出来損ないの私は、妖の餌として捨てられた
満開の桜が、風に揺れていた。
奈津の髪に降りた桜の花びらを、大きな手がそっと摘む。
触れた指先はそのまま、愛おしむように奈津の頬をなぞった。
「奈津」
「……はい」
息を呑むほど、美しい。
白銀の髪を春風に揺らし、深い紫の瞳がただひとり――奈津だけを映していた。
「俺の花嫁になってくれるか」
出来損ないだと言われ続けた。
誰にも必要とされないと思っていた。
そんな私を、必要としてくれる場所があった。
そばにいたいと思う——この鬼の隣に。
「……っ」
奈津の目に、じわりと涙が滲んだ。
それでも今度は、悲しくて流す涙ではなかった。
「紫鬼様……」
奈津は、泣きそうになりながら笑った。
私の返事は――。
◇
「きゃあああっ!」
悲鳴が往来に響き渡った。
人々が我先にと逃げ惑い、店先の商品が踏み散らされる。
奈津もその場を離れようとしたが、押し寄せる人波に呑まれ、気づけばひとり取り残されていた。
目の前には、一体の妖。
若い男に近い姿をしているが、頭には鼬のような耳があり、腰からは細長い尾が伸びている。
そして、その身体には黒い靄のようなものが濃くまとわりついていた。
「ぐ……っ、あ……」
妖は頭を抱え、苦しげに身体を震わせている。
不意に腕が振れ、近くに積まれていた木箱が崩れ落ちた。
すぐ傍にいた男が悲鳴を上げて逃げ出す。
妖の腕が、その背を追うように伸び――寸前で止まった。
「ぐ……っ!」
震える腕を、もう片方の手で必死に押さえ込んでいる。
奈津は息を呑んだ。
(まだ……理性が残ってる)
妖の身体を覆っているのは《穢れ》だ。
憎しみや悲しみといった負の感情を溜め込みすぎた妖は、やがて心も身体も蝕まれ、本来の姿を失う。
それが《異形化》。
けれど目の前の妖は、まだ人に近い姿を保っている。
今なら助けられるかもしれない。
そう思った直後、妖の身体が大きく震えた。
「う、あああっ!」
腕が振り抜かれ、奈津は避けきれなかった。
肩へ強い衝撃が走り、身体が地面へ投げ出される。
「……っ!」
痛みに顔を歪めた奈津の耳へ、聞き慣れた声が届いた。
「お姉様」
顔を上げる。
混乱する往来の向こうから、一人の少女が悠々と歩いてくる。
亜麻色の髪に、華やかな薄紅の着物。
その周囲には、少女を守るように数人の祓い師が控えていた。
奈津より二つ年下の妹――綾乃だ。
「まあ、お姉様」
綾乃は倒れた奈津を見下ろし、くすりと笑った。
「こんな低級妖相手に、ずいぶん情けない姿ね」
「綾乃……」
「本当に、役に立たないのね」
奈津は唇を噛み、再び妖を見る。
瞳にはまだ、辛うじて理性の光が残っている。
「……もう駄目そうね」
綾乃の一言で、周囲の祓い師たちが刀へ手をかけた。
「待って……!」
奈津は咄嗟に声を上げた。
「まだ完全には異形化してない。今なら浄化すれば、助けられるかもしれない」
縋るように綾乃を見る。
「お願い。綾乃ならできるでしょう?」
「……はぁ?」
綾乃は心底呆れたような顔をした。
「嫌よ」
「……え?」
「名家の妖でもないのに、どうして私が力を使わなきゃいけないの?」
「でも、このままだと――」
「だったら、異形化してから祓い師に討ってもらえばいいでしょう?」
奈津が言葉を失った、その時。
「綾乃」
男の声が割って入った。
祓い師たちの中から、一人の青年が進み出る。
久世 宗一。
祓い師の名家・久世家の嫡男で、奈津とは幼い頃からの顔馴染みだった。
「下がっていろ」
「宗一さん、待って。この妖はまだ――」
言い終える前に、妖の身体が大きく脈打った。
黒い穢れが、一気に膨れ上がる。
「ぐ、あああああっ!」
細かった腕が異様に膨らみ、指先から鋭い爪が伸びる。
人に近かった面影が見る間に崩れ、瞳に残っていた最後の理性の光が消えた。
「異形化したぞ!」
奈津の顔から血の気が引く。
「綾乃、お願い! 浄化を……!」
「無駄よ」
綾乃は冷めた目で妖を見た。
