ほんの少しの期待
放課後。
夕陽が校舎を茜色に染める時間。私は鞄を持って教室を出ようとした。
「お、楓。一緒に帰ろ」
背後から汐恩が追いかけてきて、私の隣に並んだ。
「……一ノ瀬くん。下校も一緒にする必要はないでしょう。方向が違うはずです」
「いいからいいから。カップルが下校別々ってのは不自然だろ? ほら、噂の裏付けだよ」
彼は私の鞄を勝手に持ち上げた。
「返してください。重くありません」
「男が荷物持つのが普通だろ。俺の彼女だし」
「偽装だと言っているでしょう!」
「うるせえな。細かいこと気にすんなよ」
私たちは校舎を出て並木道を歩いた。秋の風が少し冷たく私のスカートを揺らす。他の生徒たちが楽しそうに話しながら通り過ぎていく。
「……人が見てます。もっと自然に振る舞ってください」
「ん? じゃあ、手繋ぐ?」
「絶対に嫌です!」
「ケチだなあ。じゃあせめて笑ってくれよ。お前、いつもツンってしてるから」
「ツンって何ですか。私は優等生として模範的な態度を示しているだけです」
「優等生も、彼氏の前じゃデレるもんだぜ」
「デレるわけないでしょう!」
私は歩調を早めた。彼も長い脚で簡単についてくる。
「なあ、楓。あの先輩のことだけどさ」
彼が急に真面目な声を出した。
「先輩? 何ですか」
「あいつ、俺の先輩の先輩から聞いたんだけどさ、結構女に手が早いらしいぞ。お前が断って正解だったよ」
「……知ってます。だからあなたの嘘に乗ったんです」
「だよな。ま、俺がいるから安心しろよ。俺がお前のこと守るから」
彼はそう言って不敵に笑った。その横顔が夕陽に照らされて鮮やかに浮かび上がる。「守る」という言葉が私の胸にストンと落ちた。
かつて私が男として生きていた時、誰かを守ると言ったことはあっても、守られると約束されたことはなかった。女の身体になった今、力のなさを痛感する私にとってその言葉は皮肉なほど頼もしく聞こえる。
「……お世話になります、とでも言えば満足ですか」
「おう。もっと素直になれよ」
「素直になったら、あなたが調子に乗るだけでしょう」
「バレたか」
彼は悪びれもせず笑った。
駅までの道のり。私たちは他愛のない話をした。私の好きな本の話、昨日のテレビの話。どれも特別な内容じゃない。ただの世間話だ。
でも、彼と歩く夕暮れの道はいつもと違って見えた。一人で歩くいつもの帰り道が何故か短く感じる。隣から聞こえる彼の足音と低い声が心地よいリズムを刻む。
(馬鹿な。こんなのただの偽装だ。中身は男なのに。男と一緒に帰ってときめくなんて、ありえない…)
私は自分に言い聞かせる。だが、鞄を持ってくれた彼の手や、たまに肩が触れる感触が身体の芯を熱くする。
「じゃあ、ここでいいか?」
駅の改札前。彼は私の鞄を手渡した。指先が触れ合った瞬間、ビクッとしてしまった。
「……はい。ありがとうございます」
「ん。また明日な、楓」
「……ええ、また明日。一ノ瀬くん」
改札の向こうでは彼が手を振っているのが視界の端に見えた。私は小さく手を挙げて答える。
改札を通ってホームに立つまで私の心臓はまだドキドキと鳴り続けていた。
「……本当に、最悪だ」
私は独り言を呟き、熱くなった頬を手で覆った。
学園ラブコメなんて大っ嫌いだ。
でも…明日も彼が「よお、彼女さん」と声をかけてくることを、私はほんの少しだけ期待してしまった。




