3. 契約
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静寂が、落ちている。音がないというより、音そのものが、最初から存在していないかのような空間だった。
息を吸う音すら、やけに遠い。
足を動かしても、床を踏んでいる感覚が曖昧で――
自分がどこに立っているのかさえ、はっきりしない。
広がりも、奥行きも分からない。
ただ、“何もない”という事実だけが、確かにそこにあった。
そして、私の隣に、“それ”がいる。
視線を向けた瞬間、ぐらり、と頭の奥が揺れた。
「……っ」
反射的に目を細める。見えているはずなのに、"それ"の形が定まらない。輪郭を捉えようとすればするほど、わずかにずれていく。
まるで、“人が認識していい形をしていない”みたいに。
焦点が合わない。
いや――合わせてはいけないと、本能が拒んでいる。
「無理に見なくていい」
淡々とした声が落ちる。
「……でも、見ないわけには…」
言い返しながらも、視線を逸らした。その瞬間、わずかに楽になる。視線を戻すとまた足元がぐらついてくる。
(……なに、これ、私では見ることさえ許されないと言うの?)
「……まだ慣れていないだけだ」
「慣れ?」
問い返すと、“それ”はほんのわずかに間を置いた。
「契約前の人間が、私を正面から認識し続けることはできない」
簡潔な言葉。けれど、その一文だけで、“ああ、そういうものなんだ”と、妙に納得してしまう。
「本来なら、視認すらできない」
さらりと付け足されて、言葉を失った。
(……じゃあ、なんで私は見えてるの?)
疑問は浮かぶのに、深く考えようとすると、思考が揺れる。じくじくと、頭の奥が痛む。
「……まあいい」
興味を切り捨てるように、言葉が落ちる。
「本題に入る」
逃げ場は、ない。
「そなたと契約を結ぶ」
唐突な宣告。
「……けいやく?」
今日何度目か分からない、間の抜けた声が出た。
「……拒否はできるの?」
恐る恐る問いかけた。わずかに喉が渇く。
「できる」
が、意外にも「できる」の即答だった。安堵したせいか、ほんの一瞬だけ呼吸が緩む。
――が、
「その場合、そなたはここで終わる」
静かな声音だった。脅しでも、怒りでもない。ただ、事実を述べただけのような口調。
……本当に私には逃げ場がないのだ、と確信せざるを得なかった。選択肢なんて、最初からなかった。小さく息を吐く。
「……ずいぶん私に対して優しいのですね」
皮肉のつもりだった。
「そうかもしれないな」
あっさりと返される。否定も、肯定もない。
ただ、“そういうものだ”と言われたような感覚だけが残る。
(……なんなの、この人……人でもなさそうか)
ほんの少しだけ、苛立ちが混じる。しかし、それと同様に好奇心も抱いていた。
(もっと、知りたい)
気づけば、口が動いていた。
「……お名前をお伺いしても?」
わずかな沈黙。それは一瞬だったはずなのに、妙に長く感じた。
「必要ない」
そっけない返答。
「……じゃあ、呼べないじゃないですか」
再び、沈黙。今度は、先ほどよりもほんの少しだけ長い。
寡黙な性格なのか、言葉を選んでいるのか……そのどれとも違うような気がする。芽生えたのはわずかな違和感。でも、一体どこに違和感があるのか自分でもわからない。
(教えて貰えないのなら、私が勝手に呼ばせてもらう)
考えて――私はその名前を口にする。
「……じゃあ、シアって呼んでもいいかな?」
その瞬間、空気が揺れた。
ほんの僅かに、けれど確かに何かが触れたような感覚。
「…………」
また静寂が訪れ、自分の呼吸音だけが遠くで響いている。
(……やっぱり、変だった?というか、敬語で話す方がいい?気に触った?)
そう思った、その時。
「……好きにしたらいい」
低く、落ちる声。こちらの心まで読まれているのかと思ったが、そうではないようだ。
安堵したのもつかの間、ほんの一瞬だけ彼が何かを“飲み込んだ”ような違和感が、そこにあった気がした。
(……今の、なに?)
問いかけるより先に、手首を掴まれる。
「……っ」
逃げるよりも早く、指先を取られる。
「――少しだけ、借りる……痛むだろうが問題はない」
問い返す間もないまま、ちくり、と小さな痛みが指先を掠めた。指先に、目線をやると、赤い雫が浮かぶ。
それを――彼が、触れた。その瞬間、血が、“引かれた”。
流れ出たのではない。内側から、引きずり出されるような感覚。
「――っ!!」
同時に、何かが流れ込んでくる。
冷たいのに、熱い。
異質なのに、拒めない。
体の奥に、直接触れられる。
侵されているのに――どこか、馴染むような感覚。
(……知ってる)
(――これ、前にも)
あり得ない感覚が、胸の奥で確かにそう告げていた。
記憶にはない。けれど、確かに“覚えがある”。
「名はまだいらない」
声が、脳内に直接響く。
「だが――そなたと私を繋ぐことはできる」
拒絶はできない、というよりーー
“拒むという選択肢が始めから存在しない”ようだ。
(だめだ、意識を保てない……)
意識が揺れる。
膝から崩れかけた、その瞬間、すべてが静まった。
「……え」
恐る恐る、顔を上げる。
ーーシアの姿が今度ははっきりと見えた。先ほどまで歪んでいた輪郭が、今は何一つ揺らいでいない。金色の瞳。白い髪。人の形をしていながら、決して“それではない”存在。
「……見える」
思わず、呟く。
「当然だ。今は、同じ側にいる」
その一言で、背筋が粟立つ。
(同じ、側……?)
理解はできない。けれど、もう“戻れない”ことだけは分かる。わずかに、彼の視線が細められる。その表情は、変わらないはずなのに、ほんの少しだけ――
“安堵した”ように見えた。
「ーー次は、失敗しない」
その言葉の意味を、私はまだ知らない。
ただ、どうしてか、その一言だけが、ひどく胸に引っかかっていた。




