まほら
「この山にゃ、まほらがあるんだとよ」
祝部の源助さんが、ぽつりとそう呟いた。
この辺りでは名の知れた山菜取りで、何十年と霞樒の山を踏んできた男だ。
祝部といえば、この神垣村でただ一つの拝み屋。
代々続く由緒ある家筋で、かつては村を治める地主でもあった。
今も村の相談役として一目置かれているが――それはあくまで、この土地の中での話。
「……まほらって、何」
朝陽は尋ねた。
祝部の分家の、さらにまたその枝葉に当たる家の生まれである。
けれど、自分がその血を引いていると知ったのは、つい数年前のことだった。
「霞樒に、雲さかかった時だけ……見えるらしい。まほらの入口がな」
源助さんは、そう言って山のほうへぬかずいた。
両の掌を合わせ、しばし静かに目を閉じる。
霞樒山は、祝部の土地だった。
誰も見たことはない。けれど、誰もが噂はしていた。
山の気が変わるのは、だいたい決まって曇天の日だ。
雲が重く垂れ込め、風も鳴かぬような静けさの時――何かが、こちらを見ている気がするのだと。
朝陽は源助さんの言葉に少し震えながらも、どこか胸の奥でくすぶる好奇心を抑えきれなかった。
「まほら……本当にあんのかな」
昼の明るさの中で見る霞樒山はただの静かな山に過ぎないのに、雲が垂れこめた曇天の日には何か別のものが潜んでいる気がしてならない。
だが、源助さんの前では大人しくしている。
まだ怖がっているフリをして、声を潜めて尋ねるだけだ。
「源助さん……それホントなん?」
源助さんは軽く首を振り、柔らかな笑みを浮かべた。
「それは、神さんのさじ加減だで。誰でも連れてくわけじゃねえ。オメエ次第だ」
朝陽はその言葉にますます謎が深まった。
「……じゃあ、俺はどうなんだろう」
「やめとけ。藪漕ぎして、警察呼ばれた奴もおる」
源助さんはそう言うと、視線を霞樒の山のほうへやった。
誰も通らない藪ばかりのその山に、噂を聞きつけた若衆が、肝試しだか冒険心に駆られて忍び込んだらしい。
そして、そのまま帰らなかった。
山狩り、村民、交流のある集落、警察――必死になって探し回ったが、結局、骨一本見つからず。
ただ一人、村の若衆が、妙なことを言い出したという。
「そういえば、あいつ……“まほら”がどうとか……呟いてました」
霞樒の山では、昔から“境”と呼ばれる場所がある。
その中に、赤い、立派な太鼓橋があるという。
人はそれを指して、“境”と呼ぶそうだ。
朝陽は、無意識に唾を飲み込み、喉元をぐっと押さえた。
「……境って、どこへ繋がるのさ」
「さあな」
源助さんは、やおら尻の物入れから煙草を取り出し、火をつける。
ふう、と吐き出された煙が、ゆっくりと空へ溶けていった。
「だが、まあ……あの山は、何かを孕んどる。いつの時代も、な」
朝陽は、山を見た。山は静かだ。
ただ静かで、その静けさの奥に、すべてを秘めている。
まるで――答えを、待っているかのように。
「まほらがあるらしい」(これで元ネタが分かったら仲間)