「完全に異形化した妖に、普通の浄化は効かないって知ってるでしょう?」
「でも……!」
「もう遅いの」
ほんの少し前なら、助けられたかもしれなかったのに。
宗一が刀を抜く。
「討つぞ」
「待って……!」
奈津の声を置き去りに、白刃が閃いた。
やがて、異形と化した妖の身体が地面へ崩れ落ちる。
奈津は、ただ見ていることしかできなかった。
「お姉様」
立ち去りかけた綾乃が振り返る。
「そんな顔をするくらいなら、自分で浄化すればよかったのに」
奈津は俯き、強く手を握りしめた。
——できないと知っているくせに。
◇
「昨夜は、浄化の力を使わなかったそうだな」
九条家当主である父・正臣の声に、奈津は急須を傾ける手をわずかに止めた。
「ええ」
正臣の言葉に、綾乃は涼しい顔で答える。
「もう手遅れのようでしたし。それに私、この力を安売りするつもりはありませんもの」
「それでいい」
正臣は満足そうに頷いた。
「お前ほどの浄化の力を、名もない低級妖に浪費する必要はない」
奈津の指先が、急須の柄を強く握る。
「何をぼうっとしているの」
継母の明美から、冷ややかな声が飛んだ。
「給仕くらい、まともにできないの?」
「……申し訳ありません」
奈津は俯き、再び茶を注いで回る。
正臣、明美、綾乃の三人が囲む膳には、炊きたての白米や焼き魚、湯気の立つ汁物が並んでいる。
同じ九条家の娘でありながら、奈津の席はそこにはなかった。
焼き魚の香ばしい匂いに、腹の奥が小さく鳴る。
今日はまだ、湯で薄めた僅かな粥しか口にしていない。
「……お姉様?」
綾乃の声に、奈津は我に返った。
「お腹が空いたの?」
綾乃がくすりと笑う。
「そんなにじっと見て。まるで乞食みたい」
奈津の頬が熱くなった。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「あら、謝らなくてもいいのよ。そうだ、私のを分けてあげる」
綾乃が煮物をひとつ摘まむ。
けれど、それは奈津の手ではなく、足元へ落とされた。
ぽとり。
「ほら」
綾乃は何でもないことのように微笑む。
「お姉様には、これでも十分ご馳走でしょう?」
奈津は床に転がった煮物を見つめた。
正臣も明美も、何も言わない。
やがて正臣が、何事もなかったように口を開いた。
「綾乃。お前もそろそろ、婚姻の申し込みが来る頃だな」
綾乃の顔がぱっと華やぐ。
「これほどの浄化の力を持っているんだ。さぞ格の高い妖家から声がかかるだろう」
「ええ。あなたなら九条家に素晴らしい縁をもたらしてくれるわ」
明美も嬉しそうに頷いた。
楽しげな三人の声を聞きながら、奈津は床へ視線を落とした。
――浄化の力。
それさえあれば。
自分も、あの輪の中にいられたのだろうか。
◇
この国では、人と妖が共に生きている。
けれど、その力は決して対等ではない。
人より遥かに長く生き、強大な力を持つ妖。とりわけ高位の妖ともなれば、人間の力など到底及ばない。
そんな人と妖も、かつては激しく争っていた時代があった。
当時、人間側では霊力を操り、妖を討つ術を持つ者たち――現在《祓い師》と呼ばれる者たちが中心となって妖と戦っていた。
長く続いた争いの中で、恐怖や憎しみ、悲しみから生まれる《穢れ》が世に溢れていく。
妖は穢れを溜め込みすぎれば心も身体も蝕まれ、やがて自我と本来の姿を失って《異形化》してしまう。
そして争いの中で、その穢れを取り除く力が、人間の娘にごく稀に宿ることが分かった。
浄化の力。その存在をきっかけに人と妖の間には和議が結ばれ、長い争いは終わった。
以来、浄化の力を持つ娘は妖にとって貴重な存在となり、年頃になれば妖の家へ花嫁として迎えられる者も多い。
とりわけ高位の妖に選ばれることは、その生家にとって大きな名誉だった。
一方、現在の《祓い師》は、妖そのものを敵として討つ存在ではない。
人に危害を加える妖や、穢れによって異形化した妖を討ち、人々を守ることを役目としている。
九条家は、そんな祓い師を代々輩出してきた家だった。
