否定できない
「偽装カップル」の設定を学内に定着させるためには、放課後だけでなく休日の行動もそれらしく見せなければならない。
そう言い出したのは一ノ瀬汐恩だった。そして気がつけば私は休日の映画館でポップコーンのバター臭に包まれていた。
選んだ映画は恋愛映画にしては重ためのヒューマンドラマだ。私が「知的であれば優等生の設定に合う」と提案したのだが、チラリと横を見た瞬間にその判断を後悔した。
一ノ瀬汐恩があからさまに眠そうな顔をしている。
暗闇の中、スクリーンの明かりが彼の横顔を照らす。彼は肘掛けに顎を乗せ、目を細くしてはパチリと開けるを繰り返していた。長い睫毛が重たそうに震え、時折小さくあくびを噛み殺している。
胸の奥に、チクリとした痛みが走った。
(つまらないのだろうか。この映画が。いや、私といる時間が)
私は「優等生の二宮楓」を演じ、気の利いたジョークの一つも言えず、真面目な映画を選んでしまった
「彼氏を退屈させるような女」というレッテルが私の脳裏をよぎる。もしこれが本当の恋愛なら、彼はもう私とのデートに飽きているはずだ。
(バカバカしい。なぜ私が、こんな男の機嫌を気にしなければならないんだ)
頭ではそう否定するのに、胸が締め付けられるように苦しい。スクリーンで繰り広げれる感動的なシーンが私の目には一切入ってこなかった。
映画が終わり明かりがついた瞬間、私は努めて冷静な声を出した。
「……期待外れでしたか、この映画」
汐恩はのそのそと身体を起こし、首をコキコキと鳴らした。
「んあ? 映画? いや、俺、結構面白かったぜ。主人公の妹のとこ泣けた」
「嘘おっしゃい。半分以上寝ていたじゃないですか」
私は自分の口調が棘立っているのを自覚した。汐恩はキョトンとした顔で私を見る。
「寝てねーよ。ちょっと目閉じてただけだって」
「どうでもいいです。映画館で寝るほど退屈だったなら、最初からデートなんて誘わなければよかったのに」
ぶっきらぼうに言い放って私は席を立った。ポップコーンのカップを握りしめる手が震えていて、怒りだか悲しみだかわからない感情が込み上げてくる。
劇場を出て日の当たるロビーに出た時、汐恩が私の腕を引いた。
「待てよ、楓。なんで怒ってんの?」
「怒ってません。事実を指摘しただけです」
「俺さ、昨夜全然寝てねえんだわ」
彼は困ったように髪をかき上げた。
「は? なぜですか」
「バイト先の閉店作業が長引いて帰るのが遅くなったんだよ。そのあと妹の熱が急に出て面倒を見てから、正直今めちゃくちゃ眠い」
私は言葉を失った。
「映画、楽しみにしてたんだよ。楓と来れるからって。だから寝ないように必死だったんだけどな、身体が言うこと聞かなくてさ。ごめん」
彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
私の胸からすっと重しが取れた。(私のせいじゃなかったんだ)という安堵感が身体中に広がる。同時に昨夜ろくに寝ずに働き、妹の世話をして、それでも私とのデートを優先してくれた彼に対して強烈な何かが突き上げてきた。
(なんだ、この男は)
自分のことを後回しにして周りを気遣う。その無骨な優しさが、私の「男としてのプライド」をいとも容易く溶かしていく。
「……なら、そうと早く言いなさいよ。映画、つまらなかったんじゃないかって、私が……」
言いかけて私は口を閉じた。「私が不安になった」とは言いたくない。だが、汐恩は私の言わんとすることを察したのか、ふっと柔らかく笑った。
「ごめんごめん。次は絶対起きてるから。リベンジさせて」
その笑顔がスクリーンの光よりも眩しく見えた。
帰り道、駅への道を並んで歩く。秋の冷たい風が吹いた時、私は無意識に彼の腕に自分の腕を寄せていた。
「お、寒いのか?」
汐恩が私を見下ろす。私は慌てて離れようとしたが、彼は逆に自分のコートの裾を私の方に被せ肩を抱き寄せた。
「こうすりゃ暖かいだろ」
体温が伝わる。ドクリと心臓が跳ねた。男の腕の中。かつての私なら絶対に許さなかった領域。なのに、今はそこが世界で一番安心できる場所のように思える。
(もしかして、私……)
私はそっと横を見上げる。彼は眠そうに目を細めながらも、私を気遣うように歩調を緩めていた。
(もしかして、私、この男のことが…好きなのか?)
その考えが頭を過ぎった瞬間、心臓が早鐘を打った。元男である自分が男に恋をする。それはかつての私が最も忌み嫌ったありえない展開。
でも、否定できなかった。
この胸の奥が痛くなるほどの切なさも、彼の笑顔を見た時の安堵感も、すべてが「好き」という感情以外の何物でもない。
「……一ノ瀬くん」
「ん?」
「コーヒー、奢ってあげます。眠気覚ましに」
私は真っ直ぐ前を向いたまま精一杯の虚勢を張って言った。頬が燃えるように熱い。
「マジで? サンキュー、彼女さん」
彼が嬉しそうに笑う声を聞きながら、私はそっと自分の唇を噛みしめた。
学園ラブコメのヒロインみたいだと自分を嘲笑う余裕は、もう私にはなかった。




