木の匂い。
そして自分は、馬車の床へ横向きに転がされている。
両手は、後ろ手に縛られていた。
「あら」
向かいから楽しげな声がする。
顔を上げると、宗一と綾乃が並んで座っていた。
「お目覚め?」
「綾乃……」
「そのまま目を覚まさない方が、幸せだったかもしれないのに」
奈津は必死に身体を起こす。
下腹部に鋭い痛みが走った。
「お姉様が寝ている間に、お医者様に診てもらったの」
奈津の表情が強張る。
「命に別状はないそうよ。ただ――」
綾乃はわざとらしく言葉を切った。
「もう子どもを授かるのは難しいかもしれないんですって」
「……子ども……?」
「浄化の力もない。そのうえ、子どもまで望めないかもしれないなんて」
綾乃は哀れむように笑った。
「お姉様、本当に何もなくなっちゃったわね」
奈津は呆然と、自分の腹へ視線を落とした。
まだ考えたことすらない未来。
それでも、その可能性を一方的に奪われたのだと思うと、身体の芯が冷えた。
「一体……どこへ向かっているの?」
二人は答えない。
窓の外へ目を向けても、激しい雨でほとんど何も見えない。
それでも分かった。九条家へ向かう道ではない。
「綾乃……何をするつもりなの……?」
「だって私、これから大事な時期なのよ」
綾乃は亜麻色の髪を弄びながら続ける。
「どんな高位のお方から縁談が来るか分からないでしょう? 外で好き勝手に吹聴されたら困るのよね」
「だったら……最初から、こんなことをしなければ……」
綾乃の笑みが消えた。
「……何?」
「宗一様が欲しかったのなら……私との婚約をやめてからでも、よかったでしょう?」
「だって」
綾乃は愛らしく首を傾げた。
「お姉様があんなに嬉しそうにしていたから」
そして、にっこり笑う。
「お姉様が大事にしてるものって、どうしてか欲しくなっちゃうのよね」
奈津は宗一を見る。
けれど宗一は目を逸らした。
「……仕方ないだろ。お前が黙って僕と結婚すると言えば、こんなことにはならなかった」
馬車の速度が落ち始める。
奈津の心臓が、嫌な音を立てた。
「お姉様」
綾乃が遮るように呼ぶ。
「私、考えたの。何が一番の正解なのか」
「……何を……」
「答えは、とても簡単だったわ」
綾乃はにっこりと笑った。
「お姉様が、自分からいなくなればいいの」
奈津の背筋が冷たくなる。
「不慮の怪我で、子どもを望むことが難しくなってしまった。婚約したばかりだったお姉様は、宗一様に申し訳ないとひどく思い詰めて――」
綾乃の笑みが深まる。
「自ら結界の森へ入っていった」
奈津は息を呑んだ。
《結界の森》。
穢れに呑まれ、異形化した妖たちが閉じ込められている場所。
一度中へ入れば、祓い師が結界を解かない限り、人の力では外へ戻れない。
そんな場所へ生身の人間が放り込まれれば――待っているのは、死だけだ。
「……私を、殺すつもりなの?」
「まあ」
綾乃は目を丸くする。
「人聞きの悪いことを言わないで。私たちが殺すわけじゃないわ」
楽しそうに笑った。
「妖が勝手に、お姉様を喰べるだけ」
ぞっと、全身から血の気が引いた。
馬車が止まる。
扉が開き、冷たい雨と湿った森の匂いが一気に流れ込んできた。
「嫌……」
「降りろ」
宗一が冷たく告げる。
「嫌です……! 宗一様、お願いです。九条家にも何も言いません。だから――」
宗一は無言で奈津の腕を掴んだ。
「やめてっ!」
後ろ手を縛られ、怪我までしている奈津に抗えるはずもない。
引きずられるように馬車から降ろされ、激しい雨が一瞬で全身を濡らした。
少し離れたところには、淡く光る巨大な壁のような結界が見える。
あの向こうへ入れば、もう戻れない。
「いや……嫌……!」
宗一は奈津を結界へ向かって引きずっていく。
その後ろから、綾乃がゆっくりと馬車を降りた。
深紅の傘を差し、この激しい雨の中で、綾乃だけがほとんど濡れていない。
「やめて……お願い……」
必死に首を振る奈津を、宗一が見つめる。
そこには、かつての優しい面影など欠片もなかった。
「お前さえいなくなれば、全部丸く収まるんだ」
奈津の身体から、ふっと力が抜けた。
『僕は、奈津がいい』
あの言葉が、今になってひどく遠く感じる。
――最初から。
私を選んでくれた人なんて、どこにもいなかった。
「さあ、お姉様」
綾乃が隣へやってくる。
傘の下から、嬉しそうに奈津を覗き込んだ。
「お別れですわね」
「綾乃……」
「出来損ないのお姉様」
綾乃の唇が、美しく弧を描く。
「最後には役に立ててよかったわね」
その白い手が、奈津の背中へ触れた。
「――妖の餌として」
「……!」
とん、と軽く背中を押される。
傷を負い、ぬかるんだ足場に立っていた奈津には、それだけで十分だった。
「あっ――」
次の瞬間には、結界の内側へ踏み越えていた。
斜面を滑り落ち、泥の中へ投げ出される。
「……っ!」
奈津は慌てて身体を起こし、斜面を這うように戻った。
「待って……!」
結界へ手を伸ばす。
けれど、見えない壁に弾かれた。
戻れない。
雨の向こうには、宗一と綾乃がいる。
「待って……お願い……!」
綾乃は微笑んだまま背を向け、宗一も何も言わず馬車へ戻った。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと遠ざかっていく。
「行かないで……」
奈津は結界へ縋るように手を伸ばした。
けれど、その声が届くことはない。
やがて馬車の姿は、完全に見えなくなった。
あとに残ったのは、激しい雨音と。
人の世界から隔てられた森に、たった一人取り残された奈津だけだった