そして奈津の母・佐代子の一族には、強い浄化の力を持つ娘が生まれることがあった。
しかし佐代子はもともと身体が弱く、奈津を産んだあと、二人目の子を望める状態ではなかった。
跡取りとなる男児を得られない以上、正臣の期待は長女である奈津へ向けられた。
九条家の長女として。
せめて、強い浄化の力を宿してほしい――と。
けれど、奈津には何度調べても、その兆しさえ現れなかった。
奈津に力がないことを責める正臣から、佐代子だけは最後まで奈津を庇ってくれた。
だが、もともと身体の弱かった佐代子は、奈津が十二歳になる前に亡くなった。
ほどなくして正臣が新しい妻として迎えたのが、明美だった。
その傍らにいたのが、綾乃だった。
後になって奈津は知った。
佐代子が生きていた頃から、正臣と明美は関係を持っていたこと。
そして綾乃が、二人の間に生まれた娘だったことを。
さらに綾乃には、奈津がどれほど望んでも得られなかった強い浄化の力が宿っていた。
『素晴らしいぞ、綾乃!』
妖の穢れを祓う綾乃を、正臣は誇らしげに褒めた。
その直後、奈津へ向けられた顔から笑みが消えた。
『……同じ私の娘とは思えんな』
それからだった。
奈津が《出来損ない》と呼ばれるようになったのは。
綾乃は九条家の娘として大切に育てられ、奈津は次第に家の奥へ追いやられた。
気づけば、九条家の娘ではなく、使用人のように扱われることが当たり前になっていた。
◇
昼下がりの町は、多くの人で賑わっていた。
奈津は両腕いっぱいの包みを抱え、少し先を歩く綾乃のあとを追っていた。
「遅いわよ」
「ごめんなさい」
奈津はずり落ちそうになった包みを抱え直した。
仕立て上がったばかりの着物に、いくつもの新しい簪。
そのうちの一本は、さっそく綾乃の亜麻色の髪を華やかに飾っている。
どれも、これから良縁を結ぶであろう綾乃のために、惜しみなく買い与えられたものだ。
奈津が荷物を抱え直した、その時。
通りの先から、波が引くように人々が道の両脇へ寄り始めた。
「……何?」
つい先ほどまで賑わっていた往来が、静まり返っていく。
「まさか……堂目道家の……?」
「紫鬼様だ」
周囲から囁きが上がる。
やがて数人の妖を従え、一人の男が姿を現した。
白銀の髪が陽の光を受けて煌めいている。
人ならざるほど整った顔立ちに、深い紫の瞳。
ただ歩いているだけなのに、その場にいるすべての者を圧するような存在感があった。
奈津は思わず息を止める。
――綺麗な方。
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
道端から、誰かの囁き声が聞こえる。
「本当にお美しい方ね」
「けれど、目を合わせるなよ。鬼の中でもあのお方は別格だ」
妖にも、血筋や力による格がある。
中でも《鬼》は、数ある妖の頂点に立つ種族。
そして堂目道家は、その鬼の中でも屈指の力と歴史を誇る名家だった。
その若き当主こそ、紫鬼。
人間の名家にとって、高位の妖との婚姻は大きな名誉だ。
まして堂目道家ともなれば、娘を持つ家々が一度は夢見るほどの相手だった。
「堂目道家って、一度も人間の花嫁を迎えたことがないんでしょう?」
「ああ。紫鬼様ご自身にも何人もの縁談が持ち込まれたそうだが、すべて断っているらしい」
そんな囁きが聞こえる中、綾乃は紫鬼を熱っぽく見つめていた。
「……素敵」
「綾乃?」
「私、決めたわ」
綾乃は遠ざかる白銀の後ろ姿から目を離さない。
「どうせ嫁ぐなら、あれくらいの方でなくちゃ」
「でも……堂目道家は、人間の花嫁を迎えたことがないって……」
「今までの女と私を一緒にしないで」
綾乃は当然のように笑う。
「私ほど強い浄化の力を持つ娘なんて、そうはいないでしょう?」
奈津は何も言えなかった。
綾乃は遠ざかっていく白銀の後ろ姿を、いつまでも熱っぽく見つめていた。
奈津もまた、その姿を目で追った。
ただ――自分とは決して縁のない、遥か遠い存在として。




