偽装カップル
翌日の朝。
教室の扉を開けた瞬間、空気が一瞬にして凍りついた。
いや、凍りついたのは私の周囲だけだ。教室中の視線が一点——私の上に集中している。
「おはよう、楓ちゃん」
親しいクラスメイトの莉奈がニヤニラした顔で手を振ってくる。その含みのある笑みが尋常ではない。
「おはよう。何? その顔」
「何が〜? 楓ちゃんこそ、何かいいことあったんじゃない?」
話が見えない。私は眉をひそめつつ、自分の席に向かおうとした。
ふいに「よっ、おはよう。楓」
私の席の隣。いや、そこは一ノ瀬汐恩の席ではないのだが……なぜか彼はふんぞり返って座っていた。しかも私の机の上に彼の腕が置かれている。
「あなた、なんで私の席にいるんですか」
「いや、今日から俺たちの席隣にしてもらったから。先生に頼んだ」
「はあ!?」
「ええ〜!? 本当なんだ! やっぱり付き合ってるんだ!」
莉奈が声を上げると、教室中がドッと沸いた。「お似合いだよ!」「一ノ瀬くんと二宮ちゃんとか最高じゃん!」「昨日校舎裏で迫ってたの見たよ!」等々、次々と飛び出す言葉に私は目眩がした。
「ちょ、ちょっと待ってください! 付き合ってなんていません! 昨日はあくまで……あの、一ノ瀬くんが助けてくれただけで……」
「助けてくれた、って。それ、俺のこと彼氏って言ってくれた時の話だよね?」
潮恩があろうことか私の肩に腕を回してニカっと笑う。
「っ……あ、あれは状況的に仕方なく……!」
「へえ、楓ってそういう子だったんだ。俺のこと利用してたんだ」
「利用なんてしてません! あなたが勝手に……!」
「じゃあ何? 俺のこと好きなの?」
意地の悪い問いかけに、言葉が詰まる。
「好き」なんて言うわけがない。中身は男だ。こんなチャラい男、大嫌いだ。だが、「嫌い」と言い放てば昨日の嘘がバレて先輩にまた絡まれることになる。
「……どっちでもありません」
「よし、じゃあ俺たち付き合ってることにしよう」
「勝手に話を進めないでください!」
「だってさ、俺たち付き合ってるって噂になってるんだよ。ここで『嘘でした』って言ったら、あの先輩また絡みに来るぜ? 『じゃあ俺にチャンスあるんだな』ってさ」
ぐっ、と喉が詰まる。悔しいが、彼の言う通りだ。あの先輩はしつこい。嘘とはいえ、「彼氏がいる」という事実が最強の防壁になる。
この男を盾にするのは屈辱だが、あの先輩よりはマシだ。
「……あなた、何が狙いですか」
「何って、俺は別にいいけどね。俺の噂が出るのは日常茶飯事だし。それに……」
潮恩はそう言って私の顔を覗き込んできた。至近距離。長い睫毛の奥にある瞳が私を真っ直ぐに見つめる。
「悪い気しないから」
「は……?」
「俺と付き合ってるって言われて、嫌?」
心臓が跳ねた。
ドクリ、と音が聞こえるほど大きな鼓動。男としての私が、女としてのこの身体の反応に吐き気を催す。男に見つめられてときめくなんて、あってはならないことだ。
「……全然、いい気がしないです。最悪です」
「嘘つけ。顔赤いぞ」
「気のせいです! 朝日が眩しいだけです!」
「はいはい。で、どうする? 偽装カップル、やる?」
私は深く、深く息を吐いた。
ここで「嫌だ」と言えば終わりだ。先輩に付きまとわれる生活が続く。かといって、この目の前の厄介な男と「付き合っている」ことを演じるのも精神的に死ぬほど労力がいる。
だが、選ぶなら後者だ。少なくとも彼は私の「身体」を守る盾になる。
「……わかりました。ただし、条件があります」
「聞こう」
「一、学外では一切関わらない。一、必要以上のスキンシップは禁止。一、私の勉強の邪魔をしない。これを守れるなら、あなたの言う通りにしてあげてもいいです」
私は三本の指を立て冷徹に告げる。潮恩はそれを見て、ふっと楽しそうに笑った。
「おっ、やる気出たな。面白いよ、楓」
「ふざけないでください。あくまで偽装です。恋愛感情なんてミリもありません」
「はいはい。じゃあ、今日からよろしくな、彼女さん」
彼が私の頭をわしゃわしゃと撫でた。そのあまりに自然な手つきに、私は思考を一瞬停止させる。
男に頭を撫でられるなど、かつての私がいたら即座に殴り飛ばしていた行為だ。
なのに、今の私はどうだ。仮面の奥で顔を赤らめ、動揺している。
この身体がこの状況を完全に「恋」だと思い込もうとしている。
「……最悪だ」
私が小さく呟いたその声は教室の喧騒にかき消され誰にも届かなかった。
かくして私は大嫌いな一ノ瀬汐恩との「偽装カップル」生活をスタートさせることになった。
中身が男であることを隠し、優等生を演じて、さらにイケメン男子の彼氏役まで演じるという三重の虚構。
私の平穏な高校生活は今日をもって完全に崩壊した。
でも…彼の隣で聞く「おはよう」の声だけは…どうしても不快にならない。
それが一番、たちが悪い。




