4. 記憶の抜け落ちた部屋
4. 記憶の抜け落ちた部屋
目を開けた瞬間、最初に見えたのは見慣れた天蓋だった。
薄いレース越しの朝の光が揺れている。静かで、整いすぎたいつもの部屋。私室だ。ヴァルディア家の屋敷──
(……現実に戻ってきている)
そう思ったはずなのに、安心はなかった。ゆっくりと右手を持ち上げる。指先にわずかな痛みが残っていた。小さな針で刺されたような痛みだ。そこには薄く赤い痕が残っている。血は止まっているのに、その場所だけが妙に熱い。
そして――
胸元に手を伸ばす。
エメラルド色のペンダント。
それは、さっきまで古いただのペンダントだったはずなのに、今は違う。まるで呼吸しているみたいに、微かに熱を持っている。
「……これ」
(私が昔から持っていたペンダント……)
それに視線を落とした瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。
(……それに、何か言われた気がする)
でも思い出せない。
思い出そうとすると、そこだけが白く塗りつぶされるように抜け落ちる。記憶が混乱していて、嫌な感覚だった。
「……とにかくあの契約は、夢ではなかったのですね」
声は小さく、天井に吸われるように消えた。
身体を起こすと、寝台の布が静かに擦れる音だけが響く。
部屋は整いすぎているほど整っていた。誰かが必ず手入れしている、揺らぎのない空間。
それなのに、ひとつだけ違和感がある。
空気の奥に、“それ”がいた気配が残っている。
(……ここに、まだいるの?)
私はゆっくりと呼吸を整え、寝台から降りた。そのときだった。
「お目覚めになられましたか」
扉の向こうから、控えめな声。侍女の声だった。
「お水をお持ちいたします」
「……お願い」
短く返すと、扉が静かに開き、銀盆に載った水差しが運ばれてくる。何も変わらない。いつも通りの朝。なのに、グラスに注がれる水の音がやけに遠く感じた。
一瞬だけ、世界から音が抜け落ちたような“無音”。
侍女の動きも止まっていないのに、そこだけ切り取られたような違和感。
(……今のは)
次の瞬間、耳の奥に声が落ちた。
「起きているな」
息が止まる。周囲を見ても、誰も変わらない。侍女も、窓の外も、いつも通りの朝。なのに、その声だけが“内側”に響いている。
「……シア?」
呼んだ瞬間、指先の傷がじわりと熱を持った。
契約の痕。そこが脈を打つように熱い。
(ここに……いるのですか?)
返事はない。
しかし、“見られている”という確かな感覚だけが残る。侍女が水を置いて下がるとき、何も気づいていない顔をしていた。この異常を認識しているのは、どうやら私だけらしい。私はグラスを持ち上げ、ゆっくりと水を口に含んだ。
味は普通だった。なのに、喉を通ったはずの水が、“どこにも落ちていない”ような感覚があった。
(シアと感覚を共有している……?)
確信に近いものが胸の奥に落ちる。そのとき、視界の端がわずかに揺れた。天蓋の布が、風もないのに一瞬だけ“歪む”。そこに、誰かの影が立った気がした。
「シア、契約はこれで終わったの?」
返事はない。けれど、空気の“密度”が変わる。
見えないだけで確実に、いる。
——次の瞬間、視界の端が歪んだ。“それ”は、最初からそこにいたみたいに、何の前触れもなく、形を持った。
「終わっていない」
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その言葉に、息が詰まる。シアは慣れたように私のベットの縁へ腰掛けた。
「正確には――始まったばかりだ」
胸の奥が、ざわつく。
契約の儀は成功した。
つまり、シアは最初から長期間の契約を結んでいるということだ。
⸻
「じゃあ、その契約って……」
目的は?契約期間は?と言いかけた瞬間、また頭が揺れる。強い違和感。
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(さっき、何を……)
(私は何を“した”?)
(それに、断罪は……?私はどうして自室に?)
(あの場は、どうなったの?)
思い出そうとした瞬間、頭の奥が強く“拒絶した”。
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「気にするな」
シアの声が落ちる。
「今はまだ、その段階ではない」
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“まだ”
その言い方が、ひどく引っかかる。
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「ひとつだけ言っておく」
シアが続ける。その声は静かだった。
「そなたはもう、戻れない」
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「……戻れない?」
「契約とはそういうものだ」
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(違う)
(そんな軽い言葉じゃない)
頭のどこかが、そう叫んでいるのに言語化できない。
……一体、私は何を?頭が分裂しそうだ。
私が、私でないみたいだ。
窓から風が吹きこみ、シアの白くて綺麗な髪が靡いている。
⸻
胸元のペンダントが、またわずかに熱を持つ。
シアの言葉や存在に反応しているようだ。
(……そういえば、このペンダント)
どこで拾ったのか——
思い出せない。
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情報量が多すぎて思考がまとまらない。
シアが混乱している私を一瞥して、静かに言った。
「次に“死ぬ未来”を見たとき」
「そなたは、もう一度気づくだろう」
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「何に……?」
問いかけた瞬間。
シアは少しだけ目を細めた。
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「――私たちが、何度目かだということに」
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その言葉だけが、妙に頭に残った。意味は分からない。
でも、なぜか胸の奥が冷える。
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(……何度目?)
⸻
ペンダントが、微かに脈打った。




