誰が袖
――人に覚ゆれど、他人ならぬ者ども。
千里の先にも、春来たる。
悩ましい樟脳の香り。
古びた箪笥の奥に眠っていたのは、何も着物だけではなかった。
霞んで褪せたたとう紙に包まれた着物は、あちこちが黄ばみ、裾には小さな黒点が幾つも浮いていた。
炊き染めた白檀の香りが、ふわりと立ちのぼる。
まるで、今しがた誰かが袖を抜いたばかりのように。
長いこと放られていたはずの着物なのに。
樟脳のつんとした香りの奥に、微かに甘く湿った匂いが鼻を擽る。
着物の奥から立ち上る、誰かの記憶――。
あの白檀の香りは、幼き日のあの人の手。
瞬間、言葉も、顔も、声すら思い出せないのに、その手の温度だけが、確かに胸の奥で燻っていた。
背後で、畳が軋んだ。
……誰か来たか。そう思った途端、炊き染めた香がまた、ふわりと鼻をかすめた。
それは、着物からではなく――すぐ、真後ろから。
「朝陽や、どこおるんけ」
その声は、部屋の外――廊下の向こうから届いた。
床を擦るような足音が、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。ギシ、ギシ、と。
この気配は、祖父のものだ。
襖の向こうに佇む、あの独特の間合い。
足音が鴨居を越えぬうちに、朝陽はたとう紙を手早く巻き、着物をぐいと箪笥に押し込む。
樟脳の香りがふわりと舞った。
何食わぬ顔で、ゆっくりと振り返る。
「朝陽、おったんか。……えらい、黙っとるな」
襖が音を立てて開く。
祖父の影が、畳の上に滲むように揺れていた。
「そこにキモン戻したんか。そのキモンはなあ……お前のばあが、嫁入りに持ってきたもんや。着とった姿、わしもよう覚えとる」
「……え、でも、そんな話――」
「誰にも言うとらん。けどのう、わかんのさ。わしの鼻にはなあ、あの人の白檀の匂いが、まだ残っとる」
そうして祖父は、白檀の残り香を探すように、鼻先をぴくりと動かした。
けれども、もう白檀の香はおろか、着物の温もりすら、そこには残っていなかった。
ばあさんの服って大体樟脳の香りするよね(偏見)
って思いながら書きました。




